第36話 記憶喪失.2

 友希さんの声は虚しく、滝本はすでに店の裏口から姿を消してしまっていた。

 上げた声を耳にして思った。

 性格はやや、強めか?

 友希さんは、あのバカ、と小さく言ったあと、俺に向き直ると苦笑いを浮かべながら「弟の友也が、ごめんね。急に頼んでしまって」と、申し訳なさそうに言った。

 俺は肩をすくめながらも、「まあ、仕方ないですね」と返事をした。滝本にうまく使われた気もしたが、ここまで来てしまった以上、引き受けるほかないだろう。


「ありがとう、助かるっ。バイト代は払うからっ」


 友希さんは、弾むような声を上げると、カウンターの下からトレイを取り出し、焼きたてのパンが乗ったトレイを俺に手渡す。

 そのとき、焼きたてのパンとは別のいい匂いが鼻についた。



「純君、今日はありがとうっ」


 俺の人生初アルバイトは、友希さんの、ほっとしたような笑顔で締めくくりとなった。

 あんなに嬉しそうに感謝の気持ちを伝えられると、悪い気はしなかった。

 急に呼び出されたときは少し面倒に感じたが、結局こうして人の役に立てた自分を褒めてやりたい。

 ほんと、あっという間だった。

 想像以上に賑わう店内に、客足が途切れることなく、老若男女が来店し、パンはあっという間に売り切れてしまった。

 まだ夕方にもならない時間に店を閉めた理由は、病院で検査入院している祖母を迎えに行くため、だと言っていた。

 空を見上げると、まだ日が高く、穏やかな秋の日が続いていた。

 重たい雲の隙間から差した、穏やかな陽射しの隙間を抜けていく澄んだ風が、微かに心を軽くした。

 そろそろ、本格的に長袖を常備する季節がやってくる。



「やば、私そろそろ行かなきゃ」


 結衣に言われて気づいた。ずいぶんと話し込んでしまった。窓ガラスからは傾き始めた斜陽が差し込んでいた。

 帰り支度をしようと思っていたら、真剣な表情の結衣と目が合った。

 どうした? と視線で訊くと、結衣は急にテーブルに肘をつき、体を前にぐっと倒してきた。顔が急接近してきたせいで、私は思わず「うわっ」と後ろにのけぞってしまう。

 そして、そんな私の反応を見て結衣はニヤリと笑い、「ほら、やっぱり逃げようとしてる」と、まるで悪戯をする子供のように言った。

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