第35話 記憶喪失.1


「……なるほど。そういうことか」


 結衣は、ことの経緯を聞いて、感慨深く呟いた。

 それと、もう一つ。

 昨日の別れ際に、杏から耳にした話も伝えた。昨日から、ずっと私を絶望の崖の縁に追いやっている話だ。

 それを聞いて、結衣が言葉に詰まってしまった。


「え、何それ?」


 まだ、事実が確定したわけではないから、少し悩んだけど、結衣には話してみようと思った。当然、結衣は大事なことを他言するような人物ではないのもある。

 というか、私一人では抱えきれなかった、というのが本音だったかもしれない。

 結衣は、まじか、と小さく声をこぼしてから口を開いた。


「本当なの? 記憶喪失って」


 改めて、他人から『記憶喪失』というパワーワードを耳にすると、たちまち崖の縁から崩れ落ちそうだった。



 何でか、祐天寺駅前にあるパン屋に向かっていた。

 メールの通知音が鳴り、『どうせ暇だろ?』という滝本のメールに、背中を押されるがままに来てしまった。

 まるで命令のような一方的な文面だったが、まあ、良い気晴らしになるかな、とも密かに思ってもいた。

 ……今はただ、別のことを考えていたい。



 少し歩いたところに滝本の祖母が営むという、パン屋はあった。

 店の入口には、小さな看板に『焼きたてパンあります』と手書きの文字が描かれており、どこか懐かしく、温かみのある雰囲気を漂わせていた。古びた外観ではあるが、そういった親しみやすさがこの店の魅力なのだろうか。

 ガラガラと音を立ててドアを開けると、カウンターの奥に、滝本が立っているのが見えた。俺の姿を確認すると、満面の笑顔で、手を振りながら迎え入れてくれる。


「おー、純、悪いな。助かる、助かる」


 その声に応えるようにして、奥から現れたのは滝本の姉だった。名前は、友希ゆきさんと言った。

 友希さんは明るめの髪色で、清楚な印象を持ちながらもどこか芯の強さを感じさせる雰囲気があった。

 俺に対して軽く会釈をすると、「こんにちは」と優しく挨拶をしてくれた。

 すると突然、滝本が「じゃあ姉ちゃん、俺行くから」と言い出し、「じゃあ純、あとは頼んだわ」と一方的に告げると、さっさと逃げ去るようにして走って行く。


「え、ちょっと⁈ 友也ともや、待ちなさいよっ」


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