戦禍に咲く花

@koyomi8484

絶望的な戦線


 バレンシア国第七戦線の戦況はお世辞にも芳しいとはいえなかった。戦線に展開された塹壕戦は、常に一進一退。泥沼化した戦況は、戦場を籠城戦、長期戦へと導いた。事態は日に日に悪化していき、状況はより過酷な物へ移行していった。進展が少ない戦線に、無謀な突撃が言い渡され、毎日数多の命が戦場に散った。繰り返される無差別都市空襲。人々の頭上では爆弾が咲き乱れ、怨嗟の炎が街を、人を焼いた。競い合うように開発された生物化学兵器に、多くの人が倒れた。そして戦争は波紋の如く、瞬く間に大陸を超えて広がった。世界が暗雲に閉ざされた。希望の光は差さなかった。女神が微笑むことはなかった。

 国を挙げての戦争に、国民は参戦を強いられていった。戦力不足から、招集がかかる年齢はどんどん引き下げられていき、その声はやがて女性にもかかるようになっていった。すべてを吸い尽くす総力戦に、国力は目に見えて衰えていったのだ。

 第七戦線特別行動班所属の0712に休暇が言い渡されたのは、国境付近の要所アルデバランが陥落し、押し寄せる暗雲のように、戦況が刻一刻と悪化している時だった。

 その鬱々とした雨は、二日前の夜から振り続けていた。陰鬱な分厚い雲が、空を覆いつくしていた。その日の軍指令室には、いつも以上に重い雰囲気が漂っていた。卓上に引かれた地図にはアルデバラン一帯の駒が倒されている。それは事態の悪化を如実に現わしていた。

「し、しかし大佐……」

「これは命令だ。0712の身柄は本日一二○○から、二日後の明朝〇四○○まで、一時的に軍から解放される」

「で、ですが大佐。明日の明朝には、第六突撃部隊は、アルデバラン奪還作戦を決行するのですよね?そんな時に、私だけやすやす休暇を取ることなどできません。仲間が命を懸けているときに、私だけ伸び伸び戦地を離れることなどできません。私も戦場に赴きます」

 0712のその口調に迷いはなかった。断固とした硬い決意がこもった口調であった。

 仲間だと?椅子に深く腰掛けていた大佐は、片目を大きく吊り上げた。

「君は、何か勘違いをしているようだから言っておく。これは私の慈悲でも恩赦でも何でもない」大佐はそういうと、机から顔を上げ、鋭い目で0712のことを見た。「これは上層部から本日正式に0712、君に通達された命令だ。もしそれを拒絶するなら、君から立派な反抗の意思がくみ取られるとされる。反乱軍とみなされたら、どうなるかは分かっているよな」

 鋭く冷たい、冷徹な刃物のような視線が注がれた。それはおよそ一人の人間を見る目ではなかった。生命の宿らぬ冷たい道具を見るような目であった。彼女は後ろで手を組みなおした。

「申し訳ありません」0712は歯を食いしばり、俯いた。「全て、ご命令の通りに」

 大佐は返答代わりに溜息を一つ着くと、重々しく椅子から立ち上がった。机の上に散らばった書類をまとめ、革鞄に詰め込んだ。

「では私から言えることは以上だ。分かったらさっさと行きたまえ。時間は有限だ」

 そう吐き捨てるようにいうと、大佐はきびきび0712の目の前を通り過ぎ、後ろの扉を乱暴に閉めた。0712は一人軍指令室に取り残された。握りしめた拳が、震えていた。

 それから0712はふらついた足取りで軍指令室を後にした。軍寮に戻り、少ない手荷物をまとめた。一時的に返却された鍵を使って、ロッカーを開いた。中身を認めると、確かめるような手つきで、掛けてある丈の長い紺のコートを取り出した。それを黙って上から羽織った。内壁についている鏡に映った自分が目に入る。右胸には、軍に忠誠を誓う証が刻印されていた。そこには決して逃げられない、という意味合いが込められていた。自分の顔がみるみる悲痛に歪んでいくのが分かった。

「くそっ」0712はロッカーを両手の拳で叩いた。足で蹴り上げた。そして力が抜けたようにその場にうなだれ、屈みこんだ。自分の無力さに、居たたまれなくなったのだ。

 なぜ、今なのだ。なぜ、私なのだ。明日には第六突撃隊が決死の奪還作戦に出るのに、私はまるで上の空で、他人事のように休暇を過ごさなくてはならないのか。

 途端にやるせない思いが込み上げてきた。怒り、悲しみ、失望。彼女の中で様々な感情が交錯した。0712は再度拳をロッカーに叩きつけた。

「ああ、くそ。なんで、なんで、何でなのよ」

 明日の作戦で私は死ぬ、そしてすべて終わる、アルデバラン奪還作戦が正式に発表された時から、そう思っていた。この時の彼女には、死は救済であった。暗く、この残酷な世界から解放される唯一の手段であった。彼女は、死に場所を探していたのだ。そしてその瞬間は、明日、彼女に訪れるはずだった。

 最期くらい華やかでありたかった。今までともに戦場を駆けた仲間とともに、その瞬間を迎えたかった。到底友情とはいえないものだったが、曲がりなりにもこの過酷な環境で築き上げてきた関係は、決して淡いものではなかった。最期を、その仲間と共に迎えられるなら本望だと思っていた。しかし、彼女にはそれさえ許されなかった。彼女には自由に死を選ぶ権利すら与えられていなかった。その命の灯が尽きる最後の瞬間まで、盤上の駒として戦え、という無言の圧力が感じられた。0712は目をつぶった。深く息を吸った。

 その時、後ろの扉が開かれたのが分かった。0712ははっとして立ち上がった。コツコツコツと規則正しい足音が背後を通過していく。彼女は鞄を持ち上げ、足早にその場から立ち去ろうとしたその時、一筋の透き通った声が0712を引き留めた。

「休暇、言い渡されたの」

 はっとした。その声の波長は、0712を不思議と落ち着かせる力を持っていた。それと同時に、0712は胸が締め付けられていくのを感じた。咄嗟に振り向こうとしたが、できなかった。彼女の顔を見ることができないと思ったからだ。0712は俯いたまま応えた。「ええ。言い渡されたわ」

「そうなの」ため息交じりに0609はそういった。

 彼女は何かを察しているようだった。0712も分かっていた。休暇が言い渡されることというのは、すなわちもうじき生存率がほぼゼロに近いミッションに抜擢されるということを意味する。でも、そんなことは0712にとってどうでもよかった。明日戦おうが、休暇を過ごそうが、彼女がもうじき死ぬということは変わらないことだからだ。常に、覚悟はできていた。0712はゆっくりと視線を移動させた。ハイカットのブーツから覗かせる細い足首と、その上に伸びた茶色い軍服が目に入った。0712は途端に彼女を抱きすくめたい衝動にかられた。そうしないと、彼女はもうじき私の手の届かないどこか遠くにに行ってしまう、そんな確信があったからだ。それを堪え、口を開いた。

「0609、あなたは、明日……」

「そう、明日の明朝」淀みなく0609は応えた。「明日、アルデバラン奪還作戦に出撃する」

「そっか」0712は次から次へと湧き上がってくる想いを必死にかみ殺した。そして歯を食いしばり俯いた。「そうだよね」

 再び、足音は移動し始めた。0712も鞄を肩にかけ、反対に足を踏み出した。二人の距離は対角線上に離れていった。泣きそうだった。今世での永遠の彼女との別れが、こんなもので良い訳ないからだ。ついに扉から出ようとした時、再び0609の声が彼女を捉えた。

「休暇、せっかくなんだから、ゆっくりしてきなさい。私たちのことなら、大丈夫。気にしないで」

 重い沈黙が降りた。大丈夫なはずがなかった。0609は明日、確かに死ぬのだ。その事実は、張本人の彼女を目の前にして、受け止めるのには重過ぎる残酷なものだった。0712は固く拳を握りこみながら、深く息を吸い込んだ。「ええ、そうするわ」

 それを期に足音は遠ざかっていった。これが0609との最後の会話になることは、0712には容易に想像できた。アルデバラン奪還作戦。それは作戦という名の死の宣告だった。陥落したはずの前線を無理やり打ち破るために、敵の塹壕や基地が至る所に張り巡らされた戦場に、第六突撃部隊はただ一騎、無謀に出撃させられるのだ。生存の見込みは、絶望的。

 明日、彼女は戦場で可憐に散る。敵の銃弾に蜂の巣にされるのか、手榴弾で跡形もなくばらばらになるのか、或いは毒ガスに侵され苦しみ悶えながら死ぬのだ。そして、その瞬間は私にも近いうちにやってくる。生きる意味も見いだせないまま、私は死を迎えるのだ。


 ―――


それからどうしたのか、よく覚えていなかった。

 軍事基地を去った後、私は覚束ない足取りで街を彷徨い歩いた。どこに行こうなど、まるで考えられなかった。頭の中は“彼女”のことでいっぱいだったからだ。二度と会うことができない永遠の訣別が、果たしてあんな形で良かったのか。もっと彼女と話したかった。戦場以外の彼女を見てみたかった。しかし、それはもはや叶わぬことを知り、私は絶望した。

 ふらふらと当てもなく彷徨っているはずが、私はいつの間にかに、駅のプラットホーム上に立っていた。そこで私は、自分がこれから汽車に乗ろうとしていることを認めた。なぜそうしたのか、正直なところ自分でもよく分かっていなかった。しかしコートのポケットの中には、ある金属の冷たく硬い感触を私はしきりに確かめていた。まもなく地響きを伴う轟音と共に機関車が近づいて来るのが見えた。停車すると、私はそれに乗り込んだ。汽車の中は思いのほかに混んでいた。窓際に開いている席を見つけると、腰を下ろした。車窓から見えた空は鉛色に澱んでいた。世界中に陰鬱の影が落ちているように見えた。蒸気が抜ける音と共に、汽車は進み始めた。途中、汽車は何度も駅に停車した。その都度、人々が入れ替わった。途中混雑がいよいよ酷くなっていた時、彼女は目の前に老夫婦が立っているのを認めた。重い荷物を手に持ち、人混みに圧迫されていてとても苦しそうだった。

「あの」気が付いたら声をかけていた。「よかったら、座りますか」

「いいんですか」

「ええ。是非座ってください」私は笑みを作り答えると、席から立ち上がり、横に置いてある鞄を持ち上げた。向かいの人の足を上手くすり抜けながら、席を開けた。周りからは胡散臭そうな視線が向けられたが、気にしなかった。席に着いた老夫婦はペコペコ頭を下げてきた。「ああ、ありがとうございます。助かりました」

「いえいえ」

 そういうと、私は混雑した車内を移動した。むさ苦しい暑さに、外の空気が吸いたくなったからだ。結局私は車両の連結部分に立った。前方から煙と煤の臭いが漂ってきたが、気にしなかった。左手で手すりをしっかりと掴み、振動に振り落とされないように体を支えた。右手はコートのポケットに突っ込んだ。そこでふと思った。ああ、私はいったい何をしているのだろう、と。今更こんなことをしても、何の贖罪にもならないというのに。私は空を見上げた。二日間振り続けた雨は止んでいた。

 そのまま長く汽車に揺られ、日が西に傾き始めたころ、私はある田舎駅で下車した。

 十数年ぶりに訪れたその駅は、記憶の中のものとはまるで違っていた。辺りは荒廃し、廃墟町のようになれ果てていた。かろうじて原型を留めている駅舎からは、我先にと乗客たちが降りていくのが見受けられた。町はすっかり焼けてしまっているのに、皆どこに行くのだろう、と不思議に思った。人々の目に、精気は宿っていなかった。

 私は歩き出した。空気にはかすかに混じった硝煙の匂いを感じた。鉄が焼けた臭いだ。もはやそれはかぎ慣れたものだった。

 なるほど死を目の前にした人間にも、余暇を楽しむ心の余裕というものは、まだ残っているものなのか。久しぶりの休暇に、少なからず羽を伸ばしている自分がいることに驚いた。もはや変わり果てていたその景色に、私の足取りは不思議としっかりしていた。記憶の導きに従って、私はまっすぐ郊外へと歩いた。


 ―――


 久しぶりに訪れた旧家は、あの時のままだった。滑らかな残光に優しく照らし出されたその邸宅は、まるでお伽話に出てくる忘れられた魔法使いの家のように、ひっそりと佇んでいた。手入れがされていない伸び放題の蔦が、途方もない月日の経過を肌身に感じさせた。私はそれをかき分けながら、木目の扉の前に立った。懐かしい柔らかな感覚がふと脳裏によみがえった。

 私はポケットをまさぐり、金属の感触を認めた。手に宿った感覚に安堵した。取り出した鍵を鍵穴に差し込んだ。汽車の中で私がしきりに気にしていた金属片。いつか捨ててしまおうか、と思ったが、とうとう手放すことができなかった私の宝物。これを捨ててしまったら、私と世界をつなぎとめる最後の命綱がプツンと途切れてしまう、そんな気がしたからだ。

 そうか、私は戻りたいのか。今を捨てて、過去を取り戻したいのか、ふとそう思った。そんなことできるはずはないのに。私自身も、もはや後戻りができないところまできてしまっていた。

 錆で建付けが悪くなっているか、と心配していたがまったく杞憂であった。ガチャリという深い音とともに、鍵は九十度回った。私を再び過去の旅にいざなうかのように、扉は滑らかに内側に開かれた。前方に薄暗い室内が広がっていた。深呼吸をすると、私は玄関に足を踏み入れた。ガコンという音と共に、扉が閉じられた。埃の匂がした。下駄箱には靴が三足入っていた。見たことがあるような気もするが、よく思い出せなかった。

 私はそのまま美術館を見て回るような、ゆったりとした足取りで旧家を歩き回った。すべてがそのままだった。時間の流れから取り残されたような空間。今にも走り回る元気な足音が聞こえてきそうだ。キッチンから私を呼ぶ母の声が響いてきそうだ。書斎の大きな安楽椅子で、船をこいでいる父の姿が見えそうだ。

 二階に上がった。暗い薄闇に、狭い廊下がまっすぐ伸びていた。枝分かれているように双方に扉が三つ閉じられていた。私は二つを通り過ぎ、一番奥の扉の前に立った。しばらくそこで私は立ち尽くした。ここは、開けてはならぬ扉のような気がしたからだ。でもそうしたら何のために私はここに来たのだ、と私は自分を納得させた。深呼吸をし、私は目の前の木の板と向き合うと、一瞬の覚悟を決めて、取っ手を回した。

 ギィィィィという乾いた音とともに、扉は開かれた。そこは私の部屋だった。雲が切れたのだろうか、前方の窓からは午後の微睡を想像させるような日光がこぼれ出ていた。その光の筋には、たくさんの埃たちが踊っているかのように揺れている。その部屋は、私の記憶の中のものに比べて、幾分小さく見えた。きっと自分が子供の時は何もかも大きく見えていたのだろう、と私は奇妙に納得した。

 私は自分の思い出の泉に足を踏み入れた。様々な物が視界に飛び込んできた。どれも思い出の品だ。すべてに見覚えがある。私は棚に傾いていた一冊の本を手に取った。埃を払って題名を見ると、アンデルセン童話集とあった。自然と頬が綻んだ。脳裏に一つの風景が浮かんだ。寝る前に母に絵本の読み聞かせをされている私の姿だ。母の声がふと耳元で聞こえた気がした。

 棚の上に置かれたクマのぬいぐるみが目に入った。これは私の五つの誕生日にもらったものだった。私は肩に鞄をかけなおしながら、それを手に取る。手に力を入れるごとに中の綿がそれを押し返す。ボタンの目は取れそうだった。

 その時、私の視線は机に吸い込まれていた。なんだろう、と近づいていった。小さな机の上に、ポツンと手紙が置かれていたのだ。私は不思議に思った。先ほど見た時にはなかった気がするのだ。しかも、そこだけ奇妙に埃が被っていなかった。まるで今さっき書かれたもののように、手紙は置かれていた。時間の経過がまるで感じられなかった。私はそっとそれを手に取った。どうやら封は切られていないらしい。裏には色褪せた封蝋の押し印がしてあったのだ。私はそっと紙の隙間に手を入れた。すると案外簡単に、カパッと蝋は外れた。封筒の中には一枚の便箋が丁寧に折りたたまれていた。私は息を吸い込むと、慎重にそれを開いた。拙い文字が綴られていた。途端に、私はあの時に投げ出された。


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 ― 親愛なるクレア叔母様 ―


 パーティーすごく楽しかったです。お菓子もおいしいし、初めて踊ったワルツはあまり上手にできなかったけど、イザベルお姉さまはすぐにでもうまくなるとおっしゃってくれました。とてもうれしかったです。クレア叔母様が内緒で仕立ててくれたドレス、とてもかわいくて、一目見たとたんに、大好きになりました。ありがとうございます。お父様も、お母様も楽しそうに、笑っていました。うれしかったです。最近のお父様とお母様は喧嘩をしてばかりなので、早く仲直りしてほしいです。アレンは少し意地悪だけど、嫌いじゃありません。はやく叔母様のご病気が良くなることを心から願っています。


 ルクレツィア


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 ルクレツィア、そう綴られた文面を私は優しく指でなぞり取った。久しぶりに聴いた自分の名前は柔らで、それは確かに自分のものだった。頭を撫でられるような、優しい不思議な感触があった。手紙を持つ手がかすかに震えていた。目の前の景色が滲んだ。色褪せた便箋に新鮮な水滴が落ちた。万年筆で書かれたインクが滲む。それが涙だと、私は知った。干からびた大地が、恵みの雨で潤いを取り戻していくように、心の奥底で硬く封印していた物が、次々と私の中で解放されていった。私の中から0712が遠くなっていった。駄目だと分かっていても、それは止められなかった。走馬灯のように、私は思い出の、記憶の大海原に投げ出された。古き記憶に包み込まれていく実感は心地よく、素晴らしいものだった。私は手紙をそっと抱きかかえ、その場に屈みこんでいた。泣いていた。あふれ出る涙が止まらなかった。とっくに捨てたはずのルクレツィアには、まだ心が残っていたのだ。さっぱりと晴れた純粋な文、今の私には書けない、綺麗な心が生み出した文書は美しかった。

 その時、ふと彼女の顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、彼女にも、名前があるのだ。鋼鉄のような冷たい響きの0609の他に、体温があり脈動をした名前を持っているのだ。そんな当たり前で、単純な事実に、私はひどく心を打たれた。

 私はそれが知りたくなった。そして一度でもいいから、その名前で彼女を呼んでみたかった。彼女はどんな顔をするだろうか。驚きに目を丸くするだろうか。少し引かれるだろうか。それとも、あの繊細で綺麗な顔から、笑顔がこぼれ落ちるのだろうか。

 もし私が、彼女と別の場所で出会っていたなら、戦争を知らない平和な時代で出会っていたなら、私たちはいい友達になっていたのかもしれなかった。週末には一緒に肩を並べて旅行をしたり、残酷で、凄惨で、惨い戦場ではなく、共に気持ちの良い野原を駆けることだって、できたかもしれなかった。そして、それはきっと素晴らしいものになるに違いなかった。

 死を恐れたことはなかった。隊では昨日まで普通に話していた人が、翌日にはいなくなっている、なんてことは日常風景だった。覚悟を決めていた、と自分は思っていたが、もしかしたら私はただその環境に勝手に慣れてしまっただけかもしれなかった。本当の私は、今すぐにでも逃げ出したいのかもしれない。すべて投げ出して、知らない国の、知らない街で、知らない人と出会い、惹かれ、一人の人間として、生きたい。そう切実に願う私を、私は見つけてしまったのかもしれない。もうここに居てはいけないと思った。

 湿った瞼を袖で拭うと、私は便箋を丁寧に折りたたみ、机の上に置いてある封筒に戻した。それをコートのポケットにしまった。膝に手をつき、私は立ち上がった。ちょうど沈み込む夕日が窓から見えた。

 私は二度と再び訪れることがないであろう家を後にした。これ以上ここに居たら、もう戻れなくなってしまう、そんな気がしたからだ。ふらついた足取りで、気が付けば私は駅で汽車を待っていた。もくもくと煙を吐いた鉄の塊がやってくる。ここで、お別れだ。私は汽車に乗り込んだ。

 車窓から見える遠くの空には、爆弾を積んだ飛行機が、列をなして飛んでいた。その姿は渡り鳥のようだった。


 ―――


 あれからどれほどの時間が経っただろうか。うつらうつらとした眠りは、大地を突き上げるような振動、耳が裂けるような轟音によって覚まされた。私は咄嗟に辺りを見回した。車体は大きく傾き、車窓は砕け散り、辺りにはガラスの破片が散乱している。汽車は線路から大きく脱線していた。咄嗟に理解した。線路が爆破されたのだ。向かい側に座っていた乗客は、頭から血を流しぐったりとしていた。至る所から銃声が聞こえてくる。悲鳴、爆発音が絶え間なく聞こえてくる。その時視界がぐらついた。まもなく凄まじい振動が私を襲った。私の目の前で後ろに続いているはずの車両が吹き飛んだ。列車が攻撃されている。ここも危ない。私は立ち上がった。持っていた九ミリ拳銃を片手に車内から飛び出した。

 外に広がっている光景に、私は息を呑んだ。夢かとさえも思った。そこはまさしく、夜明けのアルデバランであったからだ。同時に、手品の種が解かれたように、私はストンと納得した。この汽車はバレンシア国の国境に沿って大きく周回するように線路が引かれている。おそらく寝ていた間に、私は終点まで連れてこられてしまったのだろう。以前、痛いほど頭に叩き込んだ地図が思い浮かんできた。私は呆然と戦場を眺めた。

 至る所から狼煙のような煙が上がっていた。銃弾が雨のように降り、手榴弾がキャッチボールのごとく飛び交っていた。目の前で繰り返される、爆発、悲鳴、絶命。被弾、昏倒、絶命。

 ああ、そうか。自分はここに導かれたのか。天はそれでも私を戦場に向かわせたのか。そんな奇妙な実感があった。

 その時、私は目を見開いた。気が付けば、それを視線で追っていた。

 そこに颯爽と戦場を駆ける、一つの姿があった。滝を昇る一筋の雑魚のごとく、戦場を突き進む群がいた。恐れを知らず、死をひるまず、彼らは果敢に猛進していた。

 ―――そう、それは第六突撃部隊だった。気が付いたころには、私は走り出していた。彼らに向かって右手に拳銃一丁を持ち、走り出していた。そこには彼女の姿があった。絶望の渦中であがく、戦場の姫の姿があった。

「0609、0609!」私はまきあがる砂埃の中、狂ったように叫んだ。戦場の轟音の中で私の声がかき消されないように、必死に声を上げた。彼女がこちらを振り向いた。咄嗟にその銃口は、私に向けられた。

「違う!0609、私!!」私は両手を大きく振り上げる。

 銃口が下がった。彼女は目を丸くしていた。当たり前だ。昨日休暇を言い渡された者が突然戦場に単独で現れ、戦闘服ならぬ、紺のコートに身を包んでいるから当然だ。

「危ない!」0609が叫んだ。私は咄嗟に身を翻し、彼女がいる塹壕に飛び込んだ。すぐ背後で大爆発が起こった。一瞬遅れ灼熱の爆風が頬をかすめる。砂埃や、塵が巻き上がった。あと一瞬遅れていたら死んでいた。

「0712?いったい何を考えているんですか?あなたには休暇を言い渡されたはず。あなたはここにいてはならない人間。反乱軍として処罰されますよ!?」小銃を抱えている彼女は、私を睨みながら敬語でそういった。けたたましい弾丸が地面を抉り取る。爆発音とともに、近くの拠点が崩れ落ちた。二人は這うように、薄暗い塹壕内を移動した。見ると、彼女の頬からは血が流れていた。銃弾がかすめたのだ。

「分かってる。そんなことは分かってるわ。いいから銃を!」

 0609は咄嗟に近くで死んでいた兵士からライフルをもぎ取り、私の腕に収めた。私は姿勢を低くしながら安全装置を外し、リロードを入れる。弾が入っていなかった。彼女は慣れた手つきで、そのチョッキからマガジンを二つ差し出してきた。私は一つをコートのポケットに押し込み、マガジンを差し込む。血がべっとりと滲んだリロードレバーを後ろに引く。しっかりと金属が噛み合う感触があった。ボルトアクションは生きているようだ。

「ありがとう。私も加勢するわ」

「0712、あなた自分がやっていることが、分かっているのですか。これが発覚したらあなたは―――」

「分かってるよ。0609、分かってる。ごめんね。私、逃げられなかったみたい」

 私は微笑んだ。その時、後方の基地が火を上げて飛び散った。逃げまどっていた悲鳴は銃声に沈んでいった。敵は背後にも回り込んでいるらしい。状況は絶望的だった。第六突撃部隊は強いられる乱戦に、その圧倒的な戦力差により、残存勢力は、もはやないに等しかった。

 くそっ、0609が悪態をつくのが聞こえる。彼女は半身を塹壕から乗り出すと、発砲した。私は反対に身を乗り出した。スコープ内に敵影をおさめ、躊躇なくトリガーを引いた。弾丸は腹部を貫き、血しぶきが飛んだ。二人倒れたのが分かった。

「ねえ」私は静かに問いかけた。

「なんですか、0712」彼女はリロードの合間に応える。その手さばきは美しかった。輝いていた。

「ルクレツィア……。私はルクレツィア」

 彼女は目を丸くした。塹壕に背中を突けると、当惑した顔で私のことを見てくる。私は息を吸い込んだ。そしてその質問を口にした。

「私はね、ルクレツィアっていうの。あなたの名前はなんというの」

 彼女は一瞬戸惑っているように逡巡の表情を見せた。すると、突然その顔は優しく緩んだ。

「0712、あなたはルクレツィアというのね。私はフィリシオ。改めて、よろしくね」

 フィリシオはそういうと、優しく微笑んだ。それは初めて見た表情だった。私はその笑顔に心を奪われていた。これはきっとフィリシオの本当の顔なのだろうと、私は思った。

「フィリシオ。いい名前」

「そうでしょう。お祖母様がつけてくれたのよ」彼女は微笑んだ。泥と血で汚れたその顔は、綺麗だった。

 私たちの居場所はどうやら先ほどの発砲で敵に割れてしまったらしい。周りから足音が迫っていた。すぐ近くの通路が爆発とともに破裂した。その時、不思議と、音が聞こえなくなった。まるで静かな教会で、彼女と二人、話しているような、そんな気がした。私は彼女の手を握った。細くて華奢な手だった。本来拳銃など、持たないはずの手であった。私はまっすぐと彼女の澄んだ瞳を見つめた。彼女を目の前にして、私はやっとこの感情の正体に気がついた。ストンと胸に納得したものがあった。息を吸い込むと、私は口を開いた。

「フィリシオ、私、私ね。あなたのことが好き。ずっと好きだった。ごめん、変だよね。でも、言っとかなきゃなって」

 フィリシオはきょとんと目を丸くした。そして次に見た時には、その顔はふわりとほころび、口元には穏やかな微笑が浮かんでいた。頬がほんのり赤みを帯びていた。

「ルクレツィア、私も。私もよ。私はずっとあなたを失うことが怖かった。だからあの時、あなたに休暇が言い渡されたのを聞いた時、私ね、私、本当は泣きそうだったの。私、自分が死ぬことなんてどうでもよかったの。でもルクレツィアと離れて会えなくなるのは、絶対に嫌だった」

 二人は探るようにお互いを引き寄せた。近くに、彼女の体温を感じた。彼女の息遣いを感じた。彼女の加速した心臓の拍動が伝わってきた。私たちは確かに生きていた。

「ね、戦争が終わったら、私と一緒にどこか行かない?青空の下で、景色がいい所に」

「ええ、もちろん。どこへだって行くわ」

 二人はそれを最後に、颯爽と塹壕から飛び出した。不思議と怖さは感じなかった。ルクレツィアは私の背中を押していた。途端に数多の銃弾が私たちめがけて飛んでくる。それを華麗にかわしながら走る。私たちは走る。敵が倒れていく。フィリシオは笑っていた。気が付けば、私も笑っていた。私の人生は思い返せば、決して良いものではなかったかもしれない。でも、その時、私は幸福感に包まれていた。今まで生きていてよかったと、私は心の底から、そう思ったのだ。



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