Ⅲ『空っぽ』

 シャルロッテやその関係者との出会いは鮮烈なものだった。

 今も記憶に新しい。

 まあ……、

 もっとも、俺の自我が形成されたのは目を覚ましてからたった半年間の出来事だけなのだが。



 半年前。

 目を覚ますと眩い魔術聖火の灯りが白い部屋を煌々と照らしていた。

 「んん……」

 周囲を見回すと無機質な白の壁に覆われた不思議な部屋にいた。近くには白衣を着た医者らしき中年男性、慌てて床にこぼれた水を拭くナース、そして唖然とした表情でこちらをジッと見つめる青年がいた。

 体をゆっくりと起こすと毛先から水が滴り落ちる。どうやら寝ている俺に水をぶっかけたドジな人間がいたようだ。慌てようから床を拭いている黒髪のナースが犯人だとすぐに察しがついた。

 内壁には脈打つように紫色の刻印が浮かび上がっては消えてを繰り返している。空気は薄く、魔力そのものがかき消されていくような独特な感覚。直感的にここから離れたいという強い願望に襲われた。

 「……目を覚ましたのかオリエント」

 声を発したのは茫然と立ち尽くした青年だ。

 真っ白い外套と腰に携えた長剣。セットされた茶髪と整った目鼻立ち。精悍な騎士のようだった。

 「は」

 「え」

 後始末をしていた医者とナースも事態に気付き、こちらに体を向けたまま慎重に壁へ後退する。

 「ど、どういうことですかロッテくん……!」

 取り乱す医者。

 「し、知りませんよ。まあ……水ぶっかけたら誰でも起きると思いますけど」

 医者の背後に回って盾にしようとするナース。

 「逮捕してから一年半の間、どんな治療を施しても目を覚まさなかったのに、水ぶっかけて起きたら苦労はないわ!」

 「ホントすんません……」

 ナースは小さく頭を下げた。

 「黙れ。下がっていろ」

 青年は冷徹に言い放つ。その言葉に一つの無駄な思考を挟まぬまま、医者とナースは煙のように病室から立ち去った。

 「えっと……」

 気まずい。居たたまれない空気から逃れようと視線を泳がせると机の上に置かれた折り畳み式の鏡に目が留まった。

 黄金色に輝く膝の辺りまで伸びた長髪。獣を連想する細く鋭い瞳孔が浮かぶ赫い瞳。血色の悪い肌に手足と足首には、およそ病人には似つかわしくない枷が付けられた少女。

 誰だ? いや、他でもない俺だ。

 「あれ……」

 どうしてこんな場所に?

 いつから寝ていた?

 何故、枷を付けられて?

 目の前の青年は誰だ?

 そんなことより……


 俺は誰だ……?


 頭の中に霧がかかったような感覚はない。まるで最初から無かったかのように、すっぽりと目を覚ます以前の記憶が抜け落ちているようだった。

 「答えろ」

 「っ!」

 先程まで柄に収まっていたはずの長剣の剣先が喉笛に突き付けられていた。

 「虹の輪の残党は今どこに潜伏している。お前なら知っているだろオリエント」

 頻りに呼ぶその名が自分に向けられたものだと理解するのに時間を要した。

 「え、いや」

 もちろん俺が知るわけがない。

 「こうしている間にも大勢の犠牲者が出ている。血の討論会のような事件を繰り返させるわけにはいかない」

 「ちょ、ちょっと待てよ! さっきから何言っているのか分からねぇーよ!」

 「貴様こそ何を言っている。とぼけるのもいい加減にしろ!」

 「だから……」

 青年の剣幕に圧倒され、言葉が閊える。

 「だから……! 俺は何も覚えてないんだって!」

 オリエントという名前を聞いてもピンとこない。まるで人を悪者呼ばわりするような言い方には納得がいかない。

 「まさか…………」

 青年は落胆したように長剣の剣先を俺の喉笛から離した。

 「自らの記憶を消したか、卑怯者め。いいか? いくら貴様の記憶が無くなったとしても犯した罪が消えることはない。貴様にはどこにも逃げ場所なんてありはしないと知れ」

 吐き捨てて青年はその場を立ち去った。重厚な扉が閉まると何層にも及ぶ魔法陣が展開され、部屋は静かに暗転した。




 そして紆余曲折あって今に至る。

 あの日以来、無機質な部屋には行っていない。そもそもこの狭い町の中で所在すら掴めていない。

 俺が見た光景は何だったのだろう。

 あれは一体、誰だったのだろう。

 思い返せば不自然なことばかりに思えてくるが、今の生活の充実感がいつしか俺の疑念をどこかへ追いやってしまった。

 町長との穏やかな日々や豪勢な食事、友達との交流があれば別に何だって構わないさ。

 「……」

 でも時々、ふと古傷が痛むように思い出す時がある。

 『いくら貴様の記憶が無くなったとしても犯した罪が消えることはない』

 青年の言葉だ。

 ずっと喉の奥で閊えて俺を不安にさせる。何か大事なことを忘れているような気がするという一抹の不安が。

 「……さあ、着いたぞ。もう迷子になるなよ?」

 町の中心地には木造二階建ての庁舎がある。そこで町の代表者たちを集めた会議を行い、意思決定を下している。俺はその会議を『ジジババ会議』と呼んでいて、大抵はあくびが出るような世間話をする程度だ。議会と言うよりは交流会と表するのが適当だろう。

 庁舎一階。正面入り口にある建付けの悪い引き戸を開けて、俺は背後を振り返った。

「当たり前だよ」

 とすかした顔を浮かべるシャルロッテ。

 「その自信はどこから来るんだよ……まあいいか。じゃあ俺はこれで、」

 シャルロッテを庁舎に送り届けたら俺の役割は終わり。

 さっ

 早く獣探しに戻らないと。

 俺が町の命運を握っていると言っても過言ではないからな。

 あー忙しい忙しい。

 「待ちな。サラッと帰ろうとしているところ申し訳ないけど、一緒に来てもらうよ」

 「ちっ」

 誤魔化せなかったか。

 「なあ、こういうのはどうだろう」

 苦し紛れの提案。

 「こういうの?」

 「そう……! 俺とお前、このままだとお互いの意見は平行線だろ? ならもう拳で語り合って白黒付けた方が早いんじゃないか?」

 我ながら滅茶苦茶な理論だ。

 魔力吸引をしたくないとは言え、さすがに突拍子もない提案だったか。

 「確かにそうだね。それも悪くないかもしれない。十八年間ずっとひた隠しにしてきたナース五臓六腑拳が日の目を見る時かもしれないしね」

 「何だよその拳法は。聞いたことないぞ」

 「当たり前じゃないか。門外不出だもの。何なら今思いついたんだから」

 あちらはあちらで突拍子もない様子だ。これ以上のツッコミは俺自身の理論を破綻させかねないので、早速ルールを決めるとしよう。

 「それじゃあどうやって勝敗を決めるかだが、シンプルに三本先取にしよう。ダウン一つにつき、一本ずつ点数が入る。先に三本手に入れた方が勝ちだ」

 俺は足元に落ちていた細くて具合のいい枯れ枝を六本拾って適当に並べた。

 「構わないよ。もう体も温まっているしね」

 山を登ってきたことでウォーミングアップは済ませているか。それに比べて俺は軽く町内を散歩したくらいだ。まあ、提案者としてこれくらいのハンデは認めてあげたっていい。勝利の女神はいつだって俺に微笑むのだから。

 「それじゃあ早速はじめ、」

 ビンタされた。

 それはもう何の変哲もないビンタだった。

 「は……え……叩かれた……」

 そのまま後退った際にバランスを崩し、地面に手をついた。

 「痛い……」

 そっか……殴り合ったら痛いんだ。

 大事なことを忘れていた。

 ナース五臓六腑拳って何だったんだよ。

 ただのビンタだったわ。

 「ごめん……痛いのは嫌だわ」

 勝利の女神は時に別の人間に微笑むこともある尻軽女だ。浮気性な性格を考慮出来なかった俺が悪い。

 「火ぃー吹いちまったな。わたしの右手」

 手のひらに息を吹きかけて、したり顔を浮かべるシャルロッテ。

 「わかったよ……もう行くよ」

 堪忍してシャルロッテと共に庁舎の敷居を跨ぐ。

 「オリ~! また遊ぼうな!」

 「早く戻ってきてよね~!」

 「獣は同じ道を使うはずだ! また捕まえに行こう!」

 みんなの声援に両手を振って答える。

 「ありがとー! 俺は不死鳥のように舞い戻るぜー!」

 今生の別れのようだが、魔力吸引は週に一回のペースで行っている。

 言ってしまえばいつもの事だが、辛いものは辛い。

 「…………?」

 俺の晴れ姿を見たシャルロッテは何故か不思議な生き物を見るような目をしていた。

 「な、何だよ。別にいいだろ? 子供にチヤホヤされたって」

 「……ううん、別に。珍しいこともあるもんだ」

 そんなに俺は好かれなさそうなタイプに見えるか!

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