第21話 誘拐

 昼前に家を出たスティアニーが帰って来ない。行き先は家からそれほど離れていない森の近くで、足りなくなった薬草を摘みに出かけると話していた。ところが昼近くになっても帰って来ない。薬草摘みに夢中になっていたとしても、そろそろ帰宅してよい頃合いだ。

 窓の外に視線を向ける。眼差しを空に向けた途端にプレイオブカラーの瞳がクルクルと色を変えた。


(不快な気配がすると思ってはいたが……なるほど、そうきたか)


 プレイオブカラーの瞳が赤く変化した。虹彩が縦長になり、そのまま剣の刃のようにギュッと細くなる。


「攫われた花嫁を迎えに行くのも花婿の役目だね」


 椅子に掛けてあったフード付きのローブを羽織ったジルネフィは、散歩にでも行くような足取りで家を出た。


 ジルネフィが家を出る少し前、スティアニーは長いストロベリーブロンドを揺らしながら男と歩いていた。男は漆黒の髪でジルネフィと同じくらいの背丈をしている。

 二人が歩いているのは、境界の地と魔獣や魔族の世界のつなぎ目のような場所だった。そこには恵みをもたらす精霊は存在せず、土地は何ものをも育まず水が湧くことも風や火が生まれることもない。そのため魔獣も魔族も長く留まることはなく、ただ通り過ぎるだけの場所だった。


「そうだ、そのままおとなしく歩け」


 スティアニーに命じる男の声は意外にも耳障りがいい。色気のある男性のような、それでいて低く艶めかしい女性の声にも聞こえる。その声に促されるようにスティアニーは歩いていた。表情に怯えや焦りといった様子はなく、ただ淡々と歩き続けている。


「さぁ着いた。中に入るんだ」


 二人の目の前に現れたのは大きな石の建物だった。右半分は巨大な岩のように見えるが、左半分は箱のように削り整えられている。奥のほうは後ろの岩山に繋がっているのか、整えられた部分だけが異様に浮き上がって見えた。

 長方形に切り取られた入り口を入ると、中は正方形に近い形をしていた。床や壁、天井はすべて岩肌のままで、中にはテーブルと椅子、それに簡素なベッドが見える。


「ようこそ我が家へ、若き人間の魔術師どの」


 歌うようにそう口にした男は、病的なほど青白い顔でスティアニーを見た。その目はやや細く赤みがかった紫色をしている。


「さて、まずは外側を眺めることにしようか」


 スティアニーをベッドの前に立たせた男は、ローブを留めているボタンを引きちぎるかのように奪い取った。そのまま胸元を鷲づかみ、無理やり剥ぎ取り布きれと化したローブを床に投げ捨てる。


「ほう」


 男が片方の眉を上げた。微動だにしないスティアニーに感心しながら、今度は裾の長い上着の腰紐を乱暴に解く。それでもスティアニーは眉一つ動かさず声を上げることもしなかった。

 スティアニーの様子に男が目を細めた。「チッ」と舌打ちし、襟元に指を差し込む。そのまま力任せに服を破くが、それでもスティアニーの表情は変わらない。


「これでも声一つ上げないとはな」


 小さく笑った男がただの布きれになった上着を剥ぎ取った。その下に履いていたズボンも破り取り、下着もただの布きれになって床に落ちる。乱暴に素肌を暴かれたというのに、それでもスティアニーは声を出すことも顔を背けることもなかった。


「人間のわりには肝が据わっている。それもジルネフィの手ほどきゆえか?」


「ジルネフィ」という言葉に、初めてスティアニーの頬がわずかに動いた。当然、男もそれに気づき眉を寄せる。


「ジルネフィの名前には反応するのか。……忌々しい」


 男の赤紫の目にじわりと熱が籠もる。それを見たスティアニーが初めて口を開いた。


「ジルネフィさまを知っているんですか?」


 途端に男の顔に怒りの表情が広がった。「人間ごときがその名を口にするな!」と叫ぶと、スティアニーの首を見えない何かが締め上げる。それは完全に息の根を止めるほどではなく、しかし苦しませるには十分な力加減だった。

 スティアニーの眉が苦しみに歪んでいく。白い頬も赤くなり、息が苦しいのか唇がわずかに開いた。


「心配するな、すぐに殺したりはしない。たとえ人間であってもジルネフィが触れた体だからな」


 男の視線が舐めるように白い素肌の上を滑っていく。


「こんなに丹念に所有の証をつけるほど、ジルネフィはおまえを愛でているのか」


 男の手が華奢な胸をそろりと撫で上げた。それから首筋を撫で鎖骨を撫で、赤黒い鬱血痕をたどるように胸や脇腹にも触れていく。


「こんなにもあの美しい唇に愛されたのか」

「ぅっ」


 スティアニーの首を締め上げる力がわずかに強まった。一瞬意識が遠のくと締め上げる力が緩み、何とか息を吸うと再び締め上げられる。まるで脈打つような力加減に、スティアニーの顔が苦悶の表情へと変わっていく。

 その様子に嘲るような笑みを浮かべると、男がスティアニーの体をくるりと反転させた。背中でも鬱血痕を確認するように男の指が這い回る。


「背中もこれほどとはな。それに、こんなところまで愛でられているじゃないか」


 腰を撫でていた指が尻たぶに触れた。そのまま太ももの付け根や際どい部分の痕まで指で擦るように撫でる。

 男がスティアニーの顔を覗き込んだ。息苦しさのせいか、それとも羞恥のせいか歪む顔に男が笑みを浮かべる。


「ジルネフィの唇は恐ろしいくらい気持ちがよかっただろう? 美しい指からは官能的な悦びを感じただろう? 人間ごときにはもったいない快楽だと思わなかったか?」


 男の手に背中を押され、華奢な上半身が簡素なベッドに倒れ込んだ。それでも膝を折ることは許されず、突き出すような形になった尻に男の手が伸びる。


「ジルネフィの熱い欲望をどれだけ咥え込んだ? どれだけ注ぎ込まれた?」


 そう言いながら尻たぶに爪を立てた。突然の痛みにスティアニーが「っ」と息を詰める。それにほくそ笑んが男は、なおも爪で白い肌を引っ掻くように掴みながら言葉を続けた。


「ジルネフィの指はどうだった? 中を散々掻き回されたのだろう? あの指に触れられれば人間ごときひとたまりもないはずだ」


 男の声が陶酔したようなものに変わっていく。赤紫の目はうっとりと宙を見つめ、もやはスティアニーの様子を気にする素振りもない。


「やはり一番はあの体だな。あれほど美しい体はほかに存在しない。胸に舌を這わせ、屹立に指を絡め、体の奥深くを穿てば……あぁ、あまりにも甘美な快感に狂い死んでしまうに違いない」


 スティアニーの肌に赤い引っ掻き傷がいくつも滲んでいく。尻たぶ、腰、脇腹と爪を立てながら、男は反対の手を自らの股間に這わせた。


「あぁジルネフィ、俺の――」


 恍惚とした男の声がぷつりと途切れた。スティアニーの肌を引っ掻いていた指の動きも止まり、少し遅れてドサッというやや重い音が響く。


「相変わらず悪趣味で不快な男だな」


 艶やかな声と共にスティアニーの首を締め上げていた力も消え去った。支えを失った華奢な体がどさりとベッドに倒れ込む。

 現れたのはジルネフィだった。何もない空間から霧のような影が現れ、すぐさま麗しい姿に変化する。


「邪魔だ」


 ジルネフィが手を伸ばすと、床に転がっていた肘から下の腕がふわりと浮き上がった。一旦手にしたものの、一瞥することなく脇にひょいと放り投げる。


「スティ、迎えに来たよ」

「……お師さま」


 力なく崩れ落ちていた体がゆっくりと起き上がった。そうして近づいて来る麗しい姿を目にすると、ふわりと微笑みを浮かべる。菫色の瞳はジルネフィだけを映し、傍らにいる男など見えていないかのような様子だ。


「言いつけどおり逆らわず声を上げることもなかった。スティは本当にいい子だ」


 力の抜けた愛しい体を抱き上げたジルネフィは、まだ少し虚ろな瞼に優しく口づけた。そのまま目尻や頬に口づけ、最後にむように唇に触れる。それだけでスティアニーの顔は蕩けたようになり、菫色の瞳にわずかばかりの色香が漂った。

 そんなスティアニーの様子に満足げな笑みを浮かべたジルネフィは、ようやくプレイオブカラーの瞳を男に向けた。右腕を失い床に跪きながらも、男の顔にはスティアニーに負けないほどうっとりとした笑みが広がっている。


「久しぶりだね、イキュアス」

「あぁ、ジルネフィ! このときをどれほど長い間待ったことか」

「きみはいつまで経っても愚かなままだな」

「愚かになるほどきみを渇望しているんだ」


 イキュアスと呼ばれた男の瞳には情欲の色が光っていた。右腕の肘から下を失ったというのに、そのことを気にする素振りもない。引きちぎられたような傷口からは一滴も血が流れておらず、その異様な状態を気にすることなくジルネフィを見つめていた。


「あぁジルネフィ、相変わらずなんて美しいんだろう。いや、以前よりもずっと美しくなった」


 麗しい魔術師を見つめる赤紫の瞳に、より一層熱が籠もった。


「赤ん坊のときのきみも美しかった。そしてこんなにも完璧な美しい姿に成長した。あぁ、最後に見た全身血まみれの姿もとても美しかったよ。返り討ちにした魔獣の血に濡れたきみは、まるであらゆる美を凝縮したような姿だった。いまでもあの姿を思い出すだけでここが燃えるように熱くなるんだ」


 そう言いながら男が左手で股間をねっとりと撫で上げる。


「いまの凍えるような表情のきみもたまらない。あぁ、俺の愛しいジルネフィ。これほどきみを愛しているというのに、こんなにも長い間近づくことができなかった。ようやく、ようやくだ。再会できるこの日をどれほど待ち望んだことか」


 睦言を囁くイキュアスをプレイオブカラーの瞳が冷たく見る。それはまるで血の通っていない彫像のようだった。それにさえイキュアスは感極まったように「あぁ」と声を漏らす。


「そんな人間など捨てて俺の手を取ってくれないか」

「何度も言っているけど、そんなことは永遠にあり得ないよ。それにわたしの全部はもうこの子のものだからね」


 途端にイキュアスの表情が変化した。色を失った唇を震わせながら青白い肌を怒気に染めていく。


「人間ごときにきみを差し出すというのか?」

「この子はわたしの大事な花嫁だ」

「……本気で言っているのか?」

「もちろんだとも」


 うっとりと微笑むプレイオブカラーの瞳が腕の中を見る。そこにはただじっとジルネフィを見つめる菫色の瞳があった。イキュアスの存在に気づいていないかのように、ただひたすらジルネフィだけを見つめている。


「そう、スティはわたしだけを見ていればいい」


 満足げにそう囁いたジルネフィがそっと額に口づけた。すると、まるで眠るようにゆっくりと瞼が閉じていく。


「それにしても、こんな場所に連れて来るなんてね。人間の体には負担が大きいというのにどうしてくれるんだ。印を刻んでいなければ、とっくに棒切れになってしまっていたところだよ」


 プレイオブカラーの瞳がクルクルと色を変え始めた。その様子をイキュアスがうっとりとした眼差しで見つめる。まるで崇拝するように、それでいて情欲にまみれた瞳でひたすらジルネフィを見つめ続けた。

 虹のような虹彩がくるりと黄金色に輝いた。その瞳とイキュアスの視線が交わった瞬間、恍惚とした表情を浮かべるイキュアスの頭がグラッと後ろに傾いた。そのままゴトンと鈍い音を立てて床に転がり落ちる。凄然とした黄金色の瞳の先には、頭のない胴体が胸に左手を当て祈りを捧げるように跪いていた。


「最期まで面倒な男だった」


 スティアニーを左腕に抱いたまま、血しぶきを上げることなく落ちた頭に右手を伸ばす。すると転がっていたイキュアスの頭がふわりと宙に浮き、プレイオブカラーと赤紫の視線が合った。そうしてゆっくりと指先へと頭が近づいてくる。

 宝石のように光るだけになった赤紫の瞳を、ジルネフィの指がぬるりと撫でた。右の目を撫で、左を撫でてから瞼の隙間に指を差し込む。


「淫魔の瞳の中でも赤や紫はとくに人気があるんだ」


 ぐちゅりと音を立て瞼の奥にまで指を入れる。そうして左の瞳をもぎ取ると、右も同様にもぎ取り無造作にローブのポケットに放り込んだ。


「それにスティの体を見た希少な瞳だからね。少しは役に立ってもらわないと」


 黄金色だった瞳がくるりと色を変え、いつものプレイオブカラーに戻った。

 淫魔イキュアスは、元はジルネフィの母親に執着していた。人間の世界にたびたび現れては魔女となった母親を魅了しようと何度も試みた。しかし魅了の魔力は効かず、母親は肉体を捨て吸血鬼と交わりジルネフィを産み落とした。

 すると、イキュアスの興味はジルネフィへと向けられるようになった。興味は次第に恋情へと変わり、気がつけば強烈な所有欲へと変わっていった。それでも手を出さなかったのは、生まれたときからジルネフィのほうがイキュアスより魔力が上回っていたからだ。


(あれこれと周りが騒がしくなってきたな)


 カラヴィリヤやイキュアスが接触してきたのはスティアニーを花嫁に迎えたからだろう。多くの魔族は人間を蔑んでいる。そんな人間をジルネフィが傍らに置いたことで、ジルネフィに気持ちを寄せる魔族たちが動き出した。

 精霊王が口にした「誰も彼もがおまえを求めてやまない」という言葉を思い出す。かつてのジルネフィは、そういった周囲の感情など気にすることなく欲のままに行動していた。そのうちあちこちで小さな争いが起きるようになり、面倒になって境界の地に住むことにした。


(それなのに、また面倒なことが起きるようになった)


 そうなることはジルネフィも予想していた。だからスティアニーの額に印を刻んだ。本来はジルネフィ以外が体に触れることすら許さない印だが、今回はあえてその力を封じることにした。


(おかげでスティがどこまで堕ちているかもよくわかった)


 甘く優しい言葉の楔はスティアニーの魂に深く突き刺さっている。身の危険よりもジルネフィの言葉を優先させるほど、スティアニーの魂はその有り様のままジルネフィに縛られた。あとは肉体をこちら側・・・・にすれば、完全にすべてを手に入れることができる。ジルネフィの口元に笑みが浮かんだ。

 ほぼ魔族のジルネフィでも人間の肉体を根本から作り替えることは難しい。それを為し得るのは古き血を持つ父親の一族のみだ。


(これまで気にしたことのなかった血だけど、今回は大いに役立ちそうだ)


 そのための準備は整った。精霊王にもらった欠片を使えば本来ジルネフィが持ち得ない力を引き出すこともできる。


(この力を使えば体は魔族になり、魂に至るまでスティのすべてをわたしだけのものにできる)


 ようやくだとジルネフィの魔力が歓喜に蠢いた。


「さぁ、帰って温かいお茶でも飲もう」


 プレイオブカラーの瞳でうっとりとスティアニーを見つめながら唇を柔らかくむ。そのまま二人の姿は少しずつ淡くなり、霧散するように消えた。

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