第13話 人間の世界

 ジルネフィは時々人間の世界へ行くことがある。以前は魔術師の仕事で訪れることが多かったが、そのぶん面倒ごともいろいろ起きた。「あいつは魔女に違いない」と言いがかりをつけられたのも一度や二度ではない。


(見るからに男そのものだと言うのに、よりにもよって人間の魔女と間違われるなんてね)


 魔女は母親のほうだ。そう思いながら人間の世界と関わっていたものの、段々と人間相手の仕事が面倒になり厄介ごとを避けるために出向くこともなくなった。その後は暇潰しに覗く程度で、興味深い道具を見つけたときだけ北欧や東欧、それに東の大陸に赴いたりしている。

 そんなジルネフィが再び足繁く人間の世界に通い始めたのはスティアニーを拾ってからだった。スティアニーに与える本や食材を手に入れるためだが、今度はお茶だの食事だのに誘ってくるしつこい声にうんざりさせられた。


(面倒な世界だと思っていたのに、スティと一緒だというだけで楽しくなるから不思議だ)


 最初に二人で人間の世界に来たのはスティアニーが十歳の誕生日を迎えた日だった。その後も二度、一緒に人間の世界に来ている。そして今日が二年ぶり四度目の訪問だ。

 訪れたのは魔法使いや魔女の話が多く残る街で、ジルネフィもこれまで何度か来たことがある。その中でも古めかしい通りにある老舗の喫茶店に来たのだが、この店を選んだのはスティアニーだった。


(こうしたおねだりは初めてだな)


 久しぶりに人間の世界に赴くジルネフィに「一緒に行きたい」とスティアニーのほうから言ってきた。以前は誘わない限り行きたがらなかったのにと首を傾げていると、どうしても訪れたい場所があるのだという。そのうち一カ所がこの喫茶店で、滅多に自分の欲を言わない弟子の頼みにジルネフィはもちろん快諾した。


(それにしても、こんな場所でさえ勤勉な子だな)


 真剣な顔でテーブルを見つめる弟子に笑みがこぼれる。どうやら皿に載っているスコーンが店を訪れたかった目的らしい。「このお店のスコーンはとても人気なんだそうです」とはスティアニーの説明で、人間の世界で買ってきた本にそう書かれていたのだという。


(今度はスコーンを焼くつもりかな)


 楽しみだと勉強熱心な弟子を見ながら一口紅茶を飲む。その香りと味わいはジルネフィも「なるほど」と納得するものだった。これならスコーンの味も満足できそうだと二口目を飲む。

 ティーカップをテーブルに戻すと、スティアニーがクリームをたっぷりつけたスコーンを頬張るところだった。一口かじり、まるで難しい魔術を学ぶときのような表情で咀嚼し始める。味わうことに夢中なのか、口の端についたクリームに気づいていない。


「スティ、ついているよ」

「……っ」


 クリームを指で拭い、それをいつものように舌で舐め取った。途端にスティアニーの顔が真っ赤になる。


「お師さま、こういうところではそういうことしないでください」


 これまでそんなことを言われたことがなかったジルネフィは「どうして?」と首を傾げた。すると広い店内のあちこちからため息のような声が聞こえてくる。どうしたのだろうかと視線を向けると、目が合った人間たちがたちまち俯いたり視線を逸らしたりした。


「何だか変だね」

「……お師さまのせいですよ」

「わたしのせい?」


 意味がわからずパチパチと瞬きすると、またどこかからため息のような声が聞こえてくる。


「お師さまは、その、綺麗だからとても目立つんです」

「綺麗?」


 言われて自分の服を見た。「特別そう言われるような格好はしていないはずだけど」と淡いクリーム色のサマーニットを指先で撫でる。下は少し濃いめの茶色のズボンで、長い銀髪も目立たないようにと魔力で茶色に変えた。もちろん、もっとも目立つプレイオブカラーの瞳も濃いサファイヤ色に変えている。


「この姿なら目立たないと思ったんだけどな」

「服装のことじゃありません。お師さま自身が綺麗だから、店に入ってからずっと見られているんです。だからさっきみたいなことをすると、その、とても目立つんです」


 スティアニーの言葉がジルネフィにはいまいち理解できない。というのもジルネフィには人間が思う美醜がわからないからだ。それ以前に人間にどう思われようと関心がないということもある。


(そもそも美しいというのならスティのほうがよほど美しいだろうに)


 今日も長いストロベリーブロンドをうなじのところで一つに結んでいるが、白い首筋と耳のあたりに何とも言えない色香が漂っている。目立たないようにと菫色の瞳を空色に変えはしたものの、あの瞳こそ美しいのにとジルネフィは残念でならなかった。


(あの瞳を畏れ忌み嫌うなんて、やっぱり人間はよくわからないな)


 それに服装という意味でもスティアニーのほうが美しい。真っ白なシャツに黒の細いズボンというのはスティアニーの華奢な体によく似合っている。普段の弟子らしい格好より、こうした人間らしい服装が似合うのはやはりスティアニーが人間だからだろうか。


「それに、道を歩いているときもいろんな人に見られていました」


 自分の考えに耽っていたジルネフィは、珍しく不満を口にした弟子に「おや?」と視線を向けた。


「そうかな」

「子どももお年寄りも女の人も……それに、男の人だって」

「それは気がつかなかった」


 ジルネフィの言葉にスティアニーの眉がさらに寄る。よく見れば顔には不快そうな色が滲み、周囲をチラチラと見てから口を真一文字に結んだ。


(これまで人間たちを怖がることはあっても、こんな態度を見せることはなかったが……)


 一度目にこちらの世界に来たとき、スティアニーはひどく怯えた様子を見せた。同じ人間であるはずの存在が怖いのか、ジルネフィの手を必死に掴んでいたのを覚えている。

 ところがいまのスティアニーは明らかに不快そうな表情をしていた。ジルネフィが「次に来るときは、もっと目立たない服を選ぶようにするよ」と言うと、途端に眉間にギュッと皺が寄る。


「服じゃありません」

「うん?」

「お師さまはすごく綺麗だから……いるだけで目立つから、みんなが見るんです」


 気難しい表情をしながら「誰にも見られたくないのに」と続いた言葉に、ジルネフィはパチパチと目を瞬かせた。俯き加減になったスティアニーを見つめ、ゆっくりと口元をほころばせる。


(これはまた随分と嫉妬深くなったものだ)


 美しい微笑みに店内が再びざわつき始めた。しかしスティアニーしか見ていないジルネフィの耳に、雑音でしかない人間の言葉は入らない。

 大勢の中で過ごすことのないスティアニーが周囲に対して嫉妬することはまずない。先日の弟に対する嫉妬もあのときだけだった。ところが大勢の人間に囲まれた状態だからか、初めて周囲から向けられる視線に不快さを感じたのだろう。

 強すぎる嫉妬心は毒だが、こうした心の動きは悪くない。その気持ちが執着へと繋がることをジルネフィはよく知っていた。


「何も心配することはないよ。わたしは可愛いスティしか見ていないからね」


 ジルネフィの言葉に、スティアニーの顔はますます真っ赤になった。

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