第3話 何気ない日常
ステイアニーは小さい頃から甘い物が好きだった。本人に自覚はなくとも表情は隠せない。もちろんジルネフィもそのことには気づいていた。
(人間の世界で食べたことがないみたいだったし、その反動かな)
最初にスティアニーに甘いものを与えたのは拾って半年ほど経った頃だった。たまたま人間の世界で棒付きキャンディーを見つけたジルネフィは、「人の子はこういうものを喜ぶんだったな」と思い出し買って帰った。
「はい、お土産」
そう言って差し出したキャンディーに、スティアニーは菫色の瞳をこれでもかというほど見開いた。そうして何度もキャンディーとジルネフィの顔を見た。
食べたい、スティアニーの顔にはそう書いてあった。ところが一向に手に取ろうとしない。不思議に思ったジルネフィが「食べないの?」と尋ねると、キャンディーを見たときよりも驚いたような顔をし、震えながら手に取った。
スティアニーは棒付きキャンディーをそれは大事そうに食べた。少し舐めては口を離し、何か悩むような顔をしてまた少し舐める。そうして何度か舐めたあと、なぜか包み紙に戻そうとした。
「もういらない?」
尋ねるジルネフィに大慌てで首を横に振る。両手は棒をしっかり持ち、奪われたくないのだと全身で訴えていた。
「全部食べていいんだよ?」
「……でも、」
「食べたいんだよね?」
問いかけにスティアニーは俯き、それから小さく頷いた。
「食べたいのに食べないのはなぜ?」
「……なくなっちゃうから」
小さな声での返事に、ジルネフィは「なるほど」と思った。スティアニーはキャンディーが好きだ。しかしいま食べたら二度と食べることができない。そう思って少しずつ食べようと考えたのだろう。
「また買ってくるよ」
ジルネフィの言葉にスティアニーは菫色の目をますます大きく見開いた。「だからそれは全部食べるといい」と言うと、それまでと違い夢中になってキャンディーを舐め続けた。
それ以来、ジルネフィは人間の世界に行くたびにキャンディーを買い求めるようになった。いまでも気がつくと買っていて、そのたびにスティアニーは「もう子どもじゃないですよ」と笑う。
(そんなスティも、いつの間にか自分で菓子を作るようになった)
今日は昼食前に薬の調合が終わった。午後はゆっくり本でも読もうと思っていたジルネフィだが、なにやら香ばしい匂いがしていることに気づきキッチンを覗く。
テーブルには焼きたてのクッキーが何種類も並んでいた。オーブンの近くでは髪を一つに結んだスティアニーが鼻歌を歌いながら作業している。しばらくその姿を眺めたもののジルネフィの気配に気づくことはない。それだけクッキー作りに夢中になっているのだろう。
何事にも熱心なスティアニーの様子にジルネフィの顔に笑みが浮かぶ。つい「ふふ」と笑うと、声に気づいたスティアニーが振り返った。その手にはテーブルに並ぶものとは違うクッキーが載った皿がある。
「お師さま、何を笑っているんですか?」
きょとんとした顔で首を傾げるスティアニーからクッキーの甘い香りが広がった。バターやミルク、それにジャムの香りがするということはジャムサンドのクッキーも作っているのだろう。
「スティは本当に甘いものが好きだなぁと思ってね」
「いつまでも子どもみたいだって言うんでしょう?」
少し膨らんだ頬が愛らしい。いつの頃からか見せるようになった表情に「これも思い出というものになるんだろうな」と人間のようなことを考えながら「そんなことはないよ」と言って近づく。
「わたしのスティはいつまでも愛らしいと思っただけだよ」
少しむくれたような表情を慰めるように頬にチュッと口づけた。しばらく呆けたようにジルネフィを見ていたスティアニーの顔が一気に赤くなる。
「スティ?」
ここまで真っ赤になったのは初めてだ。どうしたのだろうとジルネフィが顔を覗き込むと、頬を真っ赤にしたまま視線をうろうろとさまよわせる。皿を持つ手は少し震え、反対の手は胸のあたりを押さえるように拳を握っていた。口元も少し震えているようで、何か言いたいのか少し開いたかと思えばすぐに閉じるといった仕草をくり返している。
「どうかした?」
尋ねる声にハッとしたスティアニーは、二、三度視線を左右に揺らしてから「な、なんでもないです」と答えた。そうしてくるりと背を向ける。
「お茶の用意しますね」
そう言って棚から茶葉を取り出し、ティーポットやティーカップを用意し始めた。これ以上何か訊ねても答えてはくれないだろう。そう判断したジルネフィはおとなしく席に着くことにした。そうしてテキパキと動く姿を眺めるものの、時々見える横顔はまだ少し赤い。
(そういえば最近こういう表情をすることが増えてきたな)
静かに観察しているとスティアニーがくるりと振り返った。手には先ほどとは別のクッキーが並んでいる。
「お師さま用のクッキーも焼いたので、お師さまはこちらをどうぞ」
「わたし用?」
「はい。前に甘くないクッキーを焼いたとき、これなら食べられると言っていたじゃないですか。それをもう少し改良した新作です」
見ればほかとは違い黄色や赤色の小さな実が載っている。クッキー自体にも黒っぽい粒が見え隠れしていた。
「これをわたしのために?」
「はい」
まるで薬の調合に成功したような誇らしげな表情を浮かべている。「スティはいつも全力だな」と微笑ましく思いながら、一枚手にしカリッと一口かじった。最初に漂うのは甘いクッキーの香りだが、噛み続けると痺れるような辛味が舌を刺激する。
「辛味が効いていておいしいね」
その言葉にスティアニーが「よかった」と満面の笑みを浮かべた。
「前に焼いたときよりもジンジャーを強めにしたんです。あと、香ばしさを出すためにナッツの種類も増やして、スパイスも少し加えてみました」
説明するスティアニーの表情がうれしそうなものに変わっていく。
(こうした表情を見るのも悪くない)
弟子として喜ぶ姿とは微妙に違う。そうした微妙な表情の変化はジルネフィの興味を引いた。人間の表情に興味を持ったことなどないのにスティアニーの表情には目が留まる。「これも養い親になった証かな」と思ったものの、そう考える自分を笑いたくなった。
(そんなことをわたしが考えるなんて、本当に興味深いことばかりだ)
元々ジルネフィは好奇心が強い性格の持ち主だった。かつて拾った猫も命果てる瞬間まで観察したが、それよりもスティアニーのほうがずっと興味深い。これまで人間と深く接したことがなかったからか初めて目にするものも多く、そのたびに好奇心を満たしてもくれた。だから養い親めいたことをし続けているのだろうとジルネフィは考える。
「本当にスティは何でもできるようになったね。いまではわたしよりずっと上手に料理もできるようになった。わたしはきっと、スティが作ったもの以外は食べられなくなっているんじゃないかな」
以前は食に対してそれほど興味がなかった。毎日食べなくても死ぬことがない体だからか、疎かに考えていたときもある。しかしスティアニーを拾ってからというもの食に対して貪欲に考えるようになった。
きっかけは何を与えてもあまり食べないスティアニーだった。あまりにも食べない様子に憤り、とにかく食べさせようと躍起になって料理をするようになった。そんなスティアニーがおいしそうに食べるようになると、今度はその変化に興味を持った。いまではスティアニーが作るものすべてに興味がある。
そう思って告げた言葉にスティアニーの頬がうっすらと赤く染まった。
「僕は、お師さまの作る料理が好きです」
「もうスティのほうがおいしく作れると思うよ」
「それでもやっぱり僕にはお師さまの料理が一番なんです。それに、お師さまの手作りケーキは僕にとって一番のご馳走ですから」
はにかむ表情に「それじゃ、今年はさらに気合いを入れないといけないな」と答える。
毎年、スティアニーの誕生日にケーキを焼くのがジルネフィの役割になっていた。人間の世界では誕生日にケーキを食べると知ったからで、拾った翌年からずっと続けている。
凝り性でもあるジルネフィは、人間の世界にある様々なケーキを調べては自ら作り、さらに改良してスティアニーに食べさせた。キャンディーすら食べたことがなかったスティアニーにとってジルネフィのケーキは宝物であり幸せの象徴となった。
だからスティアニーはいつも「お師さまのケーキが一番だ」と口にする。しかしジルネフィがスティアニーの深い気持ちに気づくことはない。
「とても楽しみです」
菫色の目でしっかりとジルネフィを見ながらスティアニーがそうはにかんだ。その瞳にはいつになく強い光が宿っていた。
(そんなにケーキが食べたいのかな)
それなら誕生日以外でも作ってやるのに。そう思いながらジルネフィは「楽しみにしていて」と答えた。
スティアニーの誕生日はすでに過ぎている。当日ケーキを用意しなかったのは、後で成人の儀式をすると二人で決めたからだ。
その昔、人間の魔術師は幸運が訪れるようにと特別な成人の儀式を行っていた。儀式は月齢を読み、精霊の祝福を受ける最善の日を選んで行う。ジルネフィはその儀式をスティアニーに施すことにした。未来に多く幸あれと考えてのことだ。
古い儀式のことを聞いたスティアニーは、一生に一度しかない特別なその日にケーキを食べたいと言った。滅多に自分の欲を口にしない弟子のおねだりをジルネフィは快く受け入れた。
「今年は特別な日に食べるからね、いつも以上のものを期待していいよ」
微笑むジルネフィに、スティアニーは弾けんばかりの笑顔を返した。
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