第21話 最後の試合と、決意

「私、金魚が居なかったと桃と嘘をついたときにね、そう思い込むことにしたの」

「懐かしい話」

「心が壊れそうで、そう決めたの。その時のこと、今思い出してる。こんなこと、圭吾に絶対に言えない。でも圭吾のお母さんは私に見られたから、もう黙って神戸に行けない。でも我慢できなかった、無理だった。言えない……圭吾には言えないよ……」

「美穂がそう決めたなら、それで良い。ほら、そこまで目が腫れてない」


 桃は私のまぶたに細い指を乗せて、ゆっくりとなでた。

 私は桃の冷たい指先に目を閉じて、パタンと桃の膝に横になった。

 寝たらあの立体駐車場の夢を見そうで、結局一睡も出来なくて、ずっと湖を見ていた。


「……目の前が湖で良かった。何も変わらないのに、ずっと変わっていくから、それをずっと見てたの」

「朝日がキレイに入るのよね。私も眠れない夜は見てる」

「桃。あのね、私、桃が言ったこと覚えてる」

「うん?」


 叔父さんを疑っていること、いままでひとりだったけど、これからはふたりで、それが嬉しいと言っていたこと。

 私は桃にしがみ付き、


「私も桃に居てほしい。桃がいないと、私つらい、私、桃みたいに強くない、桃みたいにずっと黙っていられるかな、無理だよ、イヤだよ、あの女が嫌いだよ。何度も冷静になろうって思ってもイライラして口から出てきちゃう。あんなに怒ったの人生ではじめてだよ」


 再びグズグズと泣く私の髪の毛を桃は優しく撫でて、


「黙ってるの、結構つらいわよ」

「……圭吾のお母さん、消えてほしい」


 私は、桃のお腹にグイグイとしがみ付きながら言った。

 こんな気持ちを抱えたまま、私がひとりになりたくないように、桃もひとりにしたくない。

 それとは別のところで、私は圭吾との時間を捨てられない。

 事実を知っていても、それを顔に出さず、いつも通り応援する。

 だって私はずっと圭吾を応援してきたから、それは過去の意味がどう変わろうと変わらない。

 圭吾のお母さんは試合を見に来ない。それを泣き出しそうなほど後悔している。

 最後の試合くらい見てほしかった。ずっと頑張ってきたFCカレッソでの最後の試合なのに。

 それでもあの事実を知った今、絶対に見に来るなと同じ熱量で思う。

 来てたらぶん殴ってしまうかもしれない。圭吾は来てくれたら喜ぶだろうに。それを誰より願っているのに。

 切って殴って消滅させたい感情の横に、宝物を撫でるように輝く思いが同居している。

 沸騰したお湯に氷を投げ込むような暴挙。割れたガラスの破片で身動きが取れない。

 いずれ皆が知る。それなら今だけでも。


 

 FCカレッソには幼稚園から社会人までチームがあるけど、近くにサッカー強豪高校が多いので、みんな中学校までFCカレッソに所属して、高校は国立を目指すためにFCカレッソを一度抜ける人が多い。

 FCカレッソに居た強い選手たちが、近くにある強豪校に入って別の高校で三年間戦い、また社会人で戻ってくる……そんな景色を何年も見ている。

 だから中学三年生の夏行われる選手権が、幼稚園から続けてきたFCカレッソの区切りとなる。

 桃に送ってもらって試合会場の近くにくると、お父さんとお母さんからLINEが入った。

 もう七割の席が埋まっているので、席を取っておいたという。さすが決勝戦だ。

 席に向かう途中、サブグラウンドでアップしている圭吾が見えた。

 バクバクと暴れる心臓を抑えながら必死に表情を見る。

 ……いつも通り、かな。圭吾のお母さん、何も言って無いよね……?

 あれだけ言ったんだから、何も言わないよね? でも不倫する人なんて信用できない。

 お願いだから圭吾に近づくな。それを祈っていたら朝になった。

 私は練習している圭吾の笑顔を見ながら、これが不倫なんかでぶっ壊されるの、絶対に違う……と思う。

 見ていると圭吾が私に気がついてしまった。しまった、まだ表情を作れると思えない。

 圭吾は私のほうに真面目な表情で走ってくる。ねえ、圭吾のお母さん、何も言って無いよね?

 真面目な表情で近づいてくる圭吾を見て息が苦しくなってくる。圭吾は走ってきて私の目の前で「はあああ~~~~」と表情を歪ませて、


「やべぇ。めっちゃ緊張してる。マジで負けたくない、こええ」


 そのいつも通りの表情に私は心の奥底から安心した。同時に聞かずに居られない。

 口が渇く、息ができない。それでも、


「おか、あ……さんは?」

「転勤の手続きで会社。そのこと考えると落ちつかねぇ。でも朝になってボール蹴飛ばしたら落ち着いた。俺、今日はここから先のこと考えないで、試合のことだけ考える!」

「……うん。そうだよ、頑張ろう」

「よし、行ってくる。今日は家にいるよな?!」

「帰るよ。昨日はごめんね」

「なんだよ、ずっと待ってたのによお」

 

 そう言って圭吾は私に拳を見せた。

 私は思いっきり手を振り上げて、圭吾の拳に自分の拳を当てた。

 そして拳を開いて、圭吾の拳を上からクッ……と握った。

 圭吾は「!」となる。はじめてかも知れない、自分から握ったの。

 私はクッと圭吾の拳を握り、


「ずっと見てる。ずっと応援してるからね!」

「……おう!!」


 そう言って拳同士をタッチして別れた。

 頑張れ、ずっと頑張れ。ずっとずっと頑張れ。もう泣けてきてしまって、慌てて顔をあげる。

 全部ここからだ。

 鎌田SCとFCカレッソの試合が始まった。

 圭吾はDFで、キーパーの目の前のCBと言われるポジションに小学校の高学年からずっといる。

 失敗が許されないから、圭吾みたいなおっちょこちょいはどうなのかな……と昔は思ってたけど、今は圭吾は「あそこの人」だと分かる。

 攻める時は皆と一緒に最終ラインを上げ、守る時はしっかり声をかけて動いている。

 みんなが圭吾がCBにいるから安心して動いているんだな……と見ているとよく分かる。

 困った時はみんな圭吾に一度戻す。そこから立て直す……を繰り返すからだ。

 圭吾の右前には、小学校の時から一緒にサッカーをしてきた末長すえながくんがいる。

 足にボールがまとわりつくようなドリブルが得意で、視界の広さと的確なパスに定評がある。

 末長くんも小田高に入るのが決まっている。

 末長くんが一緒なら高校でもかなり良い所まで行けるんじゃないかなって思うくらい、ふたりの息はぴったりだ。

 

「末長!」

「おっけー。行ってくるわ」


 圭吾から渡されたボールを末長くんは楽しそうにドリブルして前線を上げて行く。

 鎌田SCの有名MF、森くんが末長くんの前に立ちふさがる。末長くんは腰を低く落としてまっすぐ見たまま左側にボールを出した。

 そこに足が速い飯島くんが走りこんで来てボールを受け取り、鎌田SCの森くんを抜いた末長くんがワンタッチで、前線に走りこんでいた今村くんにパスを出した。

 今村くんは末長くんがボールを持ったら必ず前線に全力で走る。その練習をずっとしてきた。

 迷わず振り返らず前へ。そこに末長くんが的確にパスを通した!

 お父さんが横で「奥だ!」と叫ぶ。今村くんの奥に飯島くんが走りこんでいた。

 今村くんは、そのまま飯島くんにパスをする。飯島くんが足を必死に伸ばして足先にボールを当てた。

 「入れ!!」と、私とお父さんは同時に叫ぶ。

 ボールはゴールの隅、ギリギリにコロコロと転がって入った!

 私とお父さんは手を叩いて立ち上がって叫んだ。先制点だ!!

 試合は後半に突入。FCカレッソは先制点を取ったことにより保守的になり、鎌田SCにひたすら攻められた。

 そしてボールの処理をミスして、そこから失点。

 そして同点になったことで出来た「負けたくない」という気持ちから攻めに走りすぎ、DFに穴が出来て結局2-1で負けてしまった。

 試合で負けたとき、お父さんはいつも何も言わない。

 いつだって負けて一番悔しいのは選手たちで、試合には勝者と敗者しかいないのだから。

 お母さんは少し泣いていたけど、お父さんはそれを見て「圭吾くんの好物をたくさん作ろう」と一緒に台所に立っていた。

 そして撮影した試合を見ながら「ここが良かったけど、ここが残念だったな」と反省会をはじめた。

 圭吾たちは反省会をしてから帰ってくるのをみんなでなんとなく待つ……それが試合の日のスケジュールだ。

 まだご飯食べられないなら先にお風呂に入ろうかなとスマホを手に持ったら、圭吾からLINEが入ってきた。

 『コンビニにいる。アイスおごれ』。 

 これはまだ家に帰ってお父さんに会えるメンタルじゃないけど、私に愚痴りたいのね。

 私は『おごるのはお前じゃ』と返信してコンビニに行くことにした。

 

 私の家からコンビニは徒歩だと15分かかる。

 そんなの夏の夜にやってられない。自転車だと5分なので、またがってコンビニに向かった。

 夏の終わりかけの空気が気持ち良い。道の横に等間隔にある電灯に蛾が集まってるのが見える。どこまでも深くて静かで、私は夜のこの街が好きだと思う。

 コンビニに着くと、駐車場の車止めにジャージ姿の圭吾が座っていた。


「ういーす、圭吾。パルムが食べたい」

「そう言うと思って買っておいた。まあ座れよ」

「天才~~。しかも抹茶味。さすがですね」


 私は自転車を止めて圭吾からパルムを受け取って、隣の車止めに座った。

 パルムは少し前に買ったのか、良いかんじに溶けていて、でも冷たくて最高に美味しい。

 私は「ほむ、ほむ」と味わいながらパルムを食べた。

 圭吾は何も食べず、膝を抱えて丸くなっている。

 今日の試合。圭吾が苦手としている左側から抜かれて点を入れられたのだ。

 昨日の自分に勝つことを目標にしている圭吾だから、あれは悔しいだろう……と思うので、特に何も言うことは無い。

 圭吾は横で、ずっとブツブツと、


「……分かってたのに。来るのが見えてたんだ」

「ん」

「見えてたのに、体が最後に、動かなかった。思った通りに動いたのは上半身だけで、このままじゃ掴むと思った」

「ん」

「迷ったんだ、俺は。迷って動けなくて、抜かれた。あそこはPKでも止めるべきだった。どうして……くそ……」


 ずっとループしてる内容を、私はただパルムを食べながら聞いた。

 圭吾はキャプテンだから、みんなが泣いてる時、いつも静かに聞く。

 負けたときこそ、圭吾はみんなの前で一番しっかりしてる。それを見てるから、負けたときはいつも最後に私がこれをする。

 圭吾は延々愚痴って、最後には駐車場に「あーーーー!」と言って転がった。

 このパターンははじめてで私は目を丸くした。圭吾は駐車場をゴロゴロ転がりながら、


「悔しい、すげーーー悔しい、人生で一番悔しい、もうくっそーーー!!」


 背中がかゆい猫みたいに駐車場をゴロゴロと圭吾は転がる。

 恥ずかしくなってすぐに止めると思ったのに、なんと10分近く圭吾は駐車場でゴロゴロ転がっていた。

 そしてついに声が嗄れたのか、駐車場で大の字になった。

 そしてむくりと起き上がって、


「よし。次は勝つ。今日俺は学んだから、次は勝つ。必ず勝つ」

「ん」


 私は立ち上がった圭吾の背中のゴミやホコリを叩いて落とした。

 背中を叩くと、圭吾がふらふらとなって、そのまま駐車場に膝をついて丸くなった。

 そしてシクシクと泣き始めた。


「悔しいーーー」


 私は圭吾の背中をトンと叩いて、


「今日の自分に次は勝つんでしょ」

「……もうすっげぇ悔しいの。もうすっげぇえええ。あーーもう、帰ろ。泣き疲れた。親父さん起きてる?」

「ずっと試合見ながら待ってるよ。ヨシ寿司もあるしピザポテトも三ツ矢サイダーもあるよ」

「帰る!!」


 そういって圭吾はタオルで顔と鼻水を拭いて立ち上がった。

 そして私の自転車に跨がって、私を後ろに座らせた。

 自転車は最初はふらふらと、でも確実に進み始めた。

 私は圭吾のお腹に腕をまわしてつかまった。圭吾は自転車のペダルをグイと踏み込みながら、


「次は勝つ。俺やっぱり、神戸には行けない。親父に頼んでこっち残る。だから頼む。本当に頼む。小田高来てくれ。俺、このままじゃ終われない」

「……本当に勝つのでしょうか」

「勝つっていってんだろ、だから来いったら、来いーーー!!」

「あはははは! 田んぼで叫ぶのやめてよ。カエルが飛び出してきてるんだけど」


 私は圭吾のお腹をぐいと掴んで、小田高に行こうと決めた。

 これからすぐ先にあることで圭吾がどうなっても、これからもサッカーを続けてほしいから、次こそ勝ってほしいから、私は圭吾の横で嘘をつき続けて、一緒にいる道を選ぶことにした。

 こんなことで私と圭吾がしてきたことを終わりにしたくない。

 こんなことで、私たちの過去を腐ったもので終わらせたりなんてしない。


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