第20話 憎悪の先に見えたものは
「こっち」
「……ここ……会社の駐車場……? 私が勝手に入っていいの?」
「うん、居るわね」
桃はスマホを見ながら三喜屋の上にある立体駐車場内を歩く。
カフェを出て桃に車に乗せられてここに来た。
この三喜屋には何度も来たことがあるけど、この駐車場ははじめて。
屋上の更に奥にあり、入る時に香月さんが何かタッチしてたから、ここに入れるのは三喜屋の関係者の車だけみたいだ。
桃はそこに車を止めて、駐車場を奥に向かって歩き始めた。
そして大きな柱の陰に、隠れるように立ち止まり、掌をヒラヒラさせてこっちに来るように促した。
そこに真っ黒なワゴン車が停まっていた。私は桃の肩に自分のアゴを乗せて、こっそりと車の中をみた。
中にふたりの男女が見える。これは……私にも分かる……。
「桃……これ……」
「後ろの席を倒してフルフラットにしてね、そこでセックスしてるのよ」
「うん……」
私は視線を逸らして桃の横に立った。
男性の……大人のお尻が、助手席と運転席の隙間から見えている。
そして男の人のお尻がぶるぶる揺れている。
気持ち悪い……。桃は私に何を見せたいんだろう。まさか他人のセックス……ではないだろうけど居心地が悪くて、桃にぴたりとくっ付いてスマホを見ていた。圭吾から『美穂、練習終わったら話そう』とLINEがきている。置いて出てきちゃったから確かに少し話したいかも。でもどうせ晩ご飯食べにくるんでしょう? と返信していると、桃が私の頬に触れて、車方向を見るように促した。
どうやら終わったみたいで、下に組み敷かれていたのだろう……女の人の顔が見えた。
私は絶句する。
「……圭吾のお母さん」
車の中には、見慣れた圭吾のお母さんが座っていた。
いつも着ている綺麗なブラウスは前が開いていて、胸が露出している。
いつもキレイに整えられている髪の毛はグチャグチャで……圭吾の家でも、FCカレッソの試合でも見たことが無い女の人の表情をしていた。
心臓がばくばくと音を立てて、息が出来なくなる。
圭吾のお母さん……どうしてこんな所でセックス……。どうして、どうして。
はあ、はあ、と自分の息が荒くなるのを感じる。
そして桃は柱に背中を預けたまま、
「あの汚いケツは私の叔父さん。私の家の庭で挨拶したでしょう? クソ男よ」
私は息を吸い込んで驚きすぎて、喉が痙攣する。
「えっ……家で挨拶してくれた……手話の……」
「叔父は大阪三喜屋の社長。圭吾くんのお母さんは源川支店の営業本部長。ふたりは高校生の頃に付き合ってたの。あのクソ叔父は、私のお母さんのことをずっと好きでね、お母さんが私の父と結婚した後も諦めなかった。気持ち悪くて、家族全員迷惑してた。だから追放された。なのにお母さんが死んでから、今度は圭吾くんのお母さんと不倫しはじめた本物のクズよ」
桃は私の耳元で静かに吐息を吐くように説明をする。
立体駐車場の一番奥で、車は全く入ってこない。そして風も吹かない。
完全に密封された空気の中、桃の甘い香りだけが漂って、私の周りから消えない。
見たくないのに目を話せなくてずっと車の中をみてしまう。真っ黒な箱船のような空間、小さなライトの下で、圭吾のお母さんは服と髪の毛を整えていく。あそこだけスポットライトの下、舞台のようだ。
桃は私の肩に体重ごと乗せるように頬を置き、
「圭吾くんのお母さんと付き合いはじめたのは、私が知ってる期間は五年。私たちが小学生だった時にはもうふたりで歩いてるのを何度もみたわ。ふたりが一緒に出張にいくほどぶっ壊れたのはここ二年かしら」
ここ二年。中学に入ってから、圭吾のお母さんは全く試合を見に来なくなった。
でも五年前から……? 圭吾はずっと甘えん坊だった。
小学校低学年までお母さんと寝ていたはずだ。
「仕事が忙しくて試合を見に行けないの。でも圭吾のことを誰より応援してるから」
その言葉を信じていた圭吾と私たち一家。
桃は私の耳元で、
「圭吾くんのお母さんが突然神戸に転勤になったなら、これが原因でしょうね。私はずっと叔父を追い出したくてネタを集めてるけど、不倫なんてふたりとも悪いのに、これで追い出されるのは女だと知ってるから無視してた。不倫で営業本部長になったって嫉妬されたんでしょう。仕事だけしてれば良かったのに、どうして我慢できないのかしら」
桃は私の指に優しく触れて、
「無視して黙っててあげたのに、あの男、自分の母親が何してるかも知らずに私のことを美穂の前で侮辱した。気持ちいいわね、正論振りかざして弱者の味方、優しい俺。自分を善人だと思ってる人間が、世界で一番の悪人よ。アイツがどれだけ何も知らないか見せてあげる。アイツの母親は特大の嘘つきよ。仕事? 出張? してるのはカーセックスよ」
桃は私の腕をぎゅうと握って車を睨んだ。
その瞳はガラス玉のように表情がなく、今までみた表情のなかで最も冷たい。
「叔父は本当にしつこく母に付きまとっていて、母の死に関係があると私は思ってる。まあ調べても出てくるのは浮気現場ばかりでウンザリしてるけど。ずっと一人で抱えてきた。でも今日からひとりじゃない。美穂がいる。それがすごく嬉しい、やっとひとりから、ふたりになれた」
そして「これもふたりだけのひみつね」と静かに言った。
金魚の時から、加藤事件から、ずっとずっとふたりで繋いできた「これはふたりだけのひみつ」。
そう、こんなの事実にしちゃいけない。絶対私たちしか知らなくていい。
『これもふたりだけのひみつ』
にすべきだ。
もちろんそうだ、そうなんだけど、だけどそうじゃなくて……。
痛い所に手が届かなくて、どうしても手が届かなくて。そこじゃなくて、でもそこら辺が痛いの。
もうそこら中が全部痛いの。でもどこが一番痛いのか分からないの。
痛くて痛くて、もう全部が痛い。浅い呼吸を繰り返して、
私は桃の腕を振り払った。
そしてふらふらと柱の陰から出る。桃が私の名前を叫ぶ。
駐車場に桃の大声が、桃がいつも出さない大声が響いている気がする。
耳の奥に桃の声が反響する。
だけど、私はもう足が止められない。
そう、本当にバカ、でも不倫するのがバカなだけじゃなくて……。
車の正面に立つと、丁度車のライトがついて、私が照らし出された。そして車の中で驚く圭吾のお母さんの表情が見えた。髪型も服装も、いつもの圭吾のお母さんで、本当にそうなんだとボロボロ涙が出てくる。
車から圭吾のお母さんが下りて来て、
「美穂ちゃん……? どうしてここに? どうやって入ったのかな? ここは関係者以外立ち入り禁止でね」
「圭吾に謝って」
「!!」
圭吾のお母さんはハッとした表情になった。
そして私の後ろに視線を動かす。
きっとそこには桃が立っている。
同時に運転席に座っていた叔父さんがハンドルに肘をついてため息をついているのが見えた。
私は車のヘッドライトに照らされたまま続ける。
「圭吾は、本当はお母さんに練習を見に来てほしいはずです。大会も、全部。小学校の時は、ずっとそう言ってました。私と私のお母さんとお父さんが見に行ってても、それでもいつも圭吾のお母さんを探してた。仕事の間を抜けて来てくれるんじゃないかって、ずっと待ってた。それでも頑張って、だから私もずっと応援して、それで今もすごく頑張ってるのに。言わないけど今だって淋しいと思ってるのに。それでも頑張ってるのに、ずっとすごく頑張ってるのに、その間、何してたんですか……何をしてたんですか!!」
私は嗚咽しながら叫び続けた。
不倫も浮気も桃の叔父さんもどうでも良かった。
汚された、泥を塗られたのは、積み上げた幸せの記憶だ。
私はずっと圭吾を見てきたから、本当にお母さんが大好きだって知ってる。
試合日程を毎回写真に撮ってお母さんに送ってることも知ってる。それに全然来てないのも知ってる。
でも仕事を頑張ってるんだと思ってた。
信じてたのに。
私は流れる涙をそのままに、圭吾のお母さんの腕を掴んで、
「今日だって今、練習してますよ。今、してます。行きましょう、してますよ!!」
「美穂ちゃんごめんなさい……」
「明日はFCカレッソ最後の引退試合ですよ、今日最後の練習、してますから!!」
圭吾のお母さんは私に腕を掴まれて、その場でへたりこんだ。
私はグイグイ手を引っ張って立たせながら叫ぶ。
「圭吾には絶対言わないで!! 圭吾にこんなこと知らさないで。頑張ってるのに、知らさないで!! 圭吾には言わないで。それで今すぐこんなこと止めて下さい、もう二度とこんなことしないで!! もう早く神戸に行け!! 絶対絶対ひとりで行け、圭吾を連れていくな、お前みたいなヤツの所に圭吾を連れていくな。それで試合を見に来てよ……。もう本当にやだーー。圭吾に謝れ、信じていたのに、あんなにまっすぐに信じてるのに!! 謝れ!! 永遠に黙れ、消えろ!!」
私は圭吾のお母さんの横に座り込んだ。
どれだけ泣いても涙が止まらず、ただ口から出るのは「圭吾に謝れ!! でも言うな!!」だけだった。
いつの間にか香月さんが私を抱えて歩いていて、そのまま後部座席に乗せられた。
車の中でどれだけ泣いたのか分からない。とにかく圭吾に知られたく無くて、つらくて。
いつの間にか車は駐車場を出て走っていた。いつもの田んぼの景色を見ていたら少し心が落ち着いて、横に無言で座っている桃に、
「……家に帰りたくない。桃の部屋に泊めて」
「いいわよ」
そう静かに言ってくれた。
今日は土曜日で、明日は日曜日。明日は圭吾最後のFCカレッソの試合がある。
圭吾は明日の試合のためにすごく頑張ってきた。だから絶対に見に行く。
だから何があっても私は一日で自分を取り戻して、明日はいつもの自分にならないといけない。
桃は優しく私を部屋に招き入れて、ふたりで一緒にお風呂に入った。
桃の香りがするもこもこ泡で、桃は泣きはらした私の顔を丁寧に洗ってくれた。
優しくしてもらうと、再び泣けてきて、またボロボロ泣いた。
桃は泡を何度も私の頭に乗せて洗いながら、撫でながら、
「明日目が腫れるわよ」
「……どうしたらいいの?」
「冷たいタオルを準備しましょう。そしてマッサージもしましょう。なんでもしてあげる」
「私が泣いてるから優しいの?」
「まさか本人たちの前に出て行くと思わなかったのよ。今まで通り、ふたりだけの秘密にすると思ったの。驚いて悲鳴を上げたのは人生ではじめて。今までで一番驚いたわ。そして人生ではじめて失敗した。特大の大失敗。あなた達の絆を甘く見ていた」
桃が目の前で苦笑するから、また思い出してボロボロ泣いた。
なんだあの女、クソすぎる……。私は膝の上に顎を置いてシクシク泣きながら、
「蹴飛ばしてくれば良かった……」
「香月に習いましょう。強いわよ」
「すごく強そう……」
私はクスリと笑った。
夜、眠れなくてずっと大きなソファーに座って湖を見ていた。
来たときは真っ暗で何も見えなかったけど、朝日が遠くで昇った瞬間に光の筋が見えて、そこが空と湖の境界線だと分かった。光が湖を切り裂いていくのを、私はずっと見ていた。
朝が来る。
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