第6話 美術準備室で桃に触れる

「……ここ、入っても良いんだ?」

「美術研究部員、私だけだから」


 そう言って桃は朝の海みたいに静かにほほえんだ。そんな部活あったっけ?

 美術準備室は、美術室の隣にあり、先生しか入っちゃいけないはずだ。

 たくさんの白い布が張られた板と、古くて汚い絵の具、壁には色ごとに分けた絵の具のストック、そして大きな段ボールや定規が無数に置いてある。

 他の子がこんな所に居たらドキドキするけど、桃は普通の教室のほうが似合わなくて、こういう場所のほうが似合う。

 サッカー場で名前で呼び合った次の日に、学校で会うのは少しドキドキする。

 桃は丸くて汚い椅子に座って、


「バカね、本当のことを言うなんて」

「え? なんの話?」


 桃の言葉はいつだって唐突で、私を困惑させる。

 桃は窓を少し開けて、外の風を入れて、


「圭吾くんのこと。圭吾くんが悪者になるのがイヤだったのね」

「ああ、その話。うーん。むしろ謎が解けた~~って気持ちのが大きかったかな」


 私はそう言って窓際のロッカーのうえに座った。

 そりゃもちろん私も「見ちゃいけないものをみた」と隠れてしまうほどには動揺したこと。

 でも圭吾の家でいつもお菓子詰めの作業を頼まれるのを忘れていたこと。

 だから圭吾がそう言ってた時に「あ~~それかあ~~」と心の奥底から納得してしまったのだ。

 私は窓から外を見た。部員が足りない野球部がキャッチボールをしているのが見える。

 ふわりと夏よりちょっとだけ前の風を感じながら、


「あの作業地味に好き。最後に針金で縛るところ」


 私がそう言って視線を戻すと、目の前に桃がいた。

 そして無表情に私を見て、


「どうして本当にそれをしていたって信じられるの? 私なら絶対嘘だと思うけど」

「圭吾はクソ真面目なんだよ。嘘はむしろ苦手だと思う」


 小学校低学年の時、遊ぶなと言われていた駐車場でサッカーをしていた。

 駐車場に廃車が置いてあって、ボールが軽く当たってサイドミラーが落ちてしまったんだけど、どう考えても軽くしか当たってなかった。

 だから元々緩くなってたんだろう、どうせ廃車だし、黙っていたらバレないとみんなが思った瞬間に、圭吾は職員室にかけこんで秒で謝っていた。

 結局その車はずっと前から停まっていた車で誰の車でも無かったけれど、駐車場で遊んだことをすごく怒られた。

 FCカレッソでも、サッカーの試合が台風で中止になったことがあった。

 コーチがみんなのママに前日にLINEで中止の連絡を送ったけど、ひとりだけ連絡が取れなかった。

 その時に、圭吾だけは試合開始時間前にサッカー場に行き、その子が来ないか待っていたらしい。

 結局その子の親はスマホを見て無くて、その子はひとりで試合会場に来てしまっていた。

 圭吾は「俺が居なかったら、ひとりで淋しかっただろうから、良かった!」と大雨の日に行って、風邪をひいてしまったのに笑顔だった。

 圭吾は誰かが悲しむくらいなら、自分が辛い思いをするほうが良い人。

 嘘とはほど遠い、クソ真面目な人。そして止めても聞かない。空気も読まない。


「信念も曲げないし、信じた道をまっしぐら。嘘がつけるならついてほしいこと、何度もあったよ」

「圭吾くんも美穂に対して同じようなこと言ってたわ。本当に信頼しあってるのね」

「ただ付き合いが長くて色々知ってるだけ。姉弟みたいなもんだよ」


 一時間に一本しかないバスに乗り遅れそうなのに、道を聞かれて現場まで連れて行ったりする。

 この前もそれに付き合わされて、駅まで走ったのだ。たぶんバカ。

 嘘がつけるなら、ついてみてほしい。


「だから圭吾が言うなら、そういうもの」

「私が言ったら?」


 そう言って桃は、私の膝の目の前に立った。

 窓際に座っている私の膝の目の前に、桃のお腹がある。

 足をプラプラさせながら座っていたのに、それが制限されて、ちょっとだけ居心地が悪い。

 桃が……?


「桃はちゃんと話し始めて少ししか経ってないからよく分からないけど、実はそのまんまな感じがする」

「なにそれ」

「だって……」


 私は手を伸ばして、目の前にいる桃のお団子に触れた。

 学校ではきっちりと乱れなくまとめられているお団子。

 桃はもじ……と体を動かして、なんとなく私の膝の間に入ってきた。

 私はスカートを開いて受け入れる。そして桃のピンク色のメッシュを探したくて、膝で桃を挟む。

 そして桃のお団子の束に指先をねじ込んで緩める。汗で少し湿ってしっとりしている隙間に指を入れる。

 指を引っかけてぐじぐじいじって隙間を作ってピンク色のメッシュを見つけて触れた。


「よくわかんないこと言ってるのに、髪の毛の中に自分の名前と同じ色隠してるって、自己顕示欲エグくない?」

「……なによそれ」

「制服で見ると、すっごく可愛い。ね、解いてよい?」

「もうグチャグチャだから、良いわよ」


 そう言って桃は首を倒した。

 桃は身長が高いから首も長い。斜めにすると首のラインが長くなってきれい。

 私は桃のお団子が縛られている部分から、髪の毛を解いた。

 この前は外のサッカー場だったけど、今は薄暗い美術準備室で、なんだか変な匂いが充満している。

 電気もつけていない部屋の中で、セーラー服を着て髪を解いた桃の、裏側にピンク色のメッシュ。

 それが外の風でふわりと揺れて、


「やっぱ可愛い。いいなあ。私もメッシュしたいってお母さんに言ったら『は?』みたいな反応で悲しすぎた」

「取り外し可能なヤツもあるじゃない」

「やっぱりそれは違うよ。自分の一部だけ色が変わってるのが良いなあって思うの」

「……そう?」


 私の膝の間に挟まれた桃は、まんざらでもないような表情を浮かべていて、やっぱり桃って褒められると素直だよなあと思った。

 表面にすんごく固い岩みたいのがあって、それがちょっと面白い。

 でも岩だって裏に花があるし、太陽であちあちになった岩も、雨が降ればひんやりする。

 桃はそんな感じがする。

 私の間に挟まれた桃は、もじもじと手に持っていた木の棒みたいなもので、私の太ももを制服の上からツンツンしている。


「ね、さっきからくすぐったいよ。それ何?」

「スクラッチアートしてたから、それで使ってる棒」

「なにそれ?」

「きて?」


 そう言って桃は私の膝の間から出て、私に手を差し伸べた。

 私は桃の手を握って、ひょいと棚から下りた。

 桃は私の手を握ったままゆっくりと歩き、真っ黒な板の前に座らせた。

 それは本当にただの真っ黒なドアのようなもので、サイズは立った私たちより全然大きくて少しだけ怖い。

 これが宇宙の入り口で、ここから別の宇宙に行けると言われても、きっと私は信じる。

 それくらい真っ黒に塗られているドア。

 桃は手に持っていた木のペンで、その黒い板をキキキ……とこすった。

 すると、真っ黒なドアの向こう側に極彩色の世界が見えた。


「……! すごいきれい!」

「裏にクレヨンでたくさん塗って、その上から黒で塗りつぶしてあるの。それをこれで削ると見えるの。スクラッチアートっていうんだけど」

「すごいすごい。わあ、楽しいねこれ。うわー! 線だけじゃもったいない、絵にしたのはあるの?」


 私がそう聞くと桃は力なく首を振って、


「ひとつも絵は描いてないの。ずっとクレヨンでキャンバスを塗って、その上にアクリル絵の具の黒を厚塗りして、この板を作ってるの」

「へえ~。クレヨンで塗るのも楽しそうだね。私、これ削りたい。やっても良い?」


 私は桃が持っていた木のペンを借りた。

 桃は静かに頷いて、


「良いわよ。黒の板だけはたくさんあるから」

「おお~~。じゃあビル。ビルを描こう」

「なんでビル?」

「これ削ると出てくるのキラキラして星みたいじゃない? だから夜空だよ。真っ黒な空を削ったら夜空と夜の街が出てくるの、良く無い?」

「……すてき」

「でしょう~?」


 黒い板を作った桃の同意も得られたことだし、私は木のペンを持って黒い板をゲジゲジと削って夜の町というか、ただ縦に長い棒を描き始めた。

 ビルを描くとか、そんなすごい事できないけど、削ると下からキラキラした色が見えて楽しくてたくさん削った。横で桃が、


「削ると本当に出てくるのね」

「いやいや、下を描いたのは桃でしょ?」

「削ったこと無かったから」

「じゃあ私がこれから削るよ。これ楽しい」


 絵なんて全く描けないから、こんな描き方知らなかった。黒い板を削るのは楽しい!

 桃は私が黒を削るのを、ずっと隣の宇宙から、新しい宇宙が生まれるのを見ているようなうっとりとした目で見ていた。

 削り落ちた黒いカケラは、私の指に触れると真っ黒なススのようになった。

 桃は「こっち」と洗面所に連れて行き、私の黒くなって指に洗剤を広げた。

 緑色のドロドロとした液体を私の指先に塗って、黒が落ちるように何度も何度も指をひっぱった。

 次第に私の指に付いていた黒が落ちて、桃の指先に黒い泡が移る。

 桃は楽しそうに一本一本、音を立てて私の指先を洗ってくれた。

 その洗剤はすごく強いものらしく、洗い終わることに私の指は油を失ってゲジゲジになってしまった。

 桃はカバンから銀色の筒を取り出して、そこから白くてこっくりしたクリームを出して塗ってくれた。

 私は笑い出してしまう。


「これも桃の匂いだ」

「良い匂いでしょう?」

「自分のこと好きすぎて面白い」

「どう? これで」


 桃は一本、一本、私の指に白い桃の匂いがするクリームを塗り込んでくれた。

 私の手は、黒の壁を削るときよりツヤツヤになった。

 私はもう夕日が落ちて、夜が下りてきた境界線に桃の匂いがする掌を透かして見ながら、


「うん、前より良い感じ。でも毎回こんなことしてたら手が痛みそう。次からは手袋したほうがいいかな」

「ダメよ。私が毎日洗ってクリーム塗るから、そのままで」

「え~~? 傷みそう~~絶対傷む~~」

「桃のクリーム、たくさんあるのに使ってなかったから」

「もったいな。それは塗って貰おうかな」

「でしょう」


 そう言って桃は固く結んだちょうちょう結びが、魔法みたいが解けるみたいに微笑んだ。

 やっぱ桃は、奥に行けば行くほど、きっと可愛い。

 やたら手を繋ぎたがる桃と優しく手を繋いで、学校を出た。


 

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