恐怖のご対面 後編

「お姉ちゃん、こちらの方は?」

間合いは一瞬で詰められた。阿須那の前で私は江崎君と二人横並び、そして彼は何も知らずにえびす顔。私は軍門に下る面持ち――――

「あの‥‥私に簿記の勉強教えてくれて、大変お世話になっている‥‥江崎君」

「こんにちは、はじめまして、江崎と申します」

「こんにちは」

冷ややかな感情のない阿須那の挨拶が届いた。

――――ごめん、阿須那、ごめん。お姉ちゃん嘘ついていた。女じゃなくて男性だったんだよ‥‥家族の場だったから、また悪く思われてしまってはダメだと思って、嘘をついちゃったんだよ‥‥。

目でテレパシーを送る。でも明らかに気色ばんでいるから、なかなか真っ直ぐに見つめることができない。

(何とか、ここは何とか丸く納めてもらえないかな‥‥?)

「お姉ちゃん、どういうこと?」

声に怒気を孕ませている。これはマズい。ちゃんと話さないといけない。

やはり目でのテレパシーは届かない‥‥当たり前だ。

「ごめん、阿須那。ちょっと‥‥嘘ついてた」

「え?」

江崎君もきょとんとしてしまう。

それはそうだ。全部私が悪い。

「江崎君ちょっとだけごめん。阿須那、こっちへいいかな‥‥」

江崎君との間を離して、道から離れた森の方へと誘導しようとしたその時、

「どういうご関係ですか?」

一番向いて欲しくないところに阿須那は矛先を向けてしまった。

だって江崎君は何も知らない、何も悪くない。

私がちゃんと言って説明をもっと早い時にしていなくて、色々怖かったりタイミング悪かったりで間延びさせてきたのだから‥‥矛先は私に向けるべきなのに。

――――いや、そっちはダメだってば!

前に立ちふさがろうとするが、運動神経は無いはずなのに、こういう時は意外にすばしっこい。ひょいと躱されてしまった。

「お姉ちゃん今大事な時なんです。男とかにかまっている場合じゃない。もう後がないんです!」

「‥‥‥‥‥」

少し振り返ると、江崎君のえびす顔は消え失せて、真剣に何かを受け取ろうという雰囲気のある表情に変わっていた。

――――ますますマズイ。

阿須那の肩らへんを掴む。掴んでしまえば力では私に抵抗できない。そのまま服のトレーナーを引っ張って私の身体の方に引き寄せる。しかし、口は動くわけで‥‥


「ちょっと‥‥お姉ちゃん、何してるんよ!また次の男?」


とんだ姉妹のドタバタ劇を見せてしまっている上に、一番言って欲しくなかった言葉が阿須那から飛び出した。

――――『また次の男』??‥‥最悪だ。それは言わないで欲しかった。


この言葉には悪意が含まれているのだ。私が次から次へと男を変えたということをこの短いワードで言い表している。

お分かりいただけたであろうか?‥‥『また次の男』ということは、この前に男がいる。それは良い。別にお互い初めて同士だなんて思っていない。けど、その前に『また』という「副詞」がつくことで、「さらにその前があるんだ」ということを、しかも短期間で入れ替えしているということを同時に表してしまう。最低だ。


口を塞ごうか迷った。けどそれはもう確実に江崎君に言われては困ることがありますアピールを、一番してはいけない江崎君にするようなものだ。

(どうしよう‥‥?)

「お姉ちゃんそうやってつまらない男何人作ったって現状打破できないんだからね?何で分かんないの?バカ!」

阿須那を捕まえるが、見えざる何かから精神的な後頭部を思い切り叩かれた気分になる。この『つまらない男何人作ったって』という言葉で、さらにその前の前、前の前の前、前の前の前の前ぐらいまでは余裕であることを推定されてしまった。しかも前に『つまらない』という言葉まで添えて‥‥

これで私の本性が大方露呈してしまったようだ。つまらない男たちをとっかえひっかえ取り替えてきた日々、勿論そこに身体の関係もありきで‥‥そんな私。


――――『汚れ』だって、カミングアウトされちゃった。


何かの望み、何か必死に守っていたものが‥‥失われて行く。

力が抜けて行く。

自分の素の部分、ここ数年間の過去、具体的にどうだったかは言ってはいないけど、概要は彼に伝わってしまった。

阿須那はトレーナーを掴んでいる私の手を振り払い、身体を離し、江崎君のところへ攻撃的に向かう。

私はそれは分かっていて阿須那の後ろに付くけど、江崎君の顔を見ることはできない。

「私のところへ、私たち家族のところへやっと帰ってきたんだから、お姉ちゃん連れていくのはやめてください!!」

忌憚ない声がひと際大きく、さすがに集まっていた人たちも何かに夢中になっていなかった人らはこちらに向き直るぐらいの威力だ。

思わず声の強さに、私はビクッとする。

私は振り返り、他者からの視線にアワアワするだけだった。


一瞬沈黙が流れる。

周囲の騒めき、草木の風で揺れてすれる音、道路からの自動車のロードノイズ。

それだけが世界で鳴っているように思えた。


「フフッ‥‥」

空気が漏れたような少しだけ笑うような音がした。江崎君からだ。


私はこのまま罵倒されて、お弁当も食べてもらえず、お弁当箱ももらってもらえず、きっと彼は帰ってしまうだろう。そして明日からは口を聞いてもらえない。きっと和井田さんとイチャイチャしだして、見せつけられるかのような日々が始まる。そして今度は和井田さんと喫茶店に入っていく姿を私は毎日見せつけられる生活になるんだ。

私がちゃんと先に阿須那に伝えなかったばかりに、いざとなれば何とか笑って誤魔化して後で阿須那に話せば分かってもらえると思っていたが‥‥最悪の結末だった。

甘かった。ちょっとした横着・選択ミスをしたばかりに、せっかく舞い降りた天使を失った。

まるで簿記みたい‥‥一つ省いて簡略化したつもりの工程で間違えてしまったら、途中や最後まで間違った結果が導かれて、点数に繋がらない。

けど阿須那も私にとっては天使だ。恨むことなんてできない。

ただ天使同士が争ってしまったんだ。私の配慮ができていないばかりに。

俯いていた地面の視界がぐにゅっと歪みだした。



――――終わった‥‥あ、でも‥‥部分点は取れるはず。

諦めてはいけないことがある。それは「人として」のことだ。

簿記を習ってお世話になったことだけはちゃんと伝えなくちゃ。今日これで終わりでも、今までしてくれたことに嘘偽りはないんだから。そこは阿須那にも伝えて、ちゃんと言葉でお礼はしなくちゃ。

涙目のまま、顔を上げた。

伝えなくちゃ‥‥今この時に。でないともう二度とない。

そして私が声を発しようとした時に。


「阿須那さん、お姉ちゃん思いですね」

「‥‥そうですよ」

二人が話しだして、私はまた言葉が出なくなった。

「いっつもお姉ちゃんが男で失敗するんで、ボロボロになるんで守ってあげないとダメなんです」

阿須那‥‥やっぱり私を守ってくれてたんだね。そういう気持ちだったんだね。

しかし見事に私の言われたくないことを、私のメンタル的に痛いところをグリグリとねじ込むように押さえ付けてくる。


もういい‥‥もう負けていられない。

総合的に間違えても、部分点は諦めてはいけない!


「あのね、阿須那」

「いいよ、お姉ちゃん言わないで」


「いや、違う!私この人が居たから簿記が理解できたの!」



こちらすら見ずに拒否した阿須那が私の語気の強さに振り替える。

「この人がまったく簿記に関してトンチンカンだった私に、私の分かるようにきっちり教えてくれたの。時間かけて。しかもお金のない私に喫茶店でケーキまで奢ってくれて、珈琲飲ませてもらって、理解できないところ、泣き言混じりな話を全部聞いてもらって、受け止めてもらって、それでいて私の分かる言葉で教えてくれたの!恩人よ!」


さすがに阿須那の目がカッと見開いて、怯んで後ろに一歩下がる。

「初日で落ちこぼれそうだった。全然分からなかった。何この世界?だった。そんな私に例え話をしてくれたり、私の考えを聞いて褒めてくれたりしていっぱい上げてくれて‥‥それで伝わるように簿記の世界を丁寧に教えてくれたのよ」

語尾あたりは声がかすみだした。

今日で江崎君との関係が最後だと思えば、あのこと以外の全ての感謝を、ここで伝えなくちゃいけない。今思い浮かぶ、つたない言葉全部集めてでも。言葉にすらならなくても!

私の強い意志を感じる態度に、さすがに阿須那に動揺の色が見える。

「で‥‥でも」

「私‥‥江崎君がいたからこそ、簿記を勉強している私が今日あるの。江崎君がいなかったら‥‥居なかったら私はまた逃げていたかもしれない」

「‥‥‥‥‥」

阿須那が眉間にしわを寄せて、悔し気に下唇を噛む‥‥。

何を思ってその表情になるのか?

自分が簿記のお世話をしてやれなかったから悔しいとでも言うのか?

阿須那は充分に私のケアをしてくれた。充分に私を守ってくれたじゃない。



「阿須那さん?」

「はい‥‥」

いつの間にか、江崎君は‥‥


「僕たち友達で‥‥阿須那さんが思っているような関係はないから」

またいつものえびす顔に戻っていた。


そしてその笑顔は、周囲全てを柔和な気持ちにさせるような温かさを持っているように思えた。美の彫刻、もしくはAIに美形男子とかとプログラムして世界中のデータを集めて描かせたような男子なのに、微笑むと神様のような慈悲深い温かいオーラを放つ‥‥私は泣きじゃくりが出た。

「だから、安心して」


さっきまで怒気を孕んで、言いようのない遺恨を抱えているように見えた阿須那が、急にのぼせたようにホ-ッと顔を上気させていく。

やがて瞳は潤みだし、頬はこれから咲く桜のように色づいたのが分かった。

「はい‥‥そ、それじゃあ‥‥問題ないです。いい‥‥いつも、姉が、おおお世話になっています‥‥ど、どうぞ‥‥」

いつもの饒舌さも無く噛み噛みだった。

逃げ去るように私たちの元から退場してしまった。

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