第三章
その日、『薔薇のため息』の厨房から上がった黒煙に、常連たちはぎょっとしてそちらを見た。そして、
「お、俺、急用を思い出した」
「俺も」
「俺、帰る」
と、テーブルに代金を置き、そそくさと出て行ってしまい、店内はしーんと静まり返ってしまった。
そこへやってきたのが運の悪い常連、グラドである。
「おーい、香茶を……」
と入ってきて、
「な、なんだ?」
もくもくと立ち込める黒い煙に目を白黒とさせ、
「ライアス? なんだこりゃ?」
と立ち尽くし、奥を覗き込んで、
「どうしたんだ?」
と声をかけたのが彼の運の尽きである。
「ああ、いらっしゃい」
そこへ出てきたのが顔を煤だらけにしたライアスだ。手には、黒焦げになったなにかを乗せた天板を持っている。
「なんだ? なにしてた?」
「お餅を焼こうとしてたんだよ」
「餅だあ?」
「新しいメニューの開発をしようと思って」
「性懲りもなく……」
「火加減がわからなくてねえ」
「それで、丸焦げか」
「朝から試してるんだけどねえ」
「いくつ焼いた」
「百個くらいかなあ」
「百回試してこれかよ」
「うまくいかないねえ」
「餅がかわいそうだ。もうやめとけ」
グラドは窓をすべて開けて換気をして、それからライアスから丸焦げの餅の残骸を奪って捨てた。
「今日はあんたに依頼があるんだ」
「また?」
「ああ。国王陛下直々にだ」
「どうしようかなあ」
「国王の頼みだぞ」
「めんどい」
「謝礼ははずむ」
「やるよ」
グラドは苦笑した。
「そう来ると思ったよ」
話はこうである。
「遠く離れた国に、陛下の末の娘が縁あって嫁に行くんだ」
「ふーん。あの、ピアノ弾く娘かい?」
「それとは別のだ。ところが、相手の男に愛人がいて、その愛人に子供ができちまって、愛人は子供ができたのをいいことに、正妃になれると勘違いしてるんだと。だが愛人は生まれが卑しいからそれはかなわないんだ。愛人はこの縁談を聞いて秘かに陛下の娘を暗殺しようと刺客を差し向けてる。娘はそれを知らない。陛下はあんたに娘を守ってほしいんだとさ」
「なんで私?」
「晩餐会でご活躍だったろ。凄腕だし、それになにより、同じ女だから、王女も安心できるって踏んだんだろうよ」
「うーんどうしようかなあ」
「もう一度言うが謝礼が出るんだぜ」
「わかったよ」
「警護には、俺も同行する。道行きとしゃれこもうぜ」
「馬に乗るの?」
「いや、万が一に備えて、あんたは王女と馬車に乗ってくれ。襲撃されて、王女とはぐれました、じゃシャレにならんからな」
「あっそう」
「装備はあるか?」
「……一応あるよ」
「じゃあ準備していってくれ」
こうして、ライアスは王女の婚礼の道行きに同行することになったのである。
それが、まさかあんなことになるとは思いもしなかった。
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