第二章 3

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「私以外に君を雇おうなんて人間はいないだろうね。私になにかあったらどうするつもり?」

「引退して喫茶店でもやります」

 シャルルはころころと笑った。

「それはいいね。おいしい香茶の淹れ方も知っていることだしね」

 そう言うと、彼はまた微笑んだ。あの頃は、あんなことが起こるとは思ってもいなかった。平和で、なにも知らなくて、幸せだった、あの時代。

 あの時は……

 カラン、とベルが鳴って、ライアスは現実に引き戻された。扉の方に目をやると、見慣れた髭面があった。

「らっしゃい」

「香茶をくれ」

「あいよ」

 グラドはいつもの席に座ると、懐から革袋を取り出した。そして香茶を持ってきたライアスにそれを見せると、

「これ、この前の礼金だ。少し色をつけてある。陛下の命を救った分と、タップ王国の面目を保ってくれた分だ」

「お」

 香茶をグラドに渡すと、ライアスは満面笑顔になった。

「そりゃ悪いな。有り難くもらっておく」

「あんたも笑うんだな」

「ん?」

「いや、なんでもない」

 ライアスの素性を知った、知ってしまったグラドとしては、なぜこんなところで喫茶店を営んでいるのかと聞きたいところだが、それは理由があることは衆人の知ったことだ。「もっと笑ってろよ」

 ぼそりと言ったグラドであったが、その呟きは小さすぎて、ライアスには聞こえなかった。

「ところで」

 香茶を飲みながら、グラドは話題を変えた。

「例の公爵だがな」

「ああ……」

 ライアスは真顔になった。

「調べてみたが、色々と叩けば埃の出る人物らしいじゃないか」

「今頃知ったか」

 彼女のその苦い表情で、グラドもだいたいのことは察知していた。

 ラガーディア公爵――数々の陰謀の裏にこの人ありと言わしめた腹黒い男で、古くは十年前のリカルド王太子殺人事件や、新しいものでは昨年のバッチスタ王国大放火魔の一件もこの男の仕業ではないかと言われている。

 その男が参列する晩餐会に、賊が乱入した。なにかないはずがない。

「調べてみろ。必ずなにかある」

「今部下が懸命に捜索しているところだが、さすがに尻尾を出さない。狡猾な男だ」

「要人の暗殺には利権が絡んでいることが多い。その線で当たらせるんだ」

「なるほどな。やってみるよ」

 おかわりくれ、とグラドは茶器を差し出した。

「あいよ」

 ライアスは奥に香茶を淹れに行った。その隙のない背中を見て、あの夜の惚れ惚れとする戦いぶりを思い出し、グラドはため息が出る。

 《不運のネヴリアス》。

 主を失った、凄腕の戦士。主君が毒殺され、その腕のよさゆえに、よすぎる腕ゆえに、誰にも雇われなかった悲運の戦士。葬儀のあといずこかへ消え、その消息はいっさい絶えたといわれている。

 それがまさか、こんな遠国の城下町で、悪趣味な内装の悪趣味な名前の喫茶店で、その壊滅的な料理の腕前で人を殺しかけたことがあるとは誰も夢にも思っていないだろう。

「宝の持ち腐れとはこのことだぜ」

 ぽつりと呟いた時に、ライアスが香茶を運んできた。

「なにか言ったか」

「いや、なんでもない」

 ところで、と、グラドはまたしても話題を変えた。

「ここの内装、あんたの趣味か」

「ああ……」

 ライアスは首をめぐらして、壁をみた。一面の桃色は、気分が悪くなるほど趣味が悪い。 それに白い、大ぶりのリボンがこれでもかと所々に散りばめられていて、それでいて血飛沫のような無意味な赤い点々がなんともいえず不気味だ。

「これは、主のかつての部屋を真似たんだ。なかなかいい出来だと思っている」

 店内に他に客はいない。

 だから、ライアスはそんな話をしたのだろう。

 ネヴリアスのかつての主とはシャルル・ド・ラカリヴェイルという名のリレイ王国第二王子で、王弟としては名の通った評判の人物であった。

 趣味人として名を馳せ、ピアノ、竪琴、歌、フルートをそつなくこなし、絵画に至っては名人級の腕前を見せ、詩人の一面を持ち、薔薇をこよなく愛する庭師でもあり、細かい刺繍やレース編みを貴婦人たちと共に嗜み、一流の料理人の腕前を持っていたという。

 そんな人間の住んでいた部屋が、こんな悪趣味なものであるはずがない。

「あんた、ものを見る目がないんだな」

 グラドはげっそりとしてそう呟いたが、幸いそれはライアスには聞こえなかったようだ。「戦士として身を立てようとは思わなかったのかい」

「……」

 ライアスはそのうす青い瞳を閉じ、わずかに下を向いて、そして自嘲気味に口元に笑みを浮かべて言った。

「血なまぐさい生活に嫌気が差してね。それで引退したんだよ。喫茶店の店主も悪くない」

「香茶、うまいしな」

「みんなそう言う」

「なんであの王弟に仕えてたんだ? 金か?」

 そういえば、この女は金には忠実だ。だからか。

「あんたみたいな強いのを雇うには、よっぽと大枚出さないと雇えないもんな」

「それもあるけどね」

 ライアスはどことなく遠い目になって窓の外を見た。そのうす青い瞳が、今ではない昔を見ている。グラドはそんなことを思った。

「もっと言うと、情だよ。あのお方は、情に満ちたお方だった」

 ネヴリアス。いい名前だね。君のことを、もっと教えてくれないか。

 へえ、強いんだね。その腕前で、私のことを守っておくれよ。

 君ってひとは、なんにもできないんだね。剣は超一流なのに、他のことはからきし。ちぐはぐなひとだ。面白いね。

「――」

 そっと目を閉じる。あの声が、まだ耳に残っている。鼓膜に張りつく、あのあたたかい響き。瞼に残る、あのなつかしい微笑み。

 なくすには、あまりにも惜しいひとであった。

「いい主人だったよ」

「そっかあ」

 グラドはしみじみと言った。

 《不運のネヴリアス》ほどの戦士が言うほどの者であったのだから、相当の主であったとみえる。

「ところで、なにしに来たの」

「うん?」

「なにか言いに来たんじゃないの?」

「ばれたか」

 グラドは苦笑した。『薔薇のため息』には毎日来ているが、用事があるときもあれば香茶を飲むためだけに来ることもある。しかし、前者のときにはライアスは必ずこうしてなにをしに来たのかと尋ねるのだ。

 歴戦の戦士の勘というやつなのだろう。

「あの、公爵な、ラガーディア」

「ああ……」

「やっぱり裏があったよ」

 グラドの仕えるタップ王国国王は公明正大な君主だが、臣下には色々な人間がいる。大臣連中には腹黒いのも大勢いて、その一人が商人の一人から賄賂をもらっていることに国王が気づきそうになって、慌てふためいて国王の暗殺を目論んだというわけだ。

「そこで、ラガーディア公爵に依頼がいったわけだ。晩餐会の客たちはその巻き添えというか、目くらましだな。犠牲が多ければ多いほど、国王陛下が狙いだとは気づきにくい」「しかし公爵も招待客の一人だろう」

「自分も怪我すれば、まさか自分が当事者だとは思われないだろう? そこが目の付け所だよ」

「やれやれ」

 ライアスはため息をついた。

「大悪党だな」

「しかし、肝心の証拠というものが掴めていないんだ。大臣の賄賂の証拠はあるんだが、公爵の方はさっぱりだ。今のところ、伝聞が伝聞を呼んだくらいで、物的証拠はなにもない。さすがといったところだ」

「あの男はいつもそうだ。重要なところで尻尾を隠す。ここぞという時に逃げるんだ。だからなかなか全体像を掴めない」

「まあ、今回は大臣の悪事がわかったからよかったってことで、この辺で勘弁してくれ」「私は謝礼がもらえたからそれでいいよ」

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