第二章
1
『薔薇のため息』店主ライアスの朝は遅い。彼女は九の刻頃起きて市場へ行き、果物を買って朝食にし、十の刻には店を開けて開店準備をする。開店は十一の刻だ。早い時間に開いたところで誰もやっては来ないし、だからこんな遅い時間に開店することにしている。 そうして昼食の時間には近くのカフェに行って昼食を買ってきて、接客をしながら食べることにしている。夕食は、野菜を水にぶち込んだものを食べている。一年中、毎日そればかりである。
今日も『薔薇のため息』の常連客、グラドがやってきた。
「香茶をくれ」
「はいよー」
最近では、ようやく食事を勧められなくなってきた。これで俺もやっと常連ってことかな、とグラドはほっとしているのである。
「あんた、夜はなに食べてるんだ」
「きゃべつとじゃがいもとにんじんとにんにくとセロリとソーセージを水に入れて煮たやつ」
「ポトフか。あとは?」
「それだけ」
「それだけ?」
「そう」
「ほんとに?」
「うん」
「……」
そうか、料理しないもんな、と呟いて、グラドは少し考えた。
「いいこと教えてやる。トマトと米を入れてみろ。味わいと満腹感が増す」
「それはいいことを聞いた。早速やってみる」
「マスタードはつけてるか」
「なにそれ」
「ソーセージにつけてみろ。味に変化が出る」
「やってみる」
翌日、グラドはまたやってきて、香茶を注文した。
「米、入れてみた」
「おう、どうだった」
「スープが真っ白になった」
「……参考までに聞くがちゃんと洗ったか」
「洗うものなのか」
「洗わなかったのか」
グラドはがっくりとなった。そうか、料理、からきしだもんな。
「トマトも入れてみた」
「そうか。どうだった」
彼は気を取り直して、もう一度尋ねた。
「爆発した」
「……煮える直前に入れろ」
もうこれは、俺が直接家に行って作ってやった方が早いんじゃないか。
そんなことを彼が真剣に考えていた時、ベルがカランと鳴って、扉が開いた。
「らっしゃ……」
ライアスが振り向こうとした時、いきなり血まみれの男が入ってきて、そこに倒れこんだ。
「!」
グラドは驚いて立ち上がった。
「どうした。しっかりしろ」
他に客はいない。二人は顔を見合わせて、男に駆け寄った。
グラドは軍人である。血には慣れている。
「閉店の札を下げてこい」
すぐに手当てをした。
男は腹を刺されていて、他に傷はない。
「血を止めなくちゃいけねえ。布だ」
ライアスはうなづいて、奥から清潔な布をたくさん持ってきた。
「少々乱暴だけど、傷を焼く。深手だから、そうでもしないと助からない」
「わかった。これを噛ませる」
グラドは男に布を噛ませて、それからライアスが焼いた鏝を持ってきた。
鏝を傷口に当てると肉を焼くにおいが立ち込めて、男が絶叫した。
「血は止まった。消毒だ」
「これを」
消毒液をかけて、布を巻いた。
「これは、動かせないな。医者を呼ぶか」
すると、息も絶え絶えだった男が、いきなりグラドの手をぐっと掴んだ。
「い、医者はだめだ」
二人は顔を見合わせた。
「医者は、だめだ」
「――」
「――」
「たのむ……医者は、だめだ」
「そうは言ってもなあ」
グラドは首を傾げた。
「俺は軍人だしなあ」
「いいんじゃない」
ライアスはなんでもないことのように言った。
「本人が連れて行くなって言ってるのに連れて行ったら問題になるよ」
「そうは言ってもなあ」
「私が面倒を見るよ」
「ええっ」
「今日はここに泊まる。夜食くらいなら作れるし」
「あんたが?」
「うん」
「なに作るんだ」
「お粥さんとか?」
「うーん」
握り飯もあの始末の女が、お粥など作れるだろうか。瀕死の人間を、殺してしまわないだろうか。一抹の不安が頭をよぎった。
「わかった。俺も泊まる」
「え?」
「あんたの料理じゃいまいち不安だ。料理は俺が担当する。あんたは手当て、俺は料理。 そうしよう」
「いいけど」
「ついでに米の洗い方も教えてやる」
「あっそう」
そういうわけで、グラドは一度官舎に戻って、外出届を出すことになった。
「官舎から野宿用の寝袋を持ってきたぞ。あんたはどうするんだ」
「ここで徹夜して料理する時のための枕と毛布があるよ」
「ここの品書きに徹夜して作るほどのものなんかないだろ」
苦笑していると、男が呻きだした。
「おい、しっかりしろ」
「み、水」
「はいよ」
ライアスが男の首を起こして、水を飲ませてやった。男はそれを、ちびちびと飲んだ。
「頼む、い、医者は……医者には連れて行かないでくれ」
「医者は呼ばないよ。ここで手当てする」
「医者には連れて行かないでくれ……」
男はうわ言のように呟きながら、また気を失ってしまった。
「なんだろうね、追われてるのかな」
「まあそうだろうな。手負いなのは敵も承知なので病院に行ったら殺される、ってとこだ」
「困ったねえ」
少しも困った様子を見せず、ライアスは腕を組んだ。その無表情な横顔に、グラドは呆れてものも言えない。
瀕死の重傷の男がいるってのに、なんでこう平然としてられるんだ?
「とにかく、死なせないようにしよう」
「そうだね」
「傷は縫えるか」
「針に糸も通せないよ」
「聞いた俺が馬鹿だった」
グラドはため息をついて、持ってきた応急用の処置箱から針と糸を出した。それから眠りながら呻く男の傷口を酒で消毒して、慣れない手つきで縫った。
夜が明けた。
「外出届のついでに、一日休暇をもらってきた。今日は一日休みだ」
グラドは眠る男の寝顔をまじまじと見た。こうして朝日のなかで見てみると、なかなか品のある顔立ちである。金髪で口元にほくろがあって、身体は鍛えられている方だ。
「なかなかの男前だな。刺されたのも、痴情のもつれとかじゃねえかな」
そこへ、カラン、とベルが鳴った。
「らっしゃい。まだ店はやってない……」
ライアスが言い終える前に、二人組の男が入ってきた。
「金髪の男を探している。口元にほくろがあって、男前だ」
「あんた、見なかったか」
「……さあね。見てないね」
「本当か」
「知らないよ」
グラドは厨房で息を潜めてそれを聞いていた。側では、男が苦しげに眠っている。
頼むから、今ここで呻き声を出したりしないでくれよな。
「……」
「世話をかけたな」
「またどうぞ」
ライアスの鉄面皮が功を奏した。二人組は出ていった。
グラドはほっと息をついて、厨房を出ていった。
「あいつら一体何者だ?」
「さあ」
ライアスは厨房を振り返りながらこたえた。
「でも、なにかあるのは確かだね」
「今日は閉店だな」
グラドは厨房でお粥を煮て、目覚めた男に食べさせた。
「病院はだめだ……頼む……」
「安心しろ。どこにも通報はしないよ」
と言うと、男はほっとしたように眠りに落ちた。
昼になってライアスは昼食を買ってきた。二人でそれを食べていると、男が目を覚ました。
「……ここはどこだ」
「私の店だよ」
「店……」
「喫茶店」
「あんた、刺されたんだ。覚えてるか。それで、ここに逃げ込んだ」
「ああ……」
「自分の名前、言えるか」
「……ヴィクターだ。ヴィクター・アンドロコフ」
「なんで刺されたのか、わかるか」
「……」
するとヴィクターは、すっと瞳を閉じて貝のように黙ってしまった。これは、知っていて言いたくないということなのだろう。グラドはため息をついた。
「やれやれ」
グラドは店の方に出て行って、ライアスと話をした。
「病院には行きたくない、通報はするな、刺された事情は言いたくない。こりゃ根が深いぞ」
「仕方ないねえ」
まるで他人事のようにライアスが言うので、グラドは一気に疲労感が増してきて、
「あんた、そんなんでよく今までやってこられたな」
「そう? そうかな」
と言っている側からカラン、とベルが鳴って、
「今日はやってないよ」
とライアスが振り向くと、一人の老紳士が入ってきた。
「いえ、私は客ではないのです。実は、人を探しておりまして」
「人を?」
「はい。口元にほくろのある、金髪の、二十代くらいの若い男の方を見ませんでしたでしょうか」
「……知りません」
老紳士は肩を落とし、
「そうでしたか……失礼いたしました」
と言って出ていった。
二人は顔を見合わせた。
「なんだなんだ? 二人目だ」
「でも、さっきとは様子がまったく違うね。今度はなんか、品がいいというか好意的な感じがするというか」
「そうだな。さっきの二人組はなんだか殺気が漂ってたしな」
グラドは首を傾げた。雰囲気のまるで違う人物に探される男とは、一体?
日が傾いてきた。
「そろそろ夕飯の時間だな」
「ちょっと早いけど、私は夕食にするよ」
「またポトフか。泊まるのか」
「あんな奴らが探しているのなら、ここに一人で置いておくわけにはいかないからね」
グラドはしばらく考えていたが、
「おれも食ってく」
と言った。
「あんた作れ。米の洗い方、教えたろ。見ててやる」
そこでライアスはグラドが見ている側で米を洗い、じゃがいもの皮を極めて適当に剥き、にんじんの皮をかなり適当に剥き、にんにくに至っては皮ごと鍋に放り込み、きゃべつは丸ごと入れ、セロリはぼきりと豪快に手で折って投げ入れてグラドを閉口させ、最後にトマトを入れて米とソーセージを投入して、食事を作った。
「う……」
「あ、起きた」
「……なにを……しているんです……」
「ごはんを食べているんだよ」
「食事を……?」
「そう」
「なにを……食べているんですか……」
「じゃがいもとにんじんとにんにくときゃべつとセロリとトマトと米とソーセージのごった煮」
「ポトフだ」
「ポトフ……ですね」
ふふ、とヴィクターが笑った。その拍子に傷が痛んだのか、彼は顔を顰めた。
「う……」
「あんまり笑うなよ。深い傷を負ったんだ」
「私は……どれくらい眠っていたんでしょう」
「そうね、丸一日くらい」
「一日……」
ぐつぐつと、鍋が煮えてきた。
「いいにおいが、しますね」
「食べる? じゃがいもとにんじんとにんにくときゃべつとセロリとトマトと米とソーセージのごった煮」
「ポトフだ」
「……少しだけ……」
ライアスは鍋からじゃがいもと米だけをよそって、じゃがいもをすり潰してヴィクターに食べさせた。彼は首だけを起こして、ゆっくりゆっくりとそれを啜った。
「ああ……」
彼は嘆息した。
「おいしいです……」
ライアスはグラドを見た。
「聞いた? 私の料理を食べて、おいしいって言ったひと初めてだよ」
「褒章ものだ」
グラドは苦笑しながら、ヴィクターの様子をじっと見た。
「とにかく、俺は今日は帰らなくちゃならん。あんたは今日一日ここで彼を見ててくれ。
俺は官舎に帰って、尋ね人がいるかどうか見てくる」
「わかった」
ライアスも明日は店を開けなければならない。厨房に怪我人がいては、営業もままならないだろう。とは言っても、注文はどうせ香茶だけだろうから、大した妨害にはならないだろうが。
そうして、この日も夜が明けた。
ヴィクターは翌朝になると意識がはっきりとしてきて、口もきけるようになってきた。
「あなたのお名前はなんというのですか」
「ライアスだよ」
「ここは、厨房ですね」
「そうだよ。喫茶店」
「お邪魔ではないですか」
「別に。注文は、香茶だけだからね」
「そうですか……」
ヴィクターは天井ほじっと見つめていたが、やがてライアスに、
「私を訪ねて、人が来ませんでしたか」
と聞いた。
「来たよ。二人組と、白髪のおじいちゃん」
「なんとこたえたのですか」
「両方に知らないって言った」
「……」
ヴィクターはなにかを考えていたが、やがて決心したようにこくん、と唾を飲み込むと、
「ライアスさん」
とライアスに話しかけ、営業が暇な昼食の時間を狙って話し始めた。
ライアスはそれを、黙って聞いた。
やがて、いつもの時間にグラドがやってきた。
「香茶だ」
「はいよー」
「それと、あの男はどうしてる」
「寝てる」
「なんか喋ったか」
「うん」
グラドは目を見開いた。
「なんだ。なにを話した」
「後で言うよ」
ライアスは言うなり、客足が途絶えた頃合いを見計らって閉店の札を出した。
「お、おい」
そして、扉の表に『びろうどの織物 ここにあります』と書いた貼り紙を貼った。
「今日はおしまい」
「なんだなんだ?」
「しばらくしたら人が来るから、それまで待ってよう」
知りたげな顔のグラドをよそに、ライアスは片づけを始めてしまった。
そして日が暮れる頃になって、ベルがカラン、と鳴った。
「あの、失礼ですが、こちらにびろうどの織物があると聞いて……」
入ってきたのは、いつかの老紳士である。戸惑いがちなその様子は、どこか信じられないような、まだ疑っているような、問いただしげものである。
「ええ、ありますよ。ですが生憎今は切らしていて、市場へ行かないとないんです」
ライアスがこたえると、老紳士の顔が初めて安心したものになった。
「お、おい。一体……」
「ありがとうございます、ありがとうございます。ヴィクター様は……」
「こちらに」
ライアスは老紳士をなかへ入れると、彼を厨房へ案内した。なかからは、驚きに満ちた悲鳴のようなものがかすかに聞こえてきた。老紳士はすぐに厨房から出てきて店の外へ出、数人の男を引き連れてくると、
「そっとお運びしろ。そっとだ」
そして男たちが厨房からヴィクターを運んでしまうと、老紳士はライアスに頭を下げた。
「お世話に相成りました。このことは、どうかご内密に……」
「誰にも言いません」
「これは少ないですが、お納めください」
「いえいえそんな。そうですか?」
断りながらも、ライアスはしっかりと謝礼をもらった。グラドは呆れてそれを見守った。
「では」
老紳士が出て行って、店内はしーんとなった。
「……なんなんだ?」
「お家騒動だよ」
ライアスはため息をついて、閉じた扉を見た。
「あのヴィクターって男、どこぞの貴族のご落胤なんだとさ」
「なにい?」
「生憎、正妻の息子はあんまり頭が良くなくて、父親はヴィクターに跡を継がせようとしてる。それを危ぶんだ正妻が刺客を放って殺そうとした。で、逃げた。自分は跡目を継ぐ野望なんかないけど、死にたくもない。どうすればいいんでしょう。って言われた」
「なんてこたえたんだ」
「運命に身を任せればいいよ、って言った」
「なんだそりゃ」
「そしたらそれもそうですねって」
「それで、あの始末か」
「うん」
「この後どうなるんだ」
「多分、跡を継ぐんじゃないかな。家に帰るって言ってたし」
「……そうか」
ライアスは簡単に店内を掃除して、
「じゃあ、今日はこれでおしまい。家に帰るよ。二日戻っていないしね」
と言って帰っていった。
それからしばらく、ライアスは店にやってくる常連にしつこく、
「パルフェあるよ」
「リゾット食べない?」
「パンケーキできてるけど」
としきりに勧めては悉く断られ、その度に彼らになぜそんなに自信満々で料理を勧めるのかと訝しがられていたが、その理由を知っているのはグラドのみである。
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