第一章 3
2
あの人質事件以来、グラドは毎日『薔薇のため息』に来るようになった。
「香茶をくれ」
「パンケーキは?」
「いらん。香茶だ」
「パルフェとか」
「香茶だけでいい」
そして必ず香茶を三杯飲んで、代価を払って帰っていくのだ。時には、店主と会話をすることもある。
長居をする彼に、常連たちは興味津々になった。
「なにしに来るんだ?」
「三杯とは多いな」
「確かにここの香茶はうまい。が、三杯は飲みすぎだ」
「裏があるな」
彼らは話し合った。しかし、それがなにかまではわからない。
「なんだろうな……?」
彼らがそんなことを話し合っていると、今日もグラドがやってきた。
「らっしゃい」
「香茶だ」
「三日月ゼリーあるよ」
「香茶だけでいい」
「あっそう」
店主もいい加減諦めればいいのに、一度料理を口にした客にはしつこく食べ物を勧める。
なにかの間違いが起きたのなら、またその間違いは起きると信じて疑っていないのだ。
「《不運のネヴリアス》に運でもめぐってこなくちゃ、わかんねえ話だぜ」
「そりゃ、相当だ」
「まったく」
彼らは口々に言い合った。
《不運のネヴリアス》。
それは、戦士のなかの戦士。技量、度胸、身体、そして、戦士の絶対条件である経験。 しかしその腕のよさ、よすぎる腕ゆえに誰一人雇おうという者がおらず、たった一人の主君が死んでのちはいずこかに姿を消した悲運の戦士である。戦士としての技量を生かしきれずに役目を終えたその生き様を嘆き、ひとはこの戦士を《不運のネヴリアス》と呼んだ。
「お、時間だ。俺もう行かなきゃ」
「お、俺もだ」
常連たちが次々と去っていって、店内にはグラドとライアスだけになった。
「ほら香茶だよ」
「相変わらず口の利き方を知らねえな」
グラドは苦笑しながら香茶を受け取った。
「あんた、どこの出身だ?」
「……レステト」
「へえ、随分遠くから来たんだな。聞いたことあるぜ。なんでも、本当の名前はいつもは伏せておいて、通称で呼び合うんだろ。気心の知れた、心を許した相手にしか名前を教えない国なんだって聞いたことがある」
「そうね、そんなような国だね」
「じゃあライアスってのも通称か」
「……まあね」
本当の名前までは深くは聞かず、グラドは話題を変えた。
「なんでこんなとこで喫茶店なんかやってるんだい」
「他に取り柄がないんだ」
「そうか、香茶、うまいもんな」
他はからきしだけどな、とは言わず、グラドは笑った。
「また来るよ。ほら、銀貨一枚」
香茶三杯分の代金を支払うと、彼は帰っていった。ライアスは片づけをしながら、なんでこんなところで喫茶店なんかやってるんだというグラドの質問を頭のなかで繰り返していた。
「君は本当に不器用だね。楽器もだめ、絵はからきし、文章は支離滅裂、料理はしないし、針に糸も通せない、花の名前は薔薇すら知らないときた。一体なにができるんだい」
「じゃあ代わりにおいしい香茶の淹れ方を教えてあげる。こうして茶葉に少しだけお湯をかけて……」
カラン、とベルが鳴って、それで我に返った。
「らっしゃ……あれ?」
新たな客か、と迎えてみれば、それはグラドである。
「なにしに来たの?」
「客に向かって随分な口のききようだな」
彼は苦笑しながらこうこたえた。
「ちょっと場所を貸してほしいんだ」
「また?」
「そう言ってくれるな。ここは便利なんだよ。大通りなのに、人が大勢来ることはなくて、それでいて見通しがいい」
「いいけど、高いよ」
「注文はするよ。香茶だ。部下も来る」
「はいよー」
ライアスが奥で支度をしていると、グラドの部下たちが続々とやってきた。
「誘拐されたのはなんて子だ」
「翡翠通りのラナンという家庭の、一人っ子です」
「誘拐ー?」
香茶を持ってきたライアスが素っ頓狂な声を上げた。
「この前といい誘拐といい、物騒な街だな。引っ越そうかな」
「まあまあ。秘密厳守で頼む。な、な」
香茶だ、と言われ、ライアスは奥に引っ込んでいった。まさか、喫茶店で作戦会議とは誰も思ってはいないだろう。そこがグラドの狙い目でもあるのだが。
ライアスが大勢の分の香茶を用意していると、なにやらグラドは部下と揉めているようである。
「?」
なんだろう、と思ったが、自分には関係のないことだ。
「香茶お待ちー」
人数分の香茶を置いてさっさとずらかろう、と思っていると、
「ちょっと待った」
とグラドに止められた。
「うん?」
「あんた、ちょっと協力してくれないか」
「協力?」
「身代金の受け渡しに、相手は女が金を持って来るよう要求しているんだ。こちらは軍人を配備したいんだが、適当な人材がみんな出払っていていないんだ」
「それでなんで私?」
「あんた背が高いし、目端も利くだろう。ただ行って、男に金を渡すだけだ。頼む」
「えー」
「いたいけな男の子が誘拐されてるんだ。助けると思って」
「むー」
「協力してくれたら軍から報奨金が出るぞ」
「しょうがないなあ」
ころりと態度が変わるライアスに苦笑しながら、グラドは作戦を話し始めた。
「明朝八の刻、国立公園の池のほとりで受け渡すことになっている。麻の袋に金貨を詰めて、それを椿の樹の繁みに置くよう指定されている」
「椿の樹なんてどこにでもあるんじゃないの」
「国立公園の椿の樹は、一か所なんだ」
「へえ」
「あんたはそこに行って、男を待って、合言葉を言って、それが合致したら金を渡して、それと引き換えに男の子を引き取ってくれればいい」
「わかった」
ライアスはけろりとしている。度胸があるのか、それともなにも考えていないのか、いまいちよくわからない。
「頼んだぞ」
「はーい」
しかも、緊張感というものがない。
「大佐、大丈夫ですかね」
「うーん」
しかし、他に頼む相手がいない。一か八か、ライアスに賭けるしかないのだ。
次の日の朝の八の刻、辺りは一面濃い霧に覆われていて、視界はひどく不明瞭であった。「ひどい霧だな……これじゃなにも見えやしねえ。ライアスはまだか」
「まだのようです。……あっ、来ました」
霧のむこうから、背の高い女が歩いてきた。ライアスだ。そして彼女は高い樹の側で立ち止まると、そこで持っていた袋を足元に置いて誰かを待ち始めた。
冬の日の、霧の朝である。冷える。
グラドと部下たちは震えながら男が来るのを今か今かと待った。
八の刻が過ぎ、九の刻になるかならないかという時になって、霧のむこうから人影が近づいてきた。
「誰か来たぞ」
「しっ」
見れば、人影はライアスに近づいて、何事か話しているようである。
「男の子はどこだ……?」
「霧でよく見えません」
「あっ男が逃げます」
「なに? 追え!」
しかし、霧のなかでの、遠くからの見張りである。彼らは見る見るうちに男を見失った。 その時である。
「うわあっ」
霧のむこうから、叫び声がした。それから、なにかを殴り倒す音が連続して聞こえてきた。
「なんだ……?」
グラドと部下たちは顔を見合わせた。
「来てくれ。こっちだ」
彼らは首を傾げた。あれは、ライアスの声だ。
グラドは声のした方へ駆けた。霧のなか、それは難航した。
「いてててて。は、離してくれ。勘弁してくれ」
「さらった子供の場所を言え。言わないと、折る」
「いててててて」
「折るぞ」
ぎし、と不気味な音がした。
「痛い痛い痛い。言います言います。池のむこうの、掘っ立て小屋のなかです」
「だとさ」
ライアスが言うと、グラドがはっと我に返った。彼は部下に命じた。
「向かえ」
「はっ」
部下たちが走って行ってしまうと、別の方角からまた他の人員がやってきた。そしてライアスが捕まえていた男を捕縛してしまうと、その男を連れて行ってしまった。
「……お前たち、あっちから見てたんだろう。なにを見た」
「はっ。あの女性が金を持って逃げ出したあの男を凄まじい勢いで追いかけ、あっという間に手を掴んだ……までは、見えました」
「あとは、見えなかったのか」
「まったく」
寒い朝だというのに、グラドの額に汗が浮いている。
「よし、行っていい」
「はっ」
ライアスがぽんぽん、手を払って、こちらへやってきた。
「久し振りに運動したら腹が減った。朝食はあんたが奢れ」
「いいとも。世話になった礼だ」
「報奨金とは別だぞ」
「がめついなあ」
太陽が高くなってきて、二人は公園を歩いた。
「なあ……」
グラドは池を横目に見ながら、ライアスにそっと尋ねた。
「名前、なんていうんだ」
「知ってるだろう。ライアスだ」
「それは通称だろう。本当の名前だよ」
「言わん」
「つれないなあ」
教えてくれよ、グラドは言った。
「言わないよ」
ライアスは尚も言った。
「教えてくれたっていいだろう」
「しつこいな」
ライアスは振り返った。
「なんでそんなに知りたいんだ」
「惚れたのさ」
「――」
「好きな女の名前は知りたい。物の道理だろ」
ライアスはちょっと真顔になり、そして、
「物好きな男だな」
と言って歩き出した。
霧が晴れてきた。
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