第1章:宇宙の日常:嵐の前の静寂

 国際宇宙ステーション「ニュー・ホライズン」。

 地球から400キロメートル上空を周回するこの巨大な人工構造物は、人類の叡智の結晶だった。ニューホライズンでは特殊な重力発生機構により、地球の3分の1程度の疑似重力を生み出している。


 ジョン・ハリソンは、いつものようにステーションの中央制御室で一日を始めた。地球上では杖が必要だった彼だが、ここでは軽やかに動き回れる。モニター画面に映る地球の姿を眺めながら、彼は深呼吸をした。


「おはようございます、ジョン」


 サラ・チェンの明るい声が響く。


「やあ、サラ。今日も元気そうだね」


 ジョンは微笑みながら応じた。


「はい。でも、ジョンほどではありませんよ。あなたは宇宙に来るたびに若返っているみたいです」


「はは、そうかもしれないな。ここでは地球の重力から解放されるからね。私には1Gより0.3Gぐらいがちょうどいい」


 ジョンは軽やかに体をジャンプさせてみせた。彼は今、ニュー・ホライズンでの自由を楽しんでいるのだ。



 ジョンは、磁気浮上式の移動ユニットに乗り、ニュー・ホライズンの主要研究区画へと向かった。最初の停留点は、先端バイオテクノロジー研究室だった。


「おはよう、ドクター・リュウ」


 ジョンは、微小重力環境下での細胞培養に取り組んでいる若手研究者に声をかけた。


「あ、ジョンさん。おはようございます。ちょうど良いところに」


 リュウ博士は、3Dホログラフィック・ディスプレイに映し出された細胞構造を指さした。


「この微小重力下でのオルガノイド形成過程をご覧ください。通常の1Gとは全く異なる成長パターンを示しています」


 ジョンは慎重に観察し、頷いた。


「興味深いね。重力ストレスの欠如が、細胞の極性化プロセスに影響を与えているようだ。MEMSセンサーで細胞内のシグナル伝達経路の変化も追跡してみてはどうかな?」


「もうやっていますよ、ジョンさん」


「さすがだな、ドクター」


 次に、ジョンは宇宙物理学実験モジュールに立ち寄った。そこでは、暗黒物質探索のための超伝導粒子検出器の調整が行われていた。


「やあ、アレックス。SCPDの較正はうまくいっているかい?」


 アレックスは、クライオスタット内の検出器を指さしながら説明を始めた。


「ええ、まあまあです。でも、宇宙線ミューオンのバックグラウンドノイズが予想以上に高くて……」


 ジョンは思案顔で答えた。


「そうか。アクティブ・ベトー・システムの感度を上げてみるといいかもしれない。それと、データ解析にはマシンラーニングアルゴリズムの導入も検討の価値があるぞ」


「ありがとうございます。検討してみます」


 最後に、ジョンは革新的エネルギー技術研究室を訪れた。

 そこでは、核融合炉のミニチュアモデルの実験が行われていた。


「どうだい、サラ。トカマクの磁場閉じ込めは安定しているかね?」


 サラは、プラズマ診断装置のデータを示しながら答えた。


「はい、ジョン。でも、まだエネルギー収支比(Q値)が1を超えられていません。イオン温度を上げても、ブレムシュトラールング放射損失が増大してしまって……」


 ジョンは、プラズマの磁気流体力学的挙動を示す複雑な方程式が並ぶホロスクリーンを眺めながら提案した。


「ヘリカル磁場構造の最適化を試してみたらどうだろう? 非軸対称配位でプラズマの安定性が向上するかもしれないぞ」


 このように、ジョンは各研究室を巡回しながら、若い研究者たちと専門的な議論を交わし、時に的確なアドバイスを与えていった。彼の豊富な経験と広範な知識は、ニュー・ホライズンの科学研究の進展に大きく貢献していたのだ。



 ニュー・ホライズンの食堂モジュールは、地球の景色を一望できる大きな観測窓に面していた。ジョンは、特殊な粘着性のあるトレイを持ち、テーブルに近づいた。そこには既に、若手天文学者のエミリー・ワンと、ロボット工学者のマルコ・シュミットが座っていた。


「やあ、みんな。今日のメニューは何だい?」


 ジョンは笑顔で声をかけた。

 エミリーが答える。


「今日は宇宙食の新作よ。真空乾燥したサーモンのムースと、凍結乾燥したグリーンピースのリゾット。デザートはシェフ特製のアイスクリームよ」

 ジョンは真空パックを開封し、中身を押し出した。ペースト状の食事が、特殊なスプーンにくっついて浮かないようになっている。


「ふむ、見た目は地球の食事とは随分違うが、香りは悪くないな」


 マルコが口を挟んだ。


「味は結構いけますよ。でも、やっぱり地球の本物のピザが恋しくなりますね」


 三人は愉快に笑い合った。


「確かに」


 ジョンは同意しながら、サーモンムースを口に運んだ。


「でも、この独特の食感も悪くない。それに、窓の外の景色を見ながらの食事は格別だよ」


 エミリーは地球を見つめながら言った。


「本当ですね。私たちが研究している星々も、あの青い惑星の中にいる人々を見守っているんでしょうね」


「そうだな」


 ジョンは深く頷いた。


「我々の研究が、いつかあの地球の人々の役に立つ日が来るはずだ」


 マルコは、デザートの宇宙アイスクリームを口に運びながら言った。


「ジョンさん、昔の宇宙食はもっと味気なかったんでしょう?」


「ああ、随分と進歩したよ。初期の宇宙食は、ただ栄養を摂取するためだけのものだった。だが今では、こうして楽しみながら食べられる」


 三人は、宇宙食の進化や、それぞれの研究テーマについて談笑しながら、昼食の時間を過ごした。時折誤ってジュースをこぼしても、落下速度が地球の三分の一のため、またそれを空中で受け止めてすべてコップに戻すことができた。


 ジョンにとって、この何気ない日常の一コマも、宇宙生活の大切な醍醐味だった。地球とは異なる味わい、独特の食事方法、そして何より、共に宇宙に住む仲間との交流。それらすべてが、彼の人生をより豊かなものにしていたのだ。



 昼食を終えたジョンは、ニュー・ホライズンの専用トレーニングモジュールへと向かった。円筒形の広々とした空間には、宇宙空間での長期滞在に対応した最新の運動機器が並んでいる。


「やあ、みんな。今日も頑張ろうか」


 ジョンが声をかけると、すでにトレーニングを始めていた数人のクルーメンバーが笑顔で応えた。


「おっと、ジョン。今日は珍しく遅いじゃないか」


 トレッドミルで走っていたマイク・フォスターが冗談めかして言う。


「ああ、バイオラボで面白い発見があってね。つい時間を忘れてしまったよ」


 ジョンは苦笑いしながら、抵抗バンドを手に取った。


「それで、どんな発見だったの?」


 聴診器を首にかけたステーション付きの医療官、エレナ・ロドリゲスが興味深そうに尋ねた。


 ジョンは抵抗バンドを引っ張りながら説明を始めた。


「微小重力環境下での細胞の極性化プロセスがね、予想外の挙動を示していてね。これが医療分野にどんな影響を与えるか、君の意見も聞きたいところだよ、エレナ」


 エレナは目を輝かせた。


「それは興味深いわ。後でぜひ詳しく聞かせてね」


 会話を続けながら、ジョンは慎重に運動を進めていく。地球の3分の1という絶妙な重力環境は、彼の老いた体にとって理想的だった。筋肉に適度な負荷をかけつつ、関節への負担は最小限に抑えられる。


「ジョン、そのフォームはどうなんだい?」


 隣で重量挙げをしていた若手宇宙飛行士のケビン・チャンが声をかけてきた。


「ああ、これかい? 宇宙環境では地上と異なる筋肉の使い方が必要になるんだ。特に体幹の安定性が重要でね……」


 ジョンは、自身の経験に基づいたアドバイスを熱心に語り始めた。

 若いクルーメンバーたちは、彼の言葉に真剣に耳を傾ける。


 トレーニングが進むにつれ、ジョンの動きは徐々にスムーズになっていった。宇宙空間での長期滞在による筋力低下やボーンロスを防ぐため、彼は特に下半身と体幹の強化に力を入れる。専用の振動プラットフォームに立ち、全身の筋肉を刺激する。


「ねえ、ジョン」


 エアロバイクをこぐエレナが声をかけた。


「この前の映画ナイトで見た古い宇宙映画。あれって本当にああだったの?」


 ジョンは懐かしそうに笑った。


「ああ、『2001年宇宙の旅』のことかい? まあ、想像以上に現実に近いところもあったねえ。でも、人工重力の仕組みは全然違う。今はもうあんな回転式じゃないからね」


 談笑しながらも、ジョンは丹念にトレーニングを続ける。

 彼の動きには無駄がなく、長年の経験に裏打ちされた確かな技術が感じられた。


 1時間ほどのトレーニングを終え、ジョンは満足げに深呼吸をした。


「さて、今日はこんなものかな。みんな、頑張ってくれよ」


 汗を拭きながらモジュールを後にするジョンの背中には、若いクルーメンバーたちの敬意のこもった視線が注がれていた。



 夕方、ニュー・ホライズンの「バー」と呼ばれる休憩スペースは、柔らかな人工光に包まれていた。円形の窓からは、地球の青い曲線が見える。ジョンは、特殊な球状容器に入った30年物のウイスキーを手に取った。


「乾杯。地球に」


 ジョンは窓越しに見える青い惑星に向かってグラスを掲げた。


「今日も良い眺めですね」


 隣に座ったのは、植物学者のエレナ・コスタだった。

 彼女の手には、真空パックに入った特製サラダがあった。


「ああ、本当に美しい」


 ジョンは頷いた。


「ところで君の水耕栽培プロジェクトはどうだい?」


 エレナは口元を拭いながら答えた。


「順調です。微小重力下での根の成長パターンが興味深いデータを示しています。でも、光合成効率を上げるのに苦心していて……」


「光質の調整を試してみたらどうだろう?」


 ジョンは提案した。


「LEDの波長を変えると、代謝経路に影響を与えるかもしれない」


 そこへ、若手エンジニアのマイケル・チャンが加わった。

 彼の手には、特殊な袋に入った宇宙食のカレーがあった。


「おや、今日はカレーか」


 ジョンは微笑んだ。


「ええ、地球の味が恋しくなって」


 マイケルは苦笑いを浮かべた。


 三人は、それぞれの飲み物や食事を楽しみながら、宇宙での研究生活について語り合った。窓の外では、地球が静かに自転を続けている。


「さて」


 ジョンはグラスを置いた。


「明日も早いからな。そろそろ私は休むとするよ」


 エレナとマイケルは頷いた。


「「おやすみなさい、ジョン」」


 ジョンは立ち上がり、自分の居住モジュールへと向かった。明日もまた、新たな発見と挑戦が待っている。そう思いながら、彼は静かに目を閉じた。


 こうして、ニュー・ホライズンでの平穏な一日が過ぎていく。


 しかし、ジョンはまだ知らない。


 この日常が、明日には一変することになろうとは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る