Epilogue ④


 そして、冒頭の会話へ。


「買い物デートは楽しかった? ん?」


 意地悪そうにニヤニヤ笑い、母親は香奈にそう問うと「デートじゃないし」と素っ気なく答え、「味濃いし」と料理にまでケチをつける。


「松岡くん、あのね、さっき旦那と話してたんだけどね、松岡くんなら香奈を任せてもいいんじゃいかなって」

「ええと……」


 香奈の父を見ると、難しい顔で腕を組み「いやね」と、ビールを一口飲み、重々しく口を開く。


「正直、香奈を嫁にやるのは早いと思ってる。手塩にかけて育てた一人娘だからね。だけどね、香奈が……娘が……望んでいるなら……」


 語尾を震わせ、次第に顔のパーツ全てを振動させるまでに至った。それほどまでに哀しいのか。


「あの、誤解されているようですけど、香奈ちゃんと付き合う気はありませんので」


「「「ええっ!」」」


 親子三人の綺麗な三重奏を流し、説明する。というかなんで香奈まで驚いているんだ。


「僕は香奈ちゃんのこと嫌いではありませんけど、だからといっていきなり恋人になるっていうのも違う気がしますし、まずはお互いのことよく知ってからにしようってさっきも話をしてたんです」


「本当か! じゃあまだ香奈は嫁には行かないんだな!?」


 嬉しそうな父親に私は頷いて見せ、酒のせいなのか、顔を真っ赤に上気させたまま、缶ビールをゴクゴクと喉の奥へ流し込んでいく。


「あら~、それじゃあ振られちゃったのね。かわいそー」


 悲壮感を全く感じさせない慰めは、むしろ逆撫でようとしているのではないかと疑ってしまうが、当の香奈は何やら思案している様で、視線は宙に浮いていた。


「そういうことですので、なんにせよとりあえずは今まで通りということで。たまに遊びに行ったりするかもしれませんけど、ちゃんと無事に送り届けますのでご心配なく」


「……そういうこと」


 香奈の表情は梅雨時の空のように曇り、低い声で「……やっぱり、そうなんだ」と、呟く。


「ど、どうした? さっき駐車場で――」


「違う! さっきは一度答えを保留して、友達として付き合いながら恋人になろうってニュアンスだったもん! でも今の言い方、付き合う気はないって言い方だった!」


 予想外に感情を剥き出しにして責められてしまい、私は言葉を返せずにいた。

 それは剣幕に気圧されたというよりも、香奈の言う通り、私の中には香奈と付き合う気は全くないという思いが確かにあったからである。


「今は彼女と別れたばっかりだから付き合えないって。もう少しだけ待ってって……言ったのに……」


 悔しそうに歯噛みする彼女にかける言葉を探す私に助け舟を出したのは、錯乱気味に興奮している彼女とは正反対に落ち着き払っている母親だった。


「馬鹿ねーあんたは。だから子供扱いされちゃうのよ。超自分勝手」

「はぁ? お母さんに言われたくないし」


 四十を過ぎた女性の口から超というワードが出たことに若干の違和感もあったけれど、まさかこの母親が私サイドに立ってものを考えてくれようとは思いもよらなかった。


「あのねえあんた、ちょっとは考えてみなさいよ。仮にあんたと松岡くんが付き合ったとして、松岡くんはどうするの? どういう目で見られるの?」


「知らないよ、そんなの。っていうか、みんな私達にそんな関心抱くわけないじゃん。他人が誰と付き合おうと関係ないんだし」


 香奈の口調はかなり崩れ始めている。私の前では相当に気を張って話していたのだろうけれど、気の置けない家族の前となると、自然と地というか、我というか、無意識に普段の彼女が顔を出してしまうのだろう。


「関心抱くに決まってんでしょうが馬鹿ね。あんた考えてもみなさいよ。――あ、そうそう、松岡くん、職場ってどの辺にあるの?」


 急にこちらに水を向けられ、反応が遅れてしまったが「市内ではないんですけど、そんなに遠くもないですね。駅で言うと四駅です。ここから自転車で――三十分くらいかな」と、通勤の道順を想像しながら伝えた。


「そうなの。――ほらみなさい」

「だからなんなの。回りくどくて全然わかんないんだけど」


「はあ……。いい? たとえばあんたが松岡くんと並んで歩いてるとするでしょ? そうすると職場の人とか、利用者さんとかに見られる可能性はあるわよね? その時どんな言い訳をするの?」


「そんなの、正直に言えばいいじゃん。付き合ってますって。なんで関係ない人に気を使う必要があるの?」


 はあ……と、再度露骨な溜め息を吐いた香奈の母親に、香奈は苛立ちながら「だからなんなの」と詰め寄った。


「なんなのじゃないでしょ。まずあんたは自分を知りなさい。あんたみたいなガキんちょと社会人である松岡くんが並んでいちゃこらしてたら不審がる人だっているでしょ。しかも二人は付き合ってると言ってる。これさ、松岡くん、職場でどんな目で見られると思う?」


「……」


 一瞬、勢いは殺がれたようで、「……何とも思わないでしょ、普通」と、唇を尖らせる香奈。


「思うもんなの。世間知らずの子供っちには分からないものなのよ。もしもそれで松岡くんがロリコン扱いされてもあんたいいの? 他人なんて関係ないから我慢してって、松岡くんに言えるの?」


「それは……」


 上目遣いで私にSOSを送る香奈を助けてあげたい気持ちはあるけれど、親子の口論に口を挟む勇気は私にはないし、なにより、これは母から娘への大事な教育シーンだと思う。下手な助言は無意味どころか彼女の成長するチャンスを逃させてしまうことになるかも知れない。もちろん、いつでも割って入れる様、心の準備だけはしているけれど。


「あのね、大人の世界には社会的信用っていうものがあるのよ。これ、仕事中の態度振る舞いだけじゃなくて、プライベートにまで監視の目は行き届くんだから。まぁ四六時中何をしてるか盗み見られているわけじゃあもちろんないけど、でもね、普段からどんな人間なのかを誰かが常に見てるものなのよ」


 それは本当に同意できる。以前職場仲間の女性が、近所に住む別の女性がゴミの分別をしないで出していたところを目撃したらしく、すぐに職場で言いふらしていたことがあった。私を含め、大半は大して気にも留めていなかったのだけれど、一部ではガサツでルールを守らない女というレッテルを張り出す者がいた。人の癖やちょっとした仕草にまで不快感を露わにする人間もいるこの世の中で、十五の少女と恋仲であるなんて、そんなことが知れ渡ってしまったら――よくてクビ、悪くて通報されてしまう可能性もあるだろう。


「このご時世、ただでさえロリコンに厳しいんだからね。松岡くんがどうなのかは知らないけど。でも、十五も離れたあんたと恋人関係になってる三十路の男は、世間的には少女趣味の変態野郎って認識を持たれても仕方ないものだってことは覚えときなさい」


「……ていうか、さっき二人で買い物に行くように言ったのお母さんじゃん。一緒にいるとこ見られたらまずいんだったら今日だってまずいじゃん」


「それはあんた達が付き合う前提だと思ってたからだよ。二人がちゃんと覚悟して付き合おうっていうならこっちだって協力を惜しまないわ。でもそうじゃないでしょ? 松岡くんはちゃんとあんたの将来のことも考えてくれてるんだし、現状はあんたひとりが浮かれてるだけでしょうに。そもそも、いくら勝負服がないからって、学校が休みなのにわざわざ制服着て行くかね。一番女の子っぽいと思われる服装が学校の制服だからでしょ? それ。ほんと、浅はかっていうか、短絡的っていうか……考えがちびっ子過ぎるよね、あんたは」


「うるさいなぁ。服のことは別にいいでしょ。――それじゃあ、もうこの辺で一緒に歩かなければいいじゃん。誰も知らない所に行ってデートすればいいんだから」


「だから、そんな短絡的なことを言ってるわけじゃないんだってば。そもそも、あんたがなにをしてあげられるの? 付き合って、仕事に疲れた松岡くんに、あんたは彼女としてどんなことをしてあげられるの?」


 なにかを言おうとして口籠り、私を見て顔をほんのりと赤く染めた彼女の頭には、恐らく卑猥な妄想が浮かんだのだろうけれど、当然彼女の母親が欲している答えはそんなことではない。


「マッサージとか……」


「はっ! マッサージねぇ。あんたね、仕事の疲れが素人の揉み解し程度で回復すると思うなよぉ? 肉体的はもちろんのこと、精神的疲労や苦痛は想像を絶するんだからね、あんたみたいなガキんちょには想像もつかないくらいのそりゃあもう凄さなんだから。それを、何? マッサージ? ぷぷ、肩揉んで今日も一日ご苦労様ですとでも言うつもり?」


「じゃあ何をすればいいの? 否定ばっかりしてて明確なアドバイスひとつできないじゃん。超無能」


 娘も娘で口が悪いが、母も母でちょっと煽り過ぎじゃないかと心配になる。これがこの母子のコミュニケーションの取り方なのだろうか。


「それはあたしが言うことじゃないでしょ。それに、あんたは松岡くんを熟知とまではいかなくても、それなりに深く知っているんでしょ? だからこそ好きになったんでしょ? だったら、松岡くんが喜びそうなことだったり、して欲しいことだったりも自然と見えてくると思うんだけど」


 尖らせた唇を私に向け、何やら思案顔で黙り込む。恐らく今日一日で話した内容を反芻しているのだろう。


「――それは付き合ってみないと分からないことじゃん。今はまだ、やっと仲良くなったところなんだし」


 仲良くなったか? ……まぁ距離は多少縮まったのだろうけれど。


「……いい? あんたはね、考えなし過ぎるの。行動してから、その時々で対応すればいいと考えてる。短絡思考もいいけど、他人を巻き込む場合はそれは絶対に改めなくては駄目。行動を起こす前に、相手にどれだけの迷惑がかかるのか、不利益を被らせてしまうのか、しっかり計算してから動きなさい。いざとなればなんとかなるという考えは身を滅ぼすし、相手の人生だって滅ぼしかねないんだからね」


 死んだふりをして人をズル休みさせた人間が放っていい台詞では決してないとも思うが、なかなかに説得力のある箴言しんげんであった。


 たしかに、自分の人生ならどうとでも責任は取れるし、リカバリするのも諦めるのも自分次第ではあるけれど、他人が絡むとなるとそれは少し捉え方も変わってくる。


 ――相手の人生を滅ぼす。とても恐ろしい言葉だけれど、そう考えると気軽に自分の人生へと引き込むことは躊躇ためらわわれるものだ。


「――でも私は、納得できない。他人にどう思われようと、好きな人も好きな物も手に入れたい。それだけは譲れない」


「格好つけてるとこ悪いけどさ、それただの我儘じゃん。あんたはその辺の飼い犬が欲しくなったら盗んできちゃうの? 他人がどう思ってもいいってそういうことだよ。自分の娘が無配慮過ぎてお母さん泣きそうよ」


 眉尻を下げて泣き真似をする母親を無視して、香奈は食い下がる。


「そんな理論の飛躍はなんの攻撃にもなってないし、だからどうしたのとしか感じないよ。今は十五だけど、あと二年ちょっとで十八になるし、そしたらもう結婚できる歳だし、結婚しちゃえば誰にも文句言えないじゃん。なんならすぐに入籍してもいいよ。夫婦だって言えば、それこそ他人がどうこう言う問題じゃないし」


「ふ、夫婦……」


 父親に箸を落とす程の動揺を与えた香奈は、母親の顔を勝ち誇ったような目で挑発的に見詰める。


「――あんたと松岡くん二人共が結婚したいって言うのであれば、あたしは止めないし、むしろ息子ができて万々歳よ。大歓迎するわ。でもね、それでもあたしはあんたにはもう少し冷静になって欲しい。物事を判断できるように成長してから、大人である松岡くんとの恋愛を楽しんで欲しい。その上で、互いに互いを尊重し合える関係になれたんだったら、そこで初めて夫婦になることを選べばいいと、あたしは思ってるよ」


 優しい口調にトーンダウンし、香奈も毒気を抜かれてしまった感はあるが、ここまで来ては引き下がれないと――若干無理矢理にも見えたが――反論を述べる。


「そ、そんなに待ってられないよ。松岡さんだってもう三十なんだし、私が大人になって認めてもらってから結婚するとか、そんなのもうおじさんじゃん松岡さん。私以外の身近で手頃な女と結婚しちゃうかもしれないし、そんなに待てない」


 身近で手頃……とんでもない偏見を持っているなこの子は。恐らく母親の影響もあるのだろうけれど。


「そんなに信用できないんだったら結婚は諦めなさい。当然付き合うのもね。信頼なんて最低限の条件なんだからね。相手の気持ちがどこかへ行ってしまうんじゃないかって常に不安になるのは恋愛の醍醐味みたいに語る馬鹿もいるけど、そんなことは決してないんだから。刺激が欲しいならワサビでも舐めときな。恋愛は刺激を求めるもんじゃない。互いに居心地のいい存在になることなんだ」


「……」


 これには香奈も、何も言い返すことはできなかった。しなかった、と言うべきなのだろうか。


「あたしもお父さんもね、あんたが最終的に幸せになってくれればそれでいいって思ってる。それにはできる限りあんたの意見を尊重してあげるべきだし、そんなあんたをフォローしてあげるつもりだよ。でもね、他人に迷惑をかけてまで何かを欲するような人間にはなってほしくない。たとえ不倫だとか浮気なんかじゃなくても、とにかく相手の人生を第一に考えてくれるような、そんな人間になってくれればそれでいい」


 正直、数分前までは軽蔑を孕んだ視線で見ていた香奈の母親だったけれど、実際、こうして話を聞いていると、至極真っ当なことを、口論しながらでもきちんと娘に伝えることができる、ある意味理想の母親なのではないかと今は認識を改める必要があるなと感じる。口の悪さは玉に傷だけれど。


「あー、うん。お父さんは、香奈が結婚しようとしまいと、最後までちゃんと見守っているから、安心しなさい」

「松岡さんは……お母さんの意見に賛成ですか?」


 美味しいところを持っていこうとして見事にスル―された父親は、不貞腐れたように浅漬けにされたキュウリを、先程地面に落とした箸で突いていた。


 というか、この家族は全員がいじけ癖を持っているのか。


「賛成、というか、反対する要素が全くないよ。だって、君のお母さんは俺のことだけじゃなく、ちゃんと君を第一に考えて忠告してくれてるんだから」


 君自身が一番分かっているだろう? とはつけ加えなかった。蛇足になるし、何より強情な香奈は素直に受け取り難くなってしまうからである。


「……ずるい」


 ガタっと無言で立ち上がり、香奈はそのまま何も言わずに自室へと帰ってしまった。


「ごめんねえ、せっかく松岡くんも入れて家族団欒だんらんを謳歌しようと思ってたのに」


 母親の謝罪は軽口ながらも、表情は本当に申し訳なさそうだった。


「いえ、全然問題ありません。はっきりと意思表示しなかった僕が悪いですから」


 明確に、たった今彼女の母親が香奈に伝えたように、説明をするべきだったんだ。香奈が傷付いたのは、他でもない私の怠慢のせいであり、怠惰のせいでもあるのだから、謝られる筋合いは全くない。


「まぁいいわ。あんな捻くれ娘。放っておけば。さ、ご飯食べちゃいましょう。冷めちゃったからチンしてくるわ。ご飯もよそい直してくるわね」


 私の返答も聞かず、三割程残っていたご飯を山盛りにして持ってきた母親は、冷めた唐揚げをレンジに入れ、嬉しそうに鼻歌を歌いながら、回る皿を見詰めていた。


「なぁ、松岡くん。結婚しても引っ越さないでくれるかな?」

「……」


 この父親だけは、初対面時と印象が全く変わることはなかった。

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