Epilogue ③
「ごめんなさい」
道中、何度も謝罪され、「大丈夫」と何度も返した。
その謝罪の中には、こんな猿芝居に巻き込んでしまってという意味もあるだろうけれど、『あんな両親で――』という意味も多分に含まれていたのだろうと私は解釈した。
そして恐らく、彼女の母親が
「最後にひとつだけ、教えてもらっていいかな」
「? どうぞ」
もうこれ以上この騒動のことには触れないと約束した後、ある意味では最大の疑問とも言えることをまだ私は訊いていなかったことを思い出した。
「どこが好きなの? 俺の」
「――――は?」
スーパー手前の空き地前で足を止めた香奈は、目を丸くしキョトンとした。そしてすぐに顔を赤く染め、ローファーの爪先に視線を落とし「言わなきゃ……ダメですか?」と、聞き取り難い声で問う。
「いや……まぁ……なんか、訊いといてあれだけど……こっちも恥ずかしいのかもって、ちょっと」
「……ですよね」
「……うん」
無言のまま向き合った私達は、お互いに相手の靴を見下ろす格好になり、何となく重い空気が流れ始めたのを感じた途端、ブー、ブーと、彼女のスマホが振動した。
「あ、お母さんだ」
そこには料理に必要な材料が書かれていたようで、「お肉は……」「牛乳っているの……?」など、ブツブツとひとりごちた彼女は、「あ、ごめんなさい。とりあえずスーパーで一通り見て回りましょう。お肉とフルーツは別のお店が安いかもしれませんから」と、先だって歩き出す。
「そうだね」
私はホッと胸を撫で下ろし、もうあんなことを訊くのはよそうと決めた。知ったところでどうなるわけでもなし、彼女を辱めるだけではないかと自分を戒める。
「――何となく、です」
隣に並んだ私の顔を見ずに、歩を進めながら彼女はもごもごと何かを呟いた。
「……? 何となく?」
「……こんなこと言ったら松岡さん、気分が悪いかもしれないけど、ほんとに、何となくなんです」
ああ。――漸く理解した。私が愚かにも先程彼女に問うた答えを口にしているのだなと。律儀にも教えてくれるようだが、聞いてしまっていいのだろうかと逡巡していると、
「松岡さん、空気が柔らかいんですよね。ボーっとしてそうだけど、なんか包み込んでくれそうっていうか」
「包み込むかぁ。うーん、どうだろ」
前の彼女には言われたことがなかったので、いまいちピンとこない表現ではあったが、柔和な雰囲気を感じさせるとは仕事中にも指摘されたことがあるので、きっと言葉に棘がないからなのだろうなと私は勝手に考えている。
「裏がなさそうだし、嘘が吐けなそうだし。嘘吐いてもすぐにバレて、すぐに謝りそうだし。鈍臭そうで、実際鈍臭いんだろうけど、でも、色々考えて行動しているのが伝わってくるから、思慮深い人なんだろうなとは思うし。背も声も高くはないけど、そこまで低くないし、中肉中背だけど、最低限の筋肉はありそうだし、語彙は少ないけど、想像力は多少ありそうだし――」
「ごめん、これ以上聞いてても良い内容は絶対に聞こえてこないと思うから、その辺でいいや。とにかくあれだね、じゃあ取っつき易そうみたいなことだね。無難というか、普通というか。お手頃? みたいな」
「違います!」
と、スーパーに訪れた客が皆こちらを振り向くほどの大きな声で、香奈は否定した。
周囲の人間は何事かと驚いていたが、私が一番驚いていたのは言うまでもない。
「私は誰かを好きになったのが初めてだから上手く表現できませんけど、でもそういうのじゃないっていうのは分かります。恋愛とかもよくわからないけど、顔が好きでも性格が好きでも、結局一緒にいて苦痛じゃない人、楽しくて、余計なことを考えなくてもいい人をみんな探しているんじゃないんですか? 恋人を作る理由は人それぞれなんでしょうけど、でも、何となく一緒にいたいなって人の傍にいれることが、実は一番幸せになれるんじゃないかなって私は思うんです」
――私にとっては松岡さんがそれです!
下を向きながら彼女らしくない大声でそう啖呵を切った香奈からは、勢いで口火を切ってしまったからには、最後まで残さず発してしまおうという気概が感じられた。
「……それは、わからなくはない、かな」
以前同棲していた元彼女とは、そういう気持ちはなかったのだろうかと思い出してみるけれど、もう彼女の顔すらぼやけ始めてしまっている。これは私の生来の性質に起因している健忘症の一種なのかも知れないけれど、あれだけ別れた直後は落ち込んでいたのに、正直今はどうでもいいとさえ思っている。そんな私は偉そうに、恋愛初心者である香奈に向かって『愛とは何か』などと説けるのであろうか。
できる筈もない。香奈は耳を傾けてくれるだろうけれど、私には愛を説く資格など欠片も持ち合わせてはいないということを、誰よりも私自身がよく知っている。
「俺も、愛とか恋とかよくわからないけど、でも、やっぱり一緒にいたいなって感じる人は、容姿とか話の面白さとか、そういうことじゃないんだろうなって思うよ」
下唇をキュッと上げ、上目遣いで私の顔を覗き込む香奈に、算段やら計算の類は一切感じられず、純粋な気持ちで私の言葉を待っているようだった。
「……俺は、香奈ちゃんのこと、もちろん嫌いじゃないし、今回のことで嫌いになったりもしない」
「……」
唇を噛み締め、真剣な眼差しを私に向ける。今まで私の発言をこれ程熱心に受け取ろうとしてくれた人間はいただろうか。なんだかそんなことが嬉しく感じてしまう。
「年齢は……? 気に、しますか?」
恐る恐る、確認する香奈の表情は、午前中にあれだけ私についていた悪態の影すら一切感じさせない、――自分で言うのも
「――正直、世間の目を百%気にしないっていうのは難しいと思う……し、それはやっぱり気にしなければいけないとも思う。異端であることを恐れるなとは言うけれど、ただの異質じゃなく、人に不快感を与える存在になってしまうのはよくないからね。俺が君と付き合ったとして、二人でどこかに出かけたとして、それを好意的な目で見てくれる人ばかりではないし、不愉快に感じる人もいるだろう」
「私は他人のために付き合うんじゃなくて、自分のために付き合いたいです」
瞳に力を宿し、きっぱりと断言する。誰かのためではなく、自分のために。
――その通りだ。
「私はまだ子供だし、背だって低いし、とてもじゃないけど松岡さんと釣り合うとは思いません。もしかしたら、通報されちゃうかもしれないですし」
物騒なことを言うなと突っ込みたいところだけれど、満更、笑い飛ばすことはできない。小柄な彼女と手を繋いで歩こうものなら、途端に警官に職務質問でもされかねない。
「私の大嫌いな警官に松岡さんとの関係を訊かれるのは邪魔臭いですし、好きで一緒にいるのに干渉される筋合いはありません。でも、私達を放っておいてと伝えても、素直に引き下がってくれない可能性もありますよね。大人の松岡さんが子供の私を騙したり、脅迫したりしてるんじゃないかとか」
黙って聞いていれば、一向に私にとってのポジティブな要素が出てこないし、それ以前になぜか付き合う前提で話が進んでいるような気がするのは気のせいだろうか。
「でも、安心してください。私はもうすぐ十六になります。そうすればすぐに結婚できます。そうなれば互いの薬指に誓いの証を付け、何人たりとも私達夫婦の邪魔はできなくなります。何と言っても国が、この日本国が私達二人の仲を認めたわけですからね。国家権力を盾に二人の仲を裂こうとしてもそうはいきません」
――なので、安心してくださいね。
朗らかに彼女は言うが、私が彼女を好いている前提で話を進めるのはそろそろ止めて頂きたいので、私も口を開くことにした。
「いや、香奈ちゃん。結婚は十八歳からになったんだよ。だからあと二年後なら君の言っていることも正しいよ。……でも、うん、そうだね。法律の問題もあるから、確かに十八になれば籍も入れられるし、君が心配してくれている俺のロリコン疑惑もすぐさま晴らすことができるだろう。何よりご両親が公認の仲だと分かれば、誰も俺達を別れさせようとは考えないだろうね。でも、その前にね、俺は付き合おうって言ってないよね?」
「あ……」
十五歳の少女は、赤ん坊の拳がギリギリ入るくらいの小さな口を開けたまま固まった。
「わ、私、なんかはしゃいじゃって……ごめんなさい……」
露骨に落ち込みを見せ、項垂れたままスーパーの店内に足を踏み入れる。
「ちょ、ちょっと待って! まだ終わってないって!」
慌てて肩を引き、駐車場の隅へと連れて行く。そこなら人はまばらにしかいなかったからである。
「あのね、正直、大人でも告白されたら気が動転するものなんだよ?」
「……それはモテる人もですか? それとも松岡さんだからですか?」
「いや、俺がモテない人みたいな言い方はよして欲しいんだけど、まぁ、そうだね、多分誰でもそうだと思う。況して、香奈ちゃんは可愛いからさ」
「そんなお為ごかしは要りません。私は松岡さんに、その……」
ピシャリと叱責した後、口籠る。彼女も余裕がないのだろう。ならばここはせめて、人生の先輩として、リードしてあげるべきなのだろう。
「香奈ちゃん。俺は香奈ちゃんのこと好きだよ……どちらかというと、だけど」
「……」
複雑そうに頷く香奈の肩に手を置き、落ち着いた口調を心がけ、精一杯、一周り以上歳の離れた少女をひとりの女性として扱う。
「でもね、今は俺、彼女と別れたばかりだから、誰かと付き合うとかはあんまり考えたくないんだ」
「……彼女のこと、忘れられないんですか? だったら――」
恋人を作った方が早く忘れられるのでは。そう言いたかったのだろう。
「違うよ。もう前の彼女のことは吹っ切れてる。後出しじゃんけんみたいで狡いけど、どこが好きだったのかって訊かれたら即答できないし、香奈ちゃんが言ってたみたいにただただ一緒に居たい人なのかって言われたらそれも違う気がするし」
元々合わなかったのかもね。
自分に言い聞かせるように私は彼女に対しての気持ちをそう締め括った。
「だけどね、それでもやっぱりすぐに別の人に、っていうのはなんか自分の中で嫌なんだ。別れたからすぐ次にって、節操無い感じがして」
「私は気にしません」
「俺が気にするんだ」
「なら私が気にさせません」
「でも俺は気になるんだよ」
またも香奈は唇を拗ねた形にし、「じゃあ、いつならいいんですか」と詰問する。
「いつかは――わからない。明日には考えが変わってるかもしれないし、一年後までこの気持ちのまま過ごしているかもしれないし」
「そんなの……」
哀しい顔を作った香奈に、私はすぐにフォローを入れる。
「でも、香奈ちゃんと遊びに行ったりさ、どこかで会って話したりするのはこれからやっていこうと思ってるんだ」
「え……」
香奈の顔に光が差した様に見えたのは、きっと沈みかけの夕陽が照らしただけなのだろう。
「それって、友達以上、恋人未満ってことですか?」
「友達ではないけどね」
未だ。
あくまでも現状は。
「これから友達になれるかどうか、お互いに見極めてみようってとこかな。友達にすらなれないんだったら、恋人になっても続かないでしょ?」
「それは、まあ……」
「隣にいることが当たり前になったら、次のステップを踏めばいいんじゃないかな。俺達には――特に香奈ちゃんには、まだまだ凄く長い時間があるんだから」
この先の人生で、きっといつかまたこの初恋のことを思い出す日が来るだろう。
彼女が他の誰かに恋をし、その人の子を宿し、そしてひとつの家庭を築き上げた時、『この人を選んで良かった』と心から思うだろう。
その時に、きっと君は私を選ばなかった自分を褒めるだろう。私には先がない。それは年齢的にも、将来性という意味でも。
同世代の男性と交際し、素敵な家族になれるように、私は君と『友達関係』であり続けようと思う。
初恋は成就しないというけれど、君の私に対する感情は恋ではない。
私の『とっつき易い云々』の台詞を君は強く否定したけれど、あれは君自身がその答えに、本当の気持ちに気付かないために、敢えて大袈裟に否定してみせただけだということに、私は気付いている。
だから、私は君が成長するお手伝いができればいいと思う。
無知で無学、碌に世間を知らない私だけれど、子供が大人になる手助けをできるのであれば、惜しみなく手を貸そう。それが、私の大人としての責務なのだろうから。
親孝行をしていないと彼女の母親に言われてしまったが、孫の顔を見せてやれなかった母に、他人の娘ではあるが、彼女を――香奈を、立派な大人にすることができたのならば、せめてもの手向けにはなるのではと、勝手に想像している。
「……松岡さん?」
「ああ、ごめん。ボーっとしてた」
「まったく。さ、もう行きましょう。早く買わないとなくなっちゃいますよ」
どうせこれ以上話してても建設的な話し合いはできそうにありませんしね。と、大人びたことを言う彼女に苦笑し、「急がなくてもなくなりはしないでしょ」と、後を追いかける。
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