Epilogue ②
「どうぞ」
促された先は、中須家の玄関だった。
「どうぞって……なにか忘れものでもしたの?」
「いいえ。ですから、解答編です」
「?」
いいからいいからと私の背を押し、奥へと連れて行く。
「さ、這入ってください」
寝室の前に辿り着き、そのまま部屋へと押し込まれ、もう一度死体を見なければならないのかと、正直気落ちしてしまったが、彼女の意図は私が思っていたものとは全く異なるものであったらしい。
「……もう一度見て、罪の意識を再認識しようってこと?」
「いいえ、違います。むしろ、罪の意識を綺麗さっぱりなくすためにここに来ました」
「なくす……?」
「はい」
そう言って香奈は、ベッドに横たわる母の顔に、部屋の隅に置かれていたクッションを投げつけた。
「うぎっ」
「! なんてことを――あ、あれ?」
今、声がしなかったか?
「もうバレてるから起きて良いよ、お母さん」
「まさか……」
のそりと、冬眠明けの熊よろしく、頭を撫でながら「痛いなぁ」と、娘そっくりの
「う、嘘、でしょ? あ、あれ、なにこれ」
「――さ、もうひとりも起こしに行きましょう」
混乱を極めている私の背を再び押して行き、今度は脱衣所へ向かう。
「あれ? どこ行ったんだろ」
そこには数時間前は確かにいたはずの香奈の父親の姿はなく、投げだされたロープが落ちているだけであった。
「……あっちか」
リビングへと向かう香奈の後ろを、何が何だか分からずに付いていくと、何やら文庫本の小説を手にロッキングチェアにゆったりと座り寛いでいる中須家の大黒柱の姿があった。
「あ!」
と、一言口にし、本を手から零れ落とした父親は、ガクっと項垂れた。
「……もういいって。バレてるから」
「……………………ほんとに?」
「私達がここにいるのが何よりの証拠でしょ」
「……。母さんのとこは行った?」
「うん。起きてるよ。――あ、来た」
「いや~なんか身体だるいわ~」
首をグルグル回しながら眉根に皺を寄せた中須夫人がリビングへと足を踏み入れる。
こうして、全く状況の整理がつかぬまま、中須家が全員ひとつの部屋に集結した。
「ちょっと、いいかな?」
「はい?」
香奈の二の腕を掴み、そっと引く。
「……説明、してくれるんだよね?」
「あー……まぁ、できる限りで。というか、当事者にさせますよ。当事者というか、立案者?」
と、香奈は父親に指を差す。
「違う違う。父さんじゃないよ。父さんが計画したんだったらもっと素晴らしいトリックを演じていたさ。それこそ某警部でも見抜けないようなトリックをね。だって作家だよ? 僕は。――というわけで、これは全部母さんが企てたんだ。責めるなら母さんを責めてくれるかな」
「ずるい! 自分だってノリノリで協力したくせに!」
「無理矢理やらされたこっちの身にもなってくれよ、ああ疲れた」
夫婦のコント染みたやりとりを見させられ、私の中で煮え始めた苛立ちが沸々と温度を上げていき、既に触ると火傷しそうなまでに
「いや、ちょっと待ってください。これ、ドッキリですか? 中須家のみんなで僕を騙したってことですか?」
「騙したって言うとほら、なかなか人聞きが悪くなっちゃうじゃない? だから、ね? ほら、あれよ。試したって感じ?」
「同じですよ。というか試されるような覚えは全くないんですけど」
ほとんど話したことすらない人達だぞ。なんの接点があって、そして何の権限があって全くの赤の他人である私を試すようなことをするんだ。
「心当たりは本当にない?」
「……」
突然声のトーンを落とし、中須夫人はファンデーションすら塗っていない四十代の肌を隠そうともせずに、真面目な顔で私に問うた。
「――香奈。あんたはわかってるでしょ?」
「……まぁ、見当はついてるよ」
「ごめん、説明してもらえるかな。俺がこの殺人ショーに招かれた理由を」
「えと……」
なぜか顔を赤らめる香奈を、ニヤニヤ笑みを浮かべながら横目で見ている母親と、何やら複雑そうな顔をしながら落ちている文庫本を拾い、パンパンと大きな音を立てて叩いている父親。
「あんたが言えないなら私が言ったげようか。この子ね、松岡くんが好きなのよ」
「! お母さん!」
「なによ」
あのボソボソ喋る姿がデフォルトだと思っていた香奈の、まさかの大声を聞き、一瞬意識をそちらへと持っていかれそうになったが、今はそれよりも知るべきことがあると、母親に向き直り、説明を求める。
「あの、それはつまり、香奈さんの彼氏として相応しいほどの推理力を僕が持っているかどうかを試すために、こんな演出をされたんですか?」
「んー。松岡くんってさ、頭悪くないんだろうけど、結構天然でしょ?」
「いや、天然ではないですけど……」
「天然の人って天然って言われるのを嫌がるのよ。肯定する人は紛れもなく狙ってやってる人で、否定する人は本物だと覚えておくといいわ」
「はあ……。いえ、そんなことはどうでもいいんです。何故こんなに手の込んだことをしたんですか?」
天然だろうがなんだろうが関係ない。今私が知りたいのは中須家総出で私を騙した理由であり、それ以外の話題など全く興味がない。
「――松岡さん。あの、せめて経緯は私から説明します。もしも私の考えが間違っていたら母達が訂正してくれると思うので、とりあえずお話させてください」
そう言って、仁王立ちしていた私に椅子を進めてくれた香奈は、自身も対面に座り、コホンと軽く咳払いをした。
「まずですね、さっき母が不躾にも、不作法にも、そして無神経にも言ってしまいましたが、私は、その…………ま、松岡さんが、えと、す、好きでして…………その…………なんと言いますか……」
「ぷぷ、『母』だって。お父さん、聞いた?」
「……母さんはちょっと黙ってなさい」
正直、中須父のフォローに救われた。そろそろ本当に嫌いになりそうなので、私としても母親には是非とも黙っていて欲しいと思っていたところだ。
「そ、それでですね。先程お話した通り、昨日の夜に、そのことで両親とちょっと揉めてしまいましてですね……」
「ああ、聞いたよ。反対されたんでしょ?」
「はい。で、睡眠薬をですね、飲ませてですね」
この
と、腕時計を見ると、今は夕方三時を過ぎていた。既に香奈と同行し始めてから凡そ八時間が経過している。……八時間も中須家の催しに付き合わされていると換言することもできるが。
「――で、恐らくですね、両親は大して睡眠薬が効かずに、普通に目を覚ましたんだと思います。――私よりも早い時間に。それできっと示し合わせたんでしょうね。『凄く効いてしまって、目が覚めないように装ってみてはどうだろう』と。そして案の定、私は驚き、家を飛び出します」
「息止めてるの大変だったんだからねーもう。こっちの身にもなって欲しいわ」
知るか、としか思えない愚痴を漏らされたが、そちらは一切無視することに決めていたので、香奈に続きを促す。
「で、私が出て行ったあと、調子に乗った二人は『殺されたことにしてみようか』と画策します。普通に考えれば、二人共寝室に並んで寝ているところを刺されて殺されたというストーリーでいいと思いますが、結局刺された設定は母だけに使用されました。これは恐らく血液量の問題だと考えられます」
「血液量? あぁ、そうだ、確かに血が付いていた。包丁にも、地面にも。少し変な匂いもしたけどあれは確かに本物の血液だったはずだよ。……まさか」
「いいえ、流石に本当に刺して血を流すようなことはしません。母は狡猾な割に自分が傷付くことを嫌いますので、文字通り身は切りません」
それじゃああの血は誰の血だと言うんだ……。まさかそのために誰かを殺傷してきたとは言わないだろうな。
「あれは紛れもなく母の血です。あの、これは――ちょっと男性の前では言い難いのですが……その……」
もじもじと、キャラクターに似合わないアクションをしながら言い淀む彼女を見れば、それが女性特有の出血だと容易く推測できる。
同時に、香奈の隣で嬉しそうに血に染まったナプキンを広げ、満面の笑みで赤い部分を指差している母親は頭がおかしいのではないだという推測も容易だった。
「だから、量がそれ程取れなかったんです。貧血になるくらい多い人もいますが、母はそれほど多くなかったのでしょう」
「若い頃は血の気が多かったからねー。私も――」
「なるほど。血の問題は分かった。それでお父さんは絞殺されたことにしたんだね」
「はい。間違いないと思います。家に入った時に暑く感じなかったですか?」
「……そういえば」
確かに蒸し暑さはあった気がする。部屋の位置的に風が入り難いためかと思ったけれど、そういうことでもなかったのか?
「あれは、エアコンのせいです。暖房が入っていました」
「だ、暖房? ……ああ、そういえば指紋を消しに来た時にもそう言ってたね。でも、何のために?」
相手にされなかったから拗ねたのか、いじけたようにナプキンを弄り、折り紙のようにして何かを折ろうとしている中須母。多分既に娘の話に飽きているんだろう。この人の脳内は幼児レベルなのかもしれない。
「これは完全に推測ですが――かなり信憑性は高いと考えてもらっていいです。……恐らく母は、ベッドでセッティングを終えた後、ベッドに入って死んだふりをして横になりながら、いつ私が頼れる誰かを連れて戻ってくるかワクワクしていたはずです」
どんな親だ。
「そして、あることに気付きます。――暑い、と。夏日とまではなんとかいかなかったみたいですが、正午付近は結構気温も上昇しましたよね? そう、今日は暑かったのです。そして、元来暑がりの母は、布団をかけられたままでは暑くて耐えきれないと、エアコンに――」
「ちょっと待って。暑いなら布団――というか厚手のタオルケットだったと思うけど、それを取ればいいんじゃない?」
「それはできません。何故ならあれには二つの意味があったからです。一つは呼吸時に胸が上下するのを隠すため。完全には隠せませんが、あるのとないのとでは若干違いはあるでしょう。そして、何よりも重大なのが、怪我の具合を探られないため、です。白地のタオルケットが血染めになって呼吸をしていなさそうな人間に不用意に近づくような頭の悪い人間は少ないでしょう。況して、ここに入っているということは、私が隣にいるはずですし、私を押し退けてまで自ら確認するような不作法な輩はまずいないと踏んだのでしょう。実際松岡さんは紳士でしたし、そのまま気付かずに通り過ぎてくれました」
「……褒められてはいない気もするけど、まんまと嵌まってしまったということだね」
「そうなんです。だからタオルケットは外せなかった。ならばエアコンを入れて、涼しくしようと電源を入れます。しかし、前回使った時は冬。二ヶ月くらい前に使ったまま、暖房に設定されていました。つけてからすぐには気付かなかったのか、それともつけた後すぐに私達が入って来てしまったのかは分かりませんが、とにかく母は冷房に切り替えることができないまま、寝たふりを続けることになってしまったのです」
私の部屋に備え付けられているエアコンは、自動や暖房、冷房などのボタンがあるので、押し間違えなければ期待通りの風が出てくるが、中須家がこの家に住み始めた頃に買ったものだと、多分エアコンも古いタイプだろうから、オン・オフボタンで入れるのかもしれない。
それと――よく見れば、たしかに母親はだいぶ汗ばんでいる。Tシャツの黒い部分に塩の結晶ができているくらいだから、相当の汗を掻いたのだろう。
「母に関しては大体そんなところです。そして、父に関しては特に触れることはありません。というのも、床に転がってロープを首にかけ寝ていただけですから」
「おいおい、俺はお前、そんな怠け者みたいに言われる筋合いはないんだぞ? 父さんだってな、結構頑張ってだな――」
「すみません、香奈さんに話の続きを聞いてもいいですか?」
「……はい」
棘を孕ませたわけではないが、父親はその一言で引いてくれた。しかも返事は敬語だった。
「以上で、ほぼ説明は終わりですが……捕捉するとなると――そうですね、なぜ二人はこんなことをしたのか、という、松岡さんの疑問の答えですけれど」
「うん。それが一番聞きたいよ」
「恐らく、先程も少し触れましたが、私が必ず想い人を連れてくると考えたからでしょうね」
「……なんでそんな風に考えたんだろ」
直接本人に問い
「私の好きな人に関して、昨日の段階で与えた情報としては、近隣住民であることと、年上であること、そして、優しい人であることを告げました。まず、近所で本当に困った時に私が頼れる人間はほぼ皆無です。菱崎さんは良くしてくれますけど、何でもかんでもお願いできる間柄ではありませんし、旦那さんは夜勤の仕事をされていて、帰宅はお昼頃だと以前母から聞いたことがありますし、奥さんはさっき出ていってしまいましたよね。ということは、頼ろうにも頼れません。そしてお隣の女子大生もほとんど面識はありませんし、松岡さん以上に疎遠な関係です。新しく越してきた人に関しては論外です。更に、この辺に住む友人ですが、それほど親しい友人はいませんし、万が一連れて来たとして、両親の死体ごっこを見られたとしても、その時はふざけていただけだよと言えば済みます。警察を連れて来られたら厄介だったでしょうけれど、恐らく私の行動パターンを読めばそれはないと踏んだのでしょう。――故に松岡さんが――もとい、私の想い人なる人間が第一候補であったわけです。もちろん、その時点ではまだ二人は相手が松岡さんだということは知りませんでしたし、誰が来るのかわからなかったでしょうけれど」
「……それじゃあ、もし俺が出勤しちゃってて、留守だった場合は、どうなってたの?」
「それならそれで、友人を呼ぶか警察を呼ぶかでしょうね。ああ、救急車が先だったかもしれません。その方が面倒なことになってそうですけど」
なるほど。認めたくないけど、理屈は通る――気がする。
彼ら夫婦がやっていることは馬鹿馬鹿しいけれど、まぁ、わからなくはない――気はする。
正直、腑に落ちない部分も、そして
「……わかりました。理解できない点は多々ありますが、納得はしました」
「君ならそう言ってくれると信じてたよ」
「流石は香奈が惚れた人ね。娘の目に狂いがなかったということかしら。私も母として鼻が高いわ」
調子の良いおべんちゃらを夫婦揃って並べ、母親はニコニコ顔でこんな提案をする。
「そうだ! みんなでご飯を食べましょう! 食べてないんでしょ? 二人共」
私と香奈を交互に見、私達は曖昧に頷きを返す。
「なら丁度いいわね。松岡くん、何食べたい?」
「や……何でも結構です。お任せします」
「何でも良いって言われるのが一番困るのよねぇ。香奈は?」
「……何でもいい」
「もう……全く二人揃って……」
腕を組んで態とらしく頬を膨らませた香奈の母親は、娘そっくりのふくれっ面をすぐに解き、
「そうだ、それじゃあ手料理を御馳走しましょう。お母さんの手料理、もうずいぶん食べてないでしょ?」
「……そうですね」
「ふふ、松岡くんここに来てから一回も帰省してないって言ってたし、お母さんにちゃんと親孝行してあげてないでしょ~。ダメよ、ちゃんとしてあげなきゃ」
「……」
私は苦笑いを作り、何となく上手い受け答えができずにいたが、香奈が母親を睨みつけたことによって、能天気な母親も何かしらを察したようだった。
「……さて。それじゃあ若い二人は買い物に行ってきてちょうだい。私とお父さんで準備をしておくから」
そう言って、財布から一万円を取り出し、「これでおつかいに行ってきてくれる? 何かお菓子買って良いから」と、小学生に頼むような文言を口にし、引っ手繰る《ひったくる》ように奪い取った香奈に、「ちょっと待って、メモ渡すわ」と言いペンを探す。
「後でメールで送ってよ。そっちの方が効率いいでしょ」と、不機嫌そうに言い放ち、「行きましょう、松岡さん」と、訴えかけるような目で私を見た。
「……うん。それじゃあ、ちょっと行ってきます」
そうして私と香奈は、近所のスーパーへと連れ立った。
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