第22話

 重苦しい雰囲気は、最早最悪レベルにまで進化していた。


 あろうことか、死人に罪を着せる推理を披露するなど、彼女の両親の死を冒涜するような、いっそ暴言ですらあったのではないだろうかと、酷い自己嫌悪に苛まれる。


「気にしないでください。松岡さんなりに、一生懸命考えてくれただけですから」


 そう言われてしまうと、情けないやら、悔しいやら……。


 彼女が無実であるというヒントすら提示することができずに、ただただ自慢気に、ありもしない妄想をひけらかして悦に浸っていた数分前までの自分を殴り飛ばしてやりたいとすら思った。


「どちらにせよ、私は全くの無実というわけでもないですからね」

「いや、しかし――」


「肉親に薬を盛ったんです。さっき松岡さんも言われていた、尊属殺人、でしたっけ? 親殺しは罪が重いんですよね。間接的にとは言え、私にも罪はあります」


 そう言って、彼女は立ち上がり、スカートの皺を少し伸ばした後、テーブルの脚に立てかけていた学生鞄を手に取った。


「……どこかに行くの?」

「自首します」

「じ、自首?」


 香奈は穏やかな空気を纏い、何の気負いもなければてらう気もなく、清々しささえ感じさせた。


「そうです。駅前の交番に行って、この事件のことを話してきます。今朝、松岡さんに言った台詞をそのまま使うつもりです」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 自首するって――」


「事件が発覚してなければ、確か自首になるんですよね? 露見してからではただの出頭になっちゃうんでしょう? だったら、今のうちに自分から伝えたほうが、刑期も短くて済みそうですし」

「いや、そういう問題じゃなくて!」


 声を荒げた私を、香奈は不思議そうに見詰めている。

 不思議に感じているのはこちらのほうだ。


「なんで君が自首する必要があるんだ。君が殺したわけでもないのに」

「松岡さん。確かに私は殺人犯ではないかもしれません。でも、殺人犯の手助けをしたのも事実でしょう? だって、二人共深い眠りについていなければ、侵入してきた犯人にみすみす殺されることはなかったんですから」


「……それにしたっておかしいよ。警察に通報するだけならいい。警察を呼んで、捜査してもらって、真犯人を捕まえてもらえるように捜査協力するというのなら大歓迎だよ。君は警察の能力を疑ってるみたいだけど、俺はそうは思わない。必ず犯人を――」


「私なりのけじめのつけ方でもあるんです、これは。もちろん、私は警察の大半が無能だと信じて疑っていませんから、冤罪を申しつけられて、暴力団顔負けの横暴な取り調べで権力に屈するのが嫌だという思いもありますけれど」


 彼女は既に、行き着くところまで、諦観し切っている。もう、何を言っても無駄なのだろうか。


「というか、そもそも二人が起きていれば、強盗なのかなんなのかわかりませんが、侵入者を家に入れることすらなかったかもしれません」


「……たらればを言い始めたらキリがないけど、でも、やっぱり君に責任はないよ。両親が亡くなったのは凄く不幸なことだけど、でも」


「松岡さん。松岡さんがどれだけ擁護してくれたとしても、薬を飲ませたのは事実です。これだって、立派な罪になるんじゃないですか?」


 ……それは法律の知識がない私にはわからないけれど、たしかに量を誤った服薬は、命を失ってしまう可能性だってあるのだ。それに、市販薬ならまだしも、病院で処方されるような強い薬を患者以外が口にすることは当然ご法度だし、何らかの法に抵触してしまうことは間違いないだろう。


「そ、それにしたって、そんな、香奈ちゃんが自首する必要なんて……」

「大丈夫ですよ。松岡さんはここにいてください。付いてきて欲しいだなんて言いませんから」


 ――私の脳内に、怒りの感情が湧き起こった。まさか彼女は私が自己保身のために彼女を止めているとでも思っているのか? それこそ、私の展開した推理以上に間の抜けた推測であり、馬鹿馬鹿しいにも程がある。


「身損なわないで欲しいな。俺がそんな奴に見える?」


 語気を強め、攻撃的な口調になってしまったが、香奈は気に留めていない様子で、「そんなつもりはありませんよ」と、軽くいなした。


「さて。あまり長居をしても悪いので、そろそろ行きますね」


 気合を入れ直したのか、頬をパチパチと二度三度叩き、「よし」と、小さく拳を握り締めた。


「本当に……ひとりで大丈夫?」

「大丈夫じゃなくても行かなくては。私はれっきとした犯人のひとりなんですから。もちろん松岡さんのことは警察には話さないので、ご心配なく」


 この期に及んでまだそんなことを――と、またも腹の底が煮えるような思いも湧いたけれど、今は目の前の少女がこれから罪を告白しに行くという、ある意味では――とてもネガティブではあるが――大イベントを遂行するというのだ。


 怒っている場合でも、傷付いている場合でもない。


「それでは松岡さん。短い間でしたが、お世話になりました」


 深々と頭を下げ、そんな風に殊勝に別れを告げる。

 彼女は音もなく玄関へと歩いて行き、靴を履くために座り込んだ。

 しかし数秒後、トタトタと軽い足音を立て、リビングへ戻ってくると、


「色々と、ありがとうございました。松岡さんは長生きしてくださいね」


 彼女は笑顔で――茫然としている私に感謝を告げた。

 初めて見た彼女の心からの笑顔は、屈託がなく、幼気いたいけで、そして、純粋そのものであり、とても綺麗に思えた。


「それではお元気で」


 小さな頭を下げ、慣れないお辞儀をした後、再び靴を履きに玄関へと戻って行く。

 玄関は私の位置からは死角になっている為、彼女の様子を見ることはできなかったが、衣擦れの音、そして鞄を置き、小さなローファーに踵を収める音が聞こえ、私の心臓は高鳴り始る。


 ――このままでいいのか? 彼女をひとりで行かせて、それでいいのだろうか。


 大人として、隣人として、十五歳の少女が足を震わせながら、言われなき罪を償うために、自ら警察に出向こうとしている姿を見て、私は何も感じないのだろうか。


 人が死んでも涙しないような人間だ。それもあり得なくはないだろう。


 ……いや、しかし、これは彼女の選んだ道であり、自首することは彼女自身が決めたことだ。大人であれ子供であれ、自分の人生に責任を持つのは至極当然であり、家族を失ってしまったからといって甘やかしてしまっては、この先、誰かに依存しなければ生きていけないような大人へと成長してしまうかもしれない。それは良くない。


 ――そう、これは彼女の為でもあるんだ。言っていたではないか。自分にも罪があると。結果的に犯人の手助けをしてしまったようなものであると。

 ならば、罪の意識があったということであり、それは普通の感覚なのではないだろうか。


 それに彼女は刑期が短くなると口にしていた。ということは、本人の保身を考えての行動であって、両親の死に申し訳なさを感じていたわけではないのであろう。


「そうだよ。彼女の言う通りだ」


 カチャリとドアノブが回る音が聞こえ、ギィと、築二十五年を過ぎた古いマンション特有の寂れた金属音が鳴り、ドアが開かれた。

 これで、もう二度と会うこともないだろう。


 ……そうだ、私は何を勘違いしていたのだろう。


 私は巻き込まれただけに過ぎない、ただの近所に住む男であって、彼女たち家族に何の所縁しょえんもなければ、ここまで付き合ってきてあげただけでも十分過ぎるくらいじゃないか。


 時計を見遣る。午後二時十分。今から仕事に行っても碌に何もできないまま定時を迎えてしまうだろう。最近は特に残業に煩くなったので、三十分の残業でも法人の本部へと報告書を出さなければならないし、何度か重なると業務指導という名の厳罰注意を受けなければならない。


「……仕事、行かなきゃな」


 パタン。

 静かにドアが閉められた。

 世界が閉じた――そんなイメージが頭を過ぎる。


 私が閉じ込められたのではなく、外へ出て行った彼女が閉じ込められてしまったような、そんな思いに駆られた。


 途端に、仕事のことは頭から消え去り、香奈の寂しそうな横顔が思い出された。


 そして、最後に見せたあの笑顔。

 哀しげな顔で別れを告げられるよりも、満面の笑みは私の胸に鋭い痛みを与えていた。


「……これで、本当に終わりか」


 ――いや。


 ここでひとつ、疑念が湧く。先程事件の真相をと、見当外れの見解を自信満々で披露した赤っ恥を忘れたわけではないが、何か、引っかかる気がした。――閃いた気がした。


 ……彼女が自首する理由。それは、私に掛けられるであろう嫌疑を一身に受ける為なのではないだろうか?


 指紋の件といい、彼女と長時間一緒にいたことといい、死体を発見しておきながら今の今まで放置していたことを考えると、殺人の冤罪をかけられることはないにしても、何らかの罪に問われることになりかねない。


 それに、香奈と私が一緒にいるところを見られている時点で、言い訳はできないし、警察が私の説明を言葉通りに受け取ってくれるかどうかも怪しい。

 ならば、私はどうなってしまうのか。


 きっと暫くの間拘留され、散々詰問を受けた結果、なんらかの法律に抵触していることが発覚し、裁判が開かれ、罪を負わされ、罰が課される。服役しないまでも、執行猶予がついた時点で当然仕事はクビになり、再就職も難しくなってしまうかもしれない。なにせ人の命が関わっている事件なのだ。インターネットが普及した現代に於いて、事件の当事者になることは、イコール世界中の人間がその人物の罪を知ることになり、非難もされれば罵倒もされ、物理的精神的問わず、攻撃の対象になってしまうことだって充分に考えられる。


「香奈は……それをわかって……」


 自分が罪を被り、私が無関係であることを主張しようとでもいうのだろうか。


 しかし、そこは腐っても警察。少しの証拠から、私がこの件に全く関与していないとは看做さないだろう。菱崎さんの証言から、事件当日の早朝に、私と香奈が何やら話していたと知り、私と香奈がそれを事件には関係ないことだと主張しても、聞き入れてはもらえないだろう。


 香奈は言っていた。警察は自分達に都合の良い情報だけを信用し、都合が悪ければ隠蔽、黙殺すると。

 そう考えると、誰よりも警察を疑っていた香奈だからこそ、私を守る為に、自らを犠牲に――


「……」


 ほとんど無意識に立ち上がり、フローリングの床板を踏み抜くほどの凄まじい勢いで、一歩を踏み出していた。

 貧弱な身体の限界を超えるスピードで玄関まで走り、靴を履かずに扉を開け放つ。


 そして、階段手前を歩く彼女に――香奈に追いつき、後ろから抱きしめ、絞り出すように思いを伝える。


「俺も一緒に行くよ」

「!」


 グッと身体を硬直させる香奈。目を見開いて驚いているさまが、後ろからでも手に取るようにわかる。


「――ひとりにはさせないよ。だって俺達は――共犯だろう? なら、運命共同体だよ」

「ま、松岡、さん」


 途切れ途切れに私の名を呼んだ香奈は、勢いよく振り向きかけたけれど、私によって強く抱きしめられていたため、身体を動かすことはできなかった。

 彼女は諦めたように身体の力を抜き、首元に回された私の腕に触れ、


「……いいんですか? 後戻りはできませんよ?」と念を押す。


 ――承知の上だ。


「俺にはもう失うものがないからね。父親も兄貴に任せておけば大丈夫だし、生憎彼女とも別れたばかりだ。君が心配してくれたであろう仕事だって別に、俺がいなくても誰かがやってくれる。俺の代わりなんていくらでもいるんだから」


 ――だから、君を守るためなら、この先の俺の人生を全て使ってもいい。後悔はしない。


「松岡さん……」


「君は肉親を失い、この世で独りきりになってしまった。――親戚はいるのかもしれないけど、親兄弟がいないのはやっぱり寂しいものだと思うよ。だから、ご両親の代わりにはなれないけれど、せめて亡くなってしまった二人に代わって、今だけは、君のことを守りたいんだ」


 キュッと、私の腕を握る手に力が入る。泣いているわけではないようだけれど、私の愛の告白染みた台詞に何かしら沁み入るものがあったのかもしれない。


「……」


 僅かに震える彼女は、存在自体がとても小さく感じた。……当然だ。心細いに決まっている。まだ十五歳だぞ。間接的に関与しているとも言えなくはないが、それでも犯していない殺人の罪を自ら被りに行くなんて、大人であっても足が震えるというのに、ひとり孤独なまま向かうのは、どれだけの勇気が必要なのだろうか。


「……わかりました。松岡さんの気持ち、喜んで頂戴します」

「うん。そうしてもらえると俺も嬉しいよ」


 なるべく暗くならないように、努めて朗らかに返す。


「松岡さんは、やっぱり思った通りの人でした」


 そして彼女はふふっと笑い、こう言った。


「はぁ……よかった。安心しました」


 ……安心?


 そして、スルリと私の腕から抜け、クルリと身体をひるがえし、酸いも甘いも知らないであろう純真無垢な笑みで、どこぞの探偵が好みそうな決め台詞を口にする。


「――それでは、解決編を始めますか」

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