第16話

 結論から言うと、証拠と言えそうなものは見つからなかった。

 もちろん私も香奈も、最初から大きな期待を持ってこの捜査に臨んだわけではなかったのだけれど、私よりも香奈は特に、この結果に落ち込んだように思えた。


「まぁ、仕方ないですね。ないものはないですから」


 淡泊な物言いとは裏腹に、ショックが見え隠れする。私の考え過ぎなのだろうか。


「これ以上証拠探ししてても仕方ないですね。戻りましょうか」

「そうだね」


 自然と二人、並んで私の家へと引き上げる。

 『共犯』であるという認識から、互いに相手に対する見方に変化が訪れたのだろうか。


 私は正直、もう嫌悪感もなければ彼女を突き放そうという気など更々なく、警察に連絡するという義務感すら消えかけていた。


 それは彼女の警察に対する怨嗟えんさを鵜呑みにして、私まで警察嫌いになってしまったとかではなく、私と彼女の未来を検討する時間が必要だったからである。


 室内に入るなり座椅子に腰を下ろした香奈を少し離れたところから見ていると、すっかり風景に溶け込んでいて、そこにいることが当たり前のような錯覚さえ湧き起こった。


「ふぅ……」


 テーブルの縁に手を置き、壁に掛けられたカレンダーに目を馳せる香奈。

 私は壁の時計を見る。いつのまにか正午を回っていた。中須家で一時間以上も捜索していたのか。


 自分の人生が懸かっていると思うと、やはり人は必死になるのだなと改めて認識させられた。

 これが仕事だったら、どこかで妥協してしまいそうだ。でもまあ実際、今も妥協してしまった結果、こうしてここに引き上げてきたのだけれど。


「どうしたものだろうね」


 電気ポットで湯を沸かし、ミルクティーを入れ香奈の前に置く。猫舌の私は彼女の対面に座り、牛乳をたっぷり入れた珈琲をチビチビと啜りながら、香奈の表情を窺う。


「……正直、分かりません」


 彼女は項垂れながら紅茶に鼻を近づけ、ヒクヒクと香りを嗅ぐ。


「これ、アールグレイですか?」

「そうだよ」


 紅茶の種類には疎い私だけれど、唯一アールグレイだけは知っている。

 以前同居していた彼女が好きだったので、いつもストックしていたのだ。


 私自身は取り分けアールグレイが好きというわけでもないし、そもそも紅茶自体をあまり飲まないのだけれど、女性はアールグレイが好きだと彼女が言っていたので、来客した女性にはこうして出すことにしている。


 ミルクは合うという人と合わないという人それぞれいるけれど、香奈は未だ子供なので、私の偏見でミルクを好むだろうと思い、勝手にミルクティを作った。


「……私、アールグレイ嫌いです」

「え! そうなの!?」

「なんでそんな驚いてるんですか……」

「あ、いや、前に彼女が女性はアールグレイが好きだって」


「……その人が好きだっただけじゃないですか、たまたま。統計を取ったわけでもあるまいし、ずいぶん適当な人だったんですね、その人」

「……あー、まぁ適当なところはあった、かな」


 元彼女が悪く言われているのはいい気分ではなかったけれど、適当という部分は否定できなかった。


 良くも悪くも大雑把で、大きなミスでもあっけらかんとして怒るに怒れない雰囲気を作るのも彼女は上手かった。


「でも、悪いことばかりじゃなかったけどね。俺がどちらかと言えば神経質な方だから、バランスが良かったのかも」


 今香奈が座っている場所に、元彼女もよく座っていた。

 私は香奈に彼女を重ね、追憶を辿る。


「……よくそう言いますよね。真逆の人との方が上手くいくみたいな」

「うん。実際上手くいってたと思う。喧嘩もほとんどしたことなかったし、互いに性格を尊重し合えてたとも思うし」


 彼女は私に細かい指摘をされても文句を返すことはなかったし、私も彼女のガサツさに辟易とすることもなかった。


「……それじゃあなんで別れたんですか?」

「さぁ」

「さぁって」

「彼女から切り出された。別れようって。で、俺もうんって」

「普通引き止めません?」

「あぁ、うん。でもなんか、そうかーって」

「――心当たりがあったということですか? 別れ話を切り出されるような」


「うーん、どうだろう。でもあるにせよないにせよ、相手に嫌われたんだったらしょうがないかなって。別れたいって言われてるのに『嫌だ、俺は別れる気はない』って言って、仮に関係が続いたところで、楽しく過ごせるとは決して思えなかったから」


「――ドライですね、意外と」


 ドライ、なのか。その彼女と付き合う以前に、二人ほど彼女がいたことがあったけれど、二人共長続きしなかった。

 ひとりは二ヶ月程で別れ、もうひとりは一年弱で別れを告げられた。


「別に、冷めてるつもりはないんだけどね。ただ、相手がそう言うなら、しょうがないかなって」

「……それって、松岡さんがその人のことあんまり好きじゃなかったんじゃないですか?」


「好きだったよ。凄く。……多分」

「言いながら自信なくなっちゃってる時点でそれほどでもなかったってことですよ。――その元彼女に同情してしまいますね」


 憐れみをもって香奈は私を一瞥し、座椅子に凭れかかる。


「松岡さんはあれですね、『本当に人を好きになったことがない』ってやつですね」

「一度は耳にするフレーズだね、それ。直接言われたのは初めてだけど」

「私も直接伝えたのは初めてです。というか、私自身が恋愛経験なんてないので、人の恋愛に関してとやかく言えるような立場じゃないですけど」


「いやまぁ、でも、言われてみるとそうなのかなとも思えるけれど、彼女のことはやっぱり好きだったからなぁ」

「――元、ですよね。まさか引き摺っているわけじゃないですよね? 追いかけなかった癖に」


「引き摺ってるわけじゃ――いや、引き摺ってるかな。っていうか、追いかけなかったってどういうこと?」


「彼女をですよ。心当たりがないのに別れ話を切り出すなんて、引き止めてほしかったに決まってるじゃないですか。じゃあねって言っておきながら、後ろから抱きしめられたいみたいな恋愛脳をしているのは子供ばかりじゃないらしいですよ。恋に恋している二十代三十代女性はことほか多いとか」


「なんか、女性に言われると説得力あるな……」


 女性と言われる年齢ではないことは本人も重々承知しているだろうけれど、やはり男よりも女のほうが女を理解しているわけで、彼女の推測は当たらずとも遠からずといったところなのだろう。


「それじゃあ俺は、彼女が去るのを止めるべきだったってこと?」


 香奈は頷き、「――今更ですけどね」と肩を竦めた。


「というかですね、さっきからずっと気になっていたんですけど。――流され易過ぎるんじゃないですか? 松岡さん」

「? 流され易い?」


 どういうことだろう。私が元彼女と別れたのは流されたせいだからということなのだろうか。それとも何か別の示唆が含まれているのだろうか。

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