第11話

「ごめん、ちょっと待ってて」


 立ち上がり、キッチンへと移動し、通話に応じる。


「もしもし。……あぁ、うん。大丈夫。……うん。あぁ、匂坂さんね。あれは確か――」


 仕事の引き継ぎをしていなかったなと反省しつつ、本日来客予定である匂坂夫妻の資料のファイルがどこにあるかを伝え、簡単に補足を加える。


「そう。多分問題ないと思うけど。また何かあったら連絡して。うん、なるべく早く行くから」


 簡潔に業務連絡だけを話し、すぐに通話を終わらせる。今は保護すべき少女が近くにいるのだ、仕事のことは後回しでいい。


「……なんのお仕事してるんですか?」


 声音は弱々しいままだが、少しずつ余裕を取り戻してきたのか、それとも無関係な話題に触れることによって、陰鬱とした気を晴らそうと努力しているのか、彼女は私の仕事について興味を示したようだ。


「あぁ、介護の仕事だよ。事務だけどね」

「介護の、事務?」


 高校生には、介護事務という仕事はあまりイメージし易いものではないのだろう、頭にクエスチョンマークを浮かべ、小首を捻る。


「うん。介護っていうと、大抵の人は老人に対してあれこれお世話をしているイメージだと思うけど、当然事務作業をする人がいて、そういう人達が、老人ホームのあれやこれやを取り仕切ったり、快適に過ごしてもらえるように色々便宜を図ったりするんだよ。まあその辺は主にケアマネとか相談員の仕事だったりもするけど。その他にも入退去の際なんかに、たくさんやることがあるからね」


 簡単に言えば、入居する老人とその家族に対する説明、そして問題が起きた時の対処や、国に対して作成した請求書などを提出し、補助金をもらうこと、他にも医療関係者と連絡を取り合ったり、介護職員の勤怠管理であったりと、その仕事内容は実に多岐に渡る。更に、うちの施設は包括支援センターも兼ねているから、施設関連の業務に加えて外部とのやり取りも頻繁に行われる。


「なかなか大変な仕事だよ。専門知識も必要だしね」


 正直、仕事を始めた当初は何度も辞めようと考えていた。職員は善い人ばかりだったが、入居者とその身内による暴言、そしてクレーマーとしか思えないような無理難題を吹っ掛け、何かに付け「訴える」と口にする強迫者達の相手をするのに、ほとほと嫌気がさしていたのだ。


 私が入社して三ヶ月が経ったある日、ひとりの老人が他界した。死因はいわゆる老衰――心不全だったが、遺族は施設を訴えると言って聞かなかった。


 その際、遺族はヘルパーのひとりに掴みかかり、乱暴を働きそうになった為、慌てて止めに入ると同時に、私の上唇に鋭い拳が叩き込まれた。

 肉体労働で育まれた屈強な筋肉により生み出された力は、私の貧弱な身体には強過ぎるもので、前歯が折れなかったことだけが救いだった。


 その後、警察が介入し、大事おおごとにすることはなく幕を引いたのだが、正直あの時は別の意味でホッとしていた。

 あぁ、これで辞める理由ができた、と。


 実際辞表を書きしたため、あとは提出するだけの段階までいったのだが、あえなくその辞表は塵と化してしまうことになってしまった。

 今朝、遅刻する旨を伝えた同僚のお節介により、私は退職の好機を逃したからだ。

 別段、恨んでいることもなければ、見返りを求める気も更々ない。


 勤務を始めて数年が経った今も、本当にこの仕事が向いているのかわからない。だが、それでも何とか続けていられることを考えると、そう不向きでもないのではと思えるようにもなってきた。


「楽しいことの方が圧倒的に少ないけどね。でも、なんだかんだと充実してる、かな」

「……」


 私の知る限りでは恐らくアルバイト経験もないであろう彼女に、仕事の話を理解してもらうのは難しいかなとも思ったが、殊の外、興味深そうに頷きを返してくれていた。


「大人って、大変ですね」


 愚痴とも取れる私の仕事話の感想がそれなのだとしたら、私としても少しでも親の苦労が分かってもらえたのだろうという解釈をして、話した甲斐があったというものなのだけれど、本心はわからないのでなんとも言えないところである。


「うん。――家族で仕事の話とかしたことある?」


 ここで両親を思い浮かべるようなことを口にするのははばかられたが、なんにせよ、すぐに警察を呼ぶことになり、そうなれば嫌でも両親の話をしなければならなくなるのだ。たわいない話題で、両親の死を少しでも紛らわすことができるのであれば、それに越したことはないと、敢えて振ってみる。


「いえ、特には。一度か二度くらいです」


 予想に反し、冷静にそう答えた彼女の表情には、幾らか落ち着きが取り戻されていた。


「そうなんだ。何の仕事をしてるの?」


 してたの? と過去形で訊かなかったのは、最低限の配慮のつもりだったけれど、こんな些細な気遣いなど無用だったのかもしれないと思わされる位に、彼女は淡々と『過去形』で答えていった。


「父は放送作家をしていました。ラジオからテレビまで。映画にも少しだけ関わったことがあるみたいです。母は以前ナースをしていたそうです。数年で結婚して、私が生まれると同時に退職したそうなので、十五年間専業主婦をしていました」


 私が一番興味を引かれたのは、彼女が現在十五歳、高校一年生であるという事実だ。


 顔には幼さがあるけれど、口調や振る舞いのせいか、高校三年生くらいだと認識していた。

 これだけ整然とした話し方ができるのに、つい二ヶ月前までは中学生だったのか。


「お父さん、作家さんだったんだ。放送作家ってたまにテレビとかでも耳にするけど、実際どんなことするの?」


「さぁ……詳しいことはわかりません。私は興味ありませんでしたし、父も仕事のことはあまり話したがりませんでしたし。恐らく番組のキャスティングとか、台本を作成したりとかじゃないですかね」


「はー、なるほど。それじゃあ芸能人とかにもたくさん会ってたんだろうね」

「多分。よくわかりませんけど」


 彼女は流行りごとなどに本当に興味がないのだろう。こう言っては悪いけれど、彼女からは垢抜けたお洒落っぽさも流行を取り入れたファッション性も感じさせない。まぁ制服姿なので、私服に着替えればまた違うのだろうけれど。


「君は芸能人になりたいとか思わないの? ほら、お父さんが芸能関係者だと、自然とそういう方へと目標が向いたりするとか聞くし」

「いえ特に。……それと、さっきからずっと気になっていたんですけど、君って呼ぶの止めてもらっていいですか。私は香奈です、香るに奈良の奈で香奈です」

「あ、ごめん」


 馴れ馴れしくあっては悪いからと、意識的に名前を呼ぶのを避けていたのだけれど、それはどうやら逆効果だったらしい。


「それじゃあ、えっと、香奈ちゃんは将来何になりたいの?」

「特にありません。……それどころじゃないし」


 目を逸らした彼女の脳裏に、両親の遺体が浮かんだことは誰にでも予測がつくだろう。


 これまで彼女と話してきて感じたことは、彼女は自分を律することを必要以上に自分に強いているようで、強がりというか、負けず嫌いというか、精神的に成熟はしていないまでも、自制心は相当に強いと思われる。言葉の端々にある毒気も、相手を攻撃することによって攻撃されないようにと、自らの身を守っているかのようにも思え、もしかするとひとり娘である彼女は、両親から過剰に期待を寄せられ、強くあることを自らにも課すことを自然と行うようになってしまったのかもしれない。


 そう考えると、一語一語の受け取り方の意味合いも変わってくる。

 食事中に「虐待はされていない」と言っていたが、あれをそのまま真実として受け止めることは、果たして正解なのだろうか。


 子供が発するSOSは、なにもストレートに口からのみ発せられるものではない。傷が深ければ深いほど、闇が深ければ深いほど、それは見えない部分にこそひっそりと、こっそりと隠されているものであり、彼ら被害者達はそれを安易に見せようとはしない。


 そう、時には多少強引であったとしても、我々大人が彼らの傷に気付いてやらなければならないのだ。

 私は立ち上がり、嘆息をひとつ吐き出し、中須香奈に向かい、彼女の抱える傷を見せてもらえないかと懇請こんせいする。


「香奈ちゃん。すまないけど、裸になってもらってもいいかな?」

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