第10話
人は、生涯でいくつの死体を目にするのだろう。
それは従事する職業によって、全く異なる数字になるのだろうけれど、大抵の人間は、身内の遺体をまず初めに目にするはずだ。
高齢な祖父母は順番からしても当然先に逝ってしまう。そして次に両親が逝く。若い頃に親を亡くす人もたくさんいて、特に戦時中や医療が発達していない時代では現代より死が身近にあったはずだ。
だが、人の死とは、人々にどういった感想を抱かせるのであろう。
『死』というワード自体に、どうしても哀しいイメージが付き纏う為、一度も面識のない人物の逝去話を聞いて心を痛めてしまうこともあるのだけれど、実際、それは本当に相手の死を悼み、哀しんでいるのかといえばそうでもないのではというのが私の考えだ。
『他人の死に無関心でいる人間は悪だ』と、そんな世間の声を自分の中で作り上げてしまっている人こそ、『死』が絡んだ物語りにも涙を流し易いのではないだろうか。
死とはそもそも普遍的なものであり、誰にでも平等とは言えないまでも、確実に訪れるものであり、故人とは二度と話すことは叶わない。
それはとても哀しいことである。
――哀しいことであるのだが。
私は、人の死が哀しめないのだ。
哀しまないようにしているのかもしれない。
母親が他界した時に味わった、あの何とも言えない空虚な感情を思い浮かべると、「他人の死など大したことがない」と鼻白んでしまうとまでは言わないまでも、少しだけ冷酷な気分になってしまう。
「あの人は一体、何を哀しんでいるのだろう」と、まるで心理学者でも気取るかのように冷静に観察してしまい、故人を偲び泣いている人に対して「何が哀しいんですか」と問いたくなってしまう。
母親が逝った時、私は泣かなかった。もう二度と言葉を交わすことができないという寂寥感すらあったのか疑わしくて、ただ、空っぽになってしまったんだなと思った。
私という人間を構成する成分の内、確実に大きな割合を占めていた『母親』という成分が、流れ出てしまった気がした。
母が担っていた場所が空き、そこは空洞になったまま、数年の時が過ぎたけれど、特に問題もなく日常を送れている。ならば、私にとって、母は必要ではなかったということなのだろうか……?
今以って、答えは出ない。
しかし、哀しいとは一度も思ったことがないし、特別寂しさも感じない。
では、人々は何故近しい人、そして、全く言葉を交わしたこともない人間の死に涙し、時に感動するのであろうか……。
「――吐き気は治まった?」
私の部屋に戻って来て、冷たい麦茶を二口ばかり啜ったまま茫然と床に敷かれたカーペットを見詰めている中須香奈は、「はい」と消え入る声で答える。
確かに私は他人の死に疎いところがあるのだけれど、身内が死んで憔悴し混乱している人を見て全く理解できないとまでは思わない。
しかも、あんな死に様を見せられてしまっては……。
「まだ混乱してるだろうから、話せるようになったら警察に連絡しよう。――大丈夫、俺も隣で説明してあげるから」
彼女は少し間を置き、小さく頷いた。
説明する――現状を少しも把握できていない私が何を説明するというのだろうか。
捜査を
目の前で
彼女は毒殺したと言った。しかし私の見た限り、母親は刺殺され、父親は絞殺されていた。
彼女の証言と随分食い違う。
彼女が殺していないのだとすれば、では誰があのような犯行に及んだのだろう。
そもそも、彼女が使用した『毒』で、両親は絶命していたのだろうか。
それらは検視の結果を待たないと何とも言えないのだろうけれど、私はそうは思わなかった。
いや、争った形跡はなかったようだ。ということは、ベッドで眠ったままの母親の胸に包丁を突き立て、風呂場付近にいた父親の両手を縛ってから首を絞め、浴槽まで運んで放置したのだろうか。
何故……。分からないことだらけである。
素人探偵でもあるまいし、あれこれ考察したところで答えなど出るわけがないのだが、それでも考えずにはいられない。
「……」
少女は相当にショックだったのか、コップを両手で握り締めたまま、動く気配すらない。
「……大丈夫? もしあれだったら、警察より先に病院に――」
「大丈夫です」
気丈に振舞おうとするも、目が泳いでいる。こうなるとその強がりが見ていて痛々しく感じる。
「そっか……」
「はい」
チラリと時計を見遣ると、時刻は九時半を回っていた。部屋の前で彼女に話しかけられてから既に二時間以上が経過している。少し付き合うだけと、好奇心半ばで話を聞いてみたら、とんでもない事態に発展してしまった。
それは、彼女にとっても同様――いや、それ以上の問題なのだとは思うが。
「――うちの母親はね、四年前に死んだんだ」
「……」
「特別仲が良かったわけでもないし、親孝行だって、今考えるとほとんどできてなかった気がするけど、死んだって聞いた時、なんか、凄く脱力感があった」
「……脱力感?」
「うん。何て言うか、自分の中にいた母親までもが死んじゃった感じなのかな。……上手く言い表せないけど、とにかく、『あぁ、死んじゃったのか』って、寂しいとかではなくて、なんの感慨もなくて、ただただ、心に空間ができたって感じだった」
「……」
一回り以上歳の離れた子供に一体何を言っているんだろうと、頭のどこかで冷静なもうひとりの自分が制止を促すが、私の口は止まらなかった。
「兄はずっと泣いていたし、父親もせっかく断酒していたのに、母の死を期にまた酒を飲み始めた。夫婦仲も良かったし、兄は相当可愛がられていたから、そりゃあ二人のショックも大きいだろうなとか考えながらその様子を傍から見ていて、泣くこともなければ酒に逃げることも、体調を崩すこともない俺はきっと薄情なんだろうなって思ったんだけど、でも、決して故人の死を悼む気持ちがないわけじゃないんだ」
「……」
何のリアクションも返さず、彼女はただ黙って聞いていた。
「――今まで、誰にも話したことがなかったんだけどね。兄にも友人にも、もちろん父親にも。でも、なんか君を見てたら、フッと母親が他界した時のことを思い出して、自分も君みたいにちゃんとショックを受けることができたのかなって」
ちゃんと、などという言い方は失礼なのかも知れないが、それでもやはり、人間としてちゃんと感じることができるのは、素晴らしいというか、ある意味では当然なのではないかという気もする。
「それは……励ましですか?」
……分からない。私は何故、彼女にこんな話を聞かせたのだろうか。
励まし、というよりは懺悔を聞いてもらったようなものなのだろうか。
「ごめん、自分でもよくわからないんだ。ただ、なんか無性に誰かに聞いてほしくなった……んだと思う」
ここ数年、漠然と抱いていた罪悪感めいた気持ちを告解することによって救われたいとでも考えていたのだろうか。だとしたら、彼女はとんだ災難だった。両親を亡くしたショックを受けている最中に、まさか碌に話したこともない男から聞きたくもない懺悔を聞かされてしまうのだから。
「……いえ、別に。嫌だとかは思いませんでした。ただ、何を言ってるんだろうとは思いましたけど」
つけ加えられた余分な言葉を聞くにつけ、多少の攻撃性が戻ってきたのかなと、私は安心した。
「はは、そうだよね。自分でもわからないんだから、他人が理解できるはずがな――」
ブー、ブーと、携帯電話が振動する。画面を見ると、職場からの着信だった。
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