第9話

「驚いて悲鳴とか上げないでくださいね。面倒ですから」


 そう念を押しながら、鍵穴に差し込んだ鍵を九十度倒し、カチャリと音を立て、中須香奈はドアのロックを解除した。


「大丈夫。こう見えても男だからね」

「男の割には頼りないですけどね」


 悪態をつかないと次の展開へと進めない彼女の悪癖を直すことは、果たして親の義務なのか、それとも彼女自身が努力して矯正する必要があるのかは定かではないが、流石にそろそろ慣れ始めていたので、敢えて言葉は返さずに、代わりに小さく頷いた。


「……開けます」


 そっとドアノブを回し、玄関へと一歩足を踏み入れる。


「おじゃまします」


 何故か寝起きドッキリ番組の如く、小声でそんな挨拶をしてしまったが、彼女の言を信じるのならば、今この家にいる生存者は僕と中須香奈の二人のみだ。誰に気を使う必要があるのだろう。


「……耳元で囁かないでください。気持ち悪い」

「ご、ごめん」


 囁いたつもりはないのだけれど、トーンを押さえたことによって彼女の耳に息が噴きかかってしまったようだ。


「それじゃあ、案内してよ」

「分かりました。先ずは、お母さんの死体を」


 段々と、雰囲気が出てきた気がする。平日の昼間、出勤通学時間を過ぎ、もしかすると一日の中で一番静かな時間帯なのではと思わされるくらいに、室内は静まり返っていた。

 僕らだけしか音を発する人間がいないのだから、当然ではあるのだけれど。


「……ここです」


 大凡の部屋の作りは私の部屋と似ているけれど、玄関から伸びる真ん中の通路を挟んで、左手にリビングがあり、右手には六畳間が二つ。三人家族となるとやや手狭感があるというか、部屋割りは夫婦の寝室がひとつと、もうひとつは恐らく娘が一人で独占しているのだろう。


 玄関から見て手前の部屋――どうやらそこが夫婦の寝室であるようだ。

 そして、慎重な手つきと面持ちで扉のノブに手をかけ、彼女は私に振り向き、コクンと小さく頷いた。


 カチャリと小さな音が鳴り、ゆっくりと開かれた扉の中には、ダブルベッドが置かれていた。

 四十を過ぎた夫婦なのにひとつのベッドで寝ているのかと、下世話な想像が頭を過ぎったが、それは瞬時に霧消した。


「ひっ――」


 隣で彼女が息を飲んだのを合図に、僕の背筋に冷たい衝撃が走る。


「なんで……」


 口許に手を当て、反対の手でドアノブを強く握り締めながらガタガタと震える中須香奈。その所作のひとつひとつが、彼女の目の前に広がる光景がそれほどまでに意外であったという証左なのだろうけれど、正直今はそんなことはどうでもよかった。


「これは……どういうことなんだ……」


 フローリングが敷き詰められている室内に足を踏み入れると、ベッド周辺の様子がより良く分かる。


「――君は入っちゃ駄目だ。俺が様子を見る」


 中須香奈を制し、ベッド脇まで辿り着く。


「……嘘だろ」


 ベッドには、ひとりの女性が横たわっていた。

 間違いなく、中須香奈の母親である。


 彼女は胸の辺りまで白い生地のタオルケットを掛けていて、体型に似合うふくよかな胸元は赤く染まっている。

 傍らには血のべっとり付いた包丁が投げ出されていて、床には飛び散った血を擦ったような後が見て取れる。


「……そんな……お母さん……」


 入口付近でガタガタと震えている中須香奈は、既に事切れていると思われる母親を見詰め、なんで、なんでと繰り返した。


「とりあえず、触れないほうがいい。あとで警察が捜査をする時に色々と面倒なことになりかねないし」


 救急車を呼ぼうかとも思ったが、明らかに生命活動を停止しているのは、真っ青な顔色を見れば明らかであった。

 仕事上、遺体を目にする機会は何度かあったけれど、死に顔というのは、大抵似てしまうものである。


「……残念だけど、お母さんは、もう――」


 もう――? あまりの惨状に、つい失念してしまっていたけれど、そもそも彼女が母親を殺したのではないのか? ……いや、彼女は『毒殺した』と言っていた。『目を覚まさない』と。これは明らかに刺殺だ。毒を服用して死に至り、その後に刺したとも考えられなくはないが、態々そんなことをして、リスクを背負う必要などあるのだろうか。それとも、息絶えた人間の身体に傷をつけたくなる程にまで、被害者を憎んでいたとでも言うのであろうか。


「……お父さんは、どこにいた?」

「……え?」


 既に正常な判断能力が欠如している中須香奈に、彼女が殺したと告白したもうひとりの人物、父親はどこにいたのかを問う。


「お、父さん、は――」


 彼女は奥を指差す。そこは、玄関から入ってすぐの場所にあるお風呂場、若しくは脱衣所である。


「そこにお父さんは倒れていたんだね?」

 私は彼女の了解を取らずに、浴室へと向かう。

 脱衣所の扉を開けるのに、少しの覚悟を入れ、ノブを回す。


「っ……」

「お父さん、は……?」

「来ちゃ駄目だ!」


 よろめきながらこちらへ歩み寄る中須香奈を制し、私は唇を噛み締める。


「どういうことだ……なんで……なんでこんなことに……」


 浴槽の中には、無理矢理押し込まれたかのように身体をくの字に曲げ、首元にロープが巻き付いた中須香奈の父親の姿があった。

 両手は後ろで縛られ、片方だけ靴下が脱げかけていた。


「完全に、殺人事件じゃないか、これは」

「お、お父さん、し、死んでるの……?」

「……」


 彼女は身体を引き摺るようにして、脱衣所に辿り着き、父の無残な姿を見るや否や、口に手を当て嘔吐く。


「ぐぅ……おぇ……」

「……出よう」


 彼女の背を摩りながら、とにかくこの凄惨な現場を後にしようと、よろめく彼女の手を引き、リビングへと移動する。


「大丈夫――なわけがないよね。ちょっと待ってて、何か飲み物を――」

「……」


 彼女をソファーに座らせ、立ち上がりかけた私のワイシャツの裾をグッと掴み、「ひとりに……なりたくない……」と、悲壮感に打ちひしがれた少女は泣き言を口にする。


「大丈夫、キッチンへ行くだけだから」

 そう宥めるも、首を左右に振り、掴む手の力を強める。

「……わかった。ここにいるよ」


 精神的・肉体的支柱を失った十代半ばの少女の胸の痛みを、私は容易く代弁できるような大それた経験をしてこなかったため、上手く描写することはできないが、それでも、あれほど冷静に、冷淡に人を虚仮こけにすることを自然と行っていた彼女が、こうまで醜態とも言える様を晒すなど、余程の苦痛を味わっているだろうことは想像に難くない。


「それにしても……暑いね」


 五月の頭。外は晴天で、夏日和になりそうだと天気予報は告げていたけれど、それにしてもこの家の暑さは異常ではないか。


 今朝のテレビで言っていた気温は確か二十二三度だったと記憶しているが、この家は二十七八度はありそうな程に蒸し暑い。私の部屋はそうでもないことを考えると、部屋の位置によって風通しの良し悪しがあるのだろうか。


「……一度、俺の部屋に戻ろうか? ここにいると、多分いつまでも落ち着かないと思うし」

「……」


 彼女は何も言わず、小さく頷いた。

 そこには数分前の気丈なる彼女の姿は微塵もなく、得体の知れない恐怖に怯えたひとりの少女が、ただただ、身を震わせていた。

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