第7話
彼女は同じ階に住む女の子で中須家の一人娘、香奈。
私は彼女と面識こそあったものの、挨拶を交わす程度の仲であり、まともに話した記憶もほぼない。
私は半年前にここに引っ越してきて、先月別れた彼女と同棲していたが、今は一人で住んでいて、近所の人がその辺のことを知っているのかは不明だ。契約上の義務でもあるし大家さんには伝えたが、まさか自ら吹聴するようなことでもないし、もしかしたら最近あの子見ないわねなどと噂にはなっているかもしれないけれど、その辺は定かではない。
そして、中須家の夫婦は、二十年近くここに住んでいる古参の住人であり、人当たりも良く、新参者の私はもちろん、住民が困っていれば世話を焼いてくれて、周囲の評判は
夫婦共に娘を溺愛し、特に母親は過保護な感もある程、娘を大事に思っているようだ。
正確な年齢を聞いたわけではないが、恐らく四十台半ばか後半くらいの年齢であろうことから、三十を過ぎてから生まれた子供だと推測でき、もしかすると欲しくてもなかなかできなかったとか、不妊治療の末、漸く授かった子供であるとか、何かしらの理由があるのかもしれない。
その娘が今朝、我が家の玄関先で仁王立ちをして、私が出てくるのを待ち、「人を殺しました」と自供しだしたというのが事の顛末である。
「なんで俺なんだろ」
――そう、何故私が彼女の『相談相手』に選ばれたのか、皆目見当がつかない。
彼女の部屋は五階の角部屋、501号室なのだけれど、隣の502号室には女子大生が二人で住んでいて、二人共明るく優しい子達なので、相談を持ちかけるならそちらの方が適役なのではないかと思われる。
そして、先程挨拶をされた504号室に住む菱崎さんの奥さんには、大分可愛がられているようで、何度か構われているのを見たことがある。……近しい存在だからこそ言い難いということなのだろうか。
505号室は長く住んでいた人が二ヶ月程前に引っ越してしまった。そこには七十代くらいの仲の良い老夫婦が住んでいて、どうやら奥さんが亡くなってしまったらしく、旦那さんが独りになってしまったので、人生の最後は実家で……と決めていた旦那さんは、故郷の古い家に戻ると言って水羊羹をくれた。思い遣りのある人だっただけに、とても残念である。
二週間程前に越してきた新たな住居人が今は住んでいるが、無愛想な四十絡みの男で、通路ですれ違っても会釈するらしないところを見ると、どうやら他人とのコミュニケーションが得意ではないらしい。
以上がこの階に住む住人達の全てだが、505の男はないとしても、やはり私に白羽の矢を立てたのはおかしいと思わざるを得ない。
キッチンへと視線を向けると、中須香奈は淡々とフライパンを振っている。そして彼女の目はフライパンではなく、右側の、恐らく冷蔵庫へと向けられていた。
何を見ているのだろうかと、冷蔵庫付近に置いてあるものを想像してみたけれど、思い当たるのは冷蔵庫のドアにかけられた小さなホワイトボードくらいのもので、他に注視したくなるものなどはなかったはずだ。
――そのホワイトボードは、我が家にある食材の残数が書き込まれている。痛み易い野菜などが多いため、以前は水気の多いものは特に腐らせてしまうことが
案の定、というか、例に漏れずアニメのキャラクターのデコレーションを施されたし、ピンクの蛍光ペンでハートマークを描き、『これは食べなくてもいいやつ!!』と、子供染みた丸みを帯びている字で自分の嫌いな野菜にチェックを入れるなど、遊び心満載の女性だった。
「……また懐かしんでる。でも、意外と忘れられるものだな」
数日前までは、突然訪れた別れに大分落ち込んでいたのだ。
仕事に身は入らず、小さなミスを繰り返し、普段厳しい上司にも心配されたほど酷く傷心していたのだけれど、慌ただしい日々に、心の中の彼女の存在が忙殺されてしまったのか、今では冷静に思い出すことができる。
――と。
ここで不図、何故中須香奈が私の元へと訪れたのか、とある可能性に思い至った。
前の彼女のことを考えていて、目の前の家出(?)少女の現状に思い至るなんて、もしかしたら記憶の中の彼女が同じ女性として、中須香奈に起こっている事件、直面している問題を解決に導くため、私にヒントを与えてくれたのではと、メルヘン気味な想像もしてしまうが、今はそんなことはどうでもいい。
――彼女は――中須香奈は、虐待を受けているのではないだろうか。
突飛過ぎているようで、実は一番可能性が高いのではないかと思われる。
世間体を気にして外面に気を使い、家では乱暴な振る舞いを行う人間は実は意外と多いらしい。
一般的な感覚からしても、皆少なからず二面性を使い分け、時に激昂し、時に乱暴な言動を行うことはあるのではないだろうか。
そう考えると、彼女が『両親を殺害した』というでっち上げをして、私にSOSを求めにやってきたということは充分に予想できるし、直接「虐待を受けています」と言われても「児童相談所に行こう」で済ませられてしまうのではないかという不安から、遠回しに「助けて欲しい」と、伝えに来たのではないだろうか。
「……まさか」
いや、ないとは言えない。彼女の両親は人が良いと評判だけれど、評価を与えている近隣住民は彼ら夫婦のパーソナリティを本当に理解しているのかといえば、そうは言い切れないだろう。
菱崎夫妻はそこそこ長く住んでいるだろうけれど、逆隣の女子大生も越してきてから一年経っていないと言っていたし、僕を含め新参者だらけなのである。
その人当たりの良さはもしかすると、虐待の事実を隠すカモフラージュのつもりなのかも知れないし、闇が深い人間ほど、妙に面の皮が厚かったりもするだろう。
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