第13話 祝福

 死を覚悟した。

 手に剣はない。身を守るすべは、ない。

 迫る鋭利なそれが、自分の身体を貫く様を想像して、恐怖と絶望に目の前が真っ暗になって。

 ユリア、と呼ぶ声が聞こえた気がした。

 大好きな花の香りに包まれた。

 温かくて、優しくて————最期がこれなら、悪くないなんて、思ってしまった。

 瞬間。

 響き渡る雷鳴に、現実へ引き戻された。

 大地が、空気が、激しく揺れた。まるで天罰のような雷が、樹を根元まで真っ二つに切り裂く。

 全てが一瞬の出来事だった。

 飛ばされた剣を拾って、地面に倒れているその姿を見つけて、手を伸ばして————。



 景色が、変わった。

「っ!?」

「ユリア!」

 フレジア先輩が、駆け寄ってくる。

「大丈夫? 怪我はない?」

 皆が、集まっていた。

 転移魔法が使われたのだと理解する。ここは戦場から数百メートル以上離れた安全地帯だ。

「僕は…でも、ランゼルが」

 言いかけて、息を呑む。

 フレジア先輩。ネモ。ガーバラ先輩。

 カゼル様、ロゼヴィア殿下、リーフィラ殿下。

「ランゼルは…?」

 その姿だけが、なかった。

「…ランゼルの転移魔法は、作動しなかった」

 問いに答えてくれたのは、ロゼヴィア殿下だった。

 おそらく魔力の圧に耐えきれず、魔鉱石が壊れてしまったのだろう、と。

 つまり、ランゼルはまだあの場所に居る。この濁った視界の先に。

「これ、って…今、どういう状況なんですか」

 どくどくと、心臓が嫌な音を立てる。

「悪魔は消滅した。————ランゼルの魔法で」

 カゼル様の声は妙に落ち着いていて、それが不安を掻き立てた。

「ここに充満しているのはランゼルの魔力だ。おそらく、魔力を制限していたリミッターが外れて、制御出来ない状態になってしまっているのだと思う」

「制御出来ないって…」

 不穏な言い回しに、背筋が冷たくなる。

 カゼル様の様子は変わらない。凪いだ瞳で、僕をじっと見つめながら言葉を紡いだ。

「今も、魔力が流れ出続けている。ランゼルの魔力量は相当なものだから、まだしばらくこの状態が続くだろうけれど————でも、生命活動に支障が出るところまで減ったら、放出も止まるはずだ」

「…っ」

 どうして、そんな冷静で居られるんだ。

 もし、止まらなかったら?

 そのまま全部流れ出して、しまったら、ランゼルは。

「…ランゼルのところへ行きます」

 その時をただ待つことなんて出来ない。

 ランゼルの命が、こうしている間にもどんどん流れ出ているのだと思うと、生きた心地がしなかった。

「駄目だよ、ユリア」

 言葉は柔らかいのに、その声は鋭く、厳しい。

「これだけの濃度の魔力を浴びたら、間違いなく中毒症状が出る。身体がもたない」

「こんな状態のランゼルを、放っておけと言うのですか…?」

 あなたの、弟なのに。

 カゼル様の表情が、初めて揺らぐ。その手が拳を握るのを見た。

「…ランゼルは、きっと大丈夫だ。でもユリアは、確実に無事では済まない」

 そんな言葉で、納得出来るはずがない。

 僕は、僕の思いに従って行動する。

「あなたの指示には、従えません」

 制止の声を振り切って、走り出そうとした時だった。

「っ!」

 魔法陣に捉われる。

 身体が、動かない。

「っ、カゼル様…!!」

 必死の思いで呼びかけても、カゼル様は顔を歪めただけで魔法は消さなかった。

 唇を噛む。

 手を、離したくないのに。

 頼れる存在だったはずのカゼル様に止められている。カゼル様のご意思だから、フレジア先輩も助けてはくれない。

 どうすればいい。どうしたら、この足を、前に————。

「!」

 光が、足元に広がった。

 魔法陣が上書かれる。

「あ…っ!」

 急に身体が動くようになり、たたらを踏んだ。

「ユリア!!」

 ネモの声だった。

「行け!!」

「っ…」

 その声に背中を押され、走り出す。

 フレジア、と鋭く名前を呼ぶカゼル様の声がしたけれど、構わずそのまま走った。

 ネモが、助けてくれた。ありがとう、と心の中で唱え、足を前に動かす。

 走っているつもりだけれど、そのスピードはおそろしく遅かった。重しのような疲労感が、全身にまとわりついて動きを鈍らせる。腹の傷も痛み始めて、歯を食い縛りながら何とか足を運んで————。

「…ユリア!」

 手を、掴まれた。

「っ!」

 その手を、迷わず振り払う。

 振り返ると、そこにはショックを受けたような顔をしたフレジア先輩が居た。

「っ…ユリア、落ち着いて。一度戻って話をしよう」

 話したって僕の意思は変わらない。

「すみません。でも、僕は行かなければ」

 足を踏み出そうとすると、フレジア先輩は僕の前に立ち塞がった。

「ユリア、お願い…一緒に戻ろう」

「…」

 フレジア先輩にも、守らねばならないものがある。

 でも、その忠誠のために、僕が僕の忠誠を捨てることは出来ない。

 剣のグリップを、掴む。鞘から刀身を抜いて、剣先を向けた。

「邪魔をするなら、あなたが相手でも、剣を抜きます」

「っ…」

 フレジア先輩は、目を見開いて凍りついた。

「道を、開けてください」

 数秒の沈黙。でも、どうするかなんて、決まっていたようなものだ。

 フレジア先輩も、剣を抜いた。その表情にはまだ迷いがあるけれど、こちらに向けられた剣先に揺らぎはなかった。

 すでにかなり体力を消費し、深手を負っている僕と、前回の傷は完治していないもののこの戦いでは大きな傷を負っておらず、体力も十分に残っているフレジア先輩。片目は失明しているし、左手での戦いではあるけれど、その想定で訓練を積んでいるので、大きなハンデにはならない。つまり————勝ち目は、かなり薄い。

 それでも、必ず、勝たなければならない。

「————ッ!!」

 剣を振りかぶる。

 金属がぶつかる音が響いた。

 距離を取り、呼吸を整えて、再び切り掛かる。

 打ち合いが続いた。フレジア先輩の剣は、相変わらず一寸のぶれもなく、的確で、隙がない。

 ただ、その表情には依然として躊躇いが見てとれた。隙を作れるとしたら、もうそこしかない。

「一緒に戻って、どうするかちゃんと考えよう!」

 フレジア先輩の必死の声。

 僕を止めろとカゼル様に命令されて、でもきっと、心のどこかではそれに従うべきなのか迷っているはずなんだ。

 だってあなたは————僕と同じだから。

「ランゼル様は無事かもしれない…っ! でもユリアが近づいたら、ユリアは助からないんだよ!!」

 ギリと奥歯を噛んだ。

「————『かもしれない』なんて信用できない!」

「っ!!」

 フレジア先輩の構えた剣に、思い切り剣を叩きつける。

「僕はランゼルを絶対に失えない! あなたもそうでしょう!!」

 その迷いを、突く。

「もしあなたが僕だったら————ここでただ待っていることなんてできないだろう!!」

 はっと、息を飲んだその瞬間に、全ての力をかけて剣を薙ぎ払った。

 カァン、と清々しい音が鳴り響いて、その手から剣が飛ぶ。

「っ…は……」

 勝った。

 実力じゃない。迷いに漬け込んだだけだ。でも、勝ちに変わりはない。

 剣を鞘に戻す。呼吸を整えようと深く息を吸うと、脇腹が鈍く傷んだ。

「ユリア…」

 フレジア先輩には、僕の気持ちが分かるだろうから。これがもしカゼル様だったら、大人しく待っていることなんて出来るわけがない。

「…必ず戻ります。ランゼルを連れて」

 カゼル様にもお伝えください、そう言って、背を向けた。

 魔力の充満する霧の中へ入る。手を伸ばしたら、指先がもう霞むほどの濃い霧だった。

「っ」

 ぐらりと視界が揺らぐ。

 空気が重く身体にのしかかかる。頭がガンガン揺らされるような感覚に、吐き気がする。冷や汗が背中を伝った。

 これが中毒症状と呼ばれるものなのだろう。ランゼルの居る場所まで、まだかなり距離がある。近づくほどに症状が重くなるのだとすれば、確かに無事では済まないかもしれない。

 それでも足を止める理由にはならないけれど、何か少しでも症状を緩和させる方法を考えなくては————。

「…!」

 ふわりと、光に包まれた。

 胸が温かくなるような感覚は、馴染み深いもので。

 これは————ランゼルの魔法だ。

「もしかして、祝福…?」

 ————『あれの強さってさ、かける側だけじゃなくて、かけられる側の気持ちにも左右されんの』

 ネモの言葉が蘇る。

 今発動している祝福は、初めての公務に出る前にかけてもらったものだ。あの時は、ランゼルへの気持ちも曖昧で、向けられる愛情からも目を逸らしていた。でも、今は————僕も、ランゼルを愛しているから。

「僕の気持ちも使って…僕を守って」

 目を閉じて、胸に手を当てる。

 息を吸って、吐いて。

 少しずつ、症状が和らいでいった。

 これなら進める。目を開けて、見えない道を歩き出した。

「っ…は……っは…」

 中毒症状が和らいでも、傷口からは血が出ているし、体力も消耗したままだから、少し歩くだけで息が上がる。

 苦しくて、そこら中が痛くて————でもこの先にランゼルが居るんだと思ったら、辛くはなかった。

 早く会いたい。会って、安心したい。そう、僕は願っているのに。

「ッ…」

 バチン、と右腕の刻印に電流が走った。

「いった…」

 顔を顰める。随分と乱暴なことをするものだ。

 これは、ランゼルからのメッセージだろう。あまり、良いメッセージではなさそうだけれど。

「来るな、ってこと…? 言っただろ、納得出来ないことには…従わないって…」

 僕の言葉が聞こえているかもしれないと思って、口に出した。

 それからも、僕を諫めるような合図が続いた。こんなことしなくたって、もう十分いろんなところが痛いんだからやめてくれ。何をされようが、お前が望まなかろうが、ここまで来て歩みを止めたりはしない。強制的に帰らせるほどの力がないなら大人しく待っていてくれ。

 祝福の力が弱まってきてしまったのか、それを上回るほどの魔力の濃さなのか、中毒症状が出始めていた。

 でも、あと少し。もう、すぐ近くに、ランゼルが居るはずだから————。

「あ…」

 その影を、見つける。

 見つけた瞬間、走り出していた。

「っ…ランゼル!!」

 まだ、こんな力残ってたのか。そんなことを思った。

 側に行って、膝をつく。ランゼルは青白い顔をしていた。

「なんで来ちゃうかな…」

「お前がこんなところで寝っ転がってるからだろっ…!」

 は、とランゼルは力無く笑った。

 良かった、意識があって。あとは、ランゼルのこの状態を、どうにか出来れば————。

「苦しい、でしょ…早く、戻らないと、ユリアも動けなくなる…」

「は…?」

 怒りを通り越して、呆れた。

 そんな言葉に頷くわけがないだろう。いい加減にしろ。

「もう戻る力なんてない。お前のそれがどうにかならないなら、僕はこのままここで中毒症状起こして死ぬしかない」

 僕の吐き捨てた言葉に、ランゼルの顔が歪んだ。

 でも本当のことだ。もう、今こうして居られるのも、気力でどうにかなっているだけなのだから。同じ距離を歩いて帰るなんて、とても出来ない。

 ランゼルは目を閉じて、ようやく覚悟を決めたように考え始めた。

 残された時間は少ない。じわじわと魔力に侵され、身体が狂わされていっているのを感じる。

「兄上は、なんか、言ってなかった…?」

 小さくこぼしたランゼルの問いに、カゼル様の言葉を伝えた。

「生命活動に支障が出るほど魔力が少なくなったら、止まるはずだって…」

 生命活動、とランゼルは小さく繰り返して。

 恐ろしいことを、口にした。

「なら————その剣で、俺の胸を刺してほしい」

 こんな時に、こんな冗談を言うわけ、ない、けれど。

「…なに、言って」

 そんなこと出来るわけがない。恐怖に顔が強張るのを感じた。

「致命傷を受けたら、確かに止まる気がする…。これは感覚的な話だけど…電源を抜けば、暴走も止まる、みたいなさ…それに、兄上もそう言ってたなら、間違いない」

 切れ切れに吐き出された言葉に、絶望する。

「できない…できない、そんな、こと」

 声が震える。想像しただけで、呼吸が浅くなる。

 手に、手が重ねられた。

 いつもと違う体温。冷たくて、不安でいっぱいになる。

「お願い、ユリアにしか、頼めない」

 ランゼルは本気だ。その真剣な眼差しが、突き刺さった。

 ここには僕しか居ない。やれるのは、僕しか居ない。

 でも、もし、失敗したら。

 もし————僕が、この手で、ランゼルを殺してしまったら。

「っ、…ッあ…」

 心臓が壊れそうなほどに激しく音を鳴らす。息が上手く吸えなくなって、目の前がブラックアウトして————。

「ユリア、ユリア」

 冷たい手のひらが、頬に触れた。

「大丈夫、ゆっくり、呼吸して…吸って、吐いて」

 優しい声に従う。

 失いたくない。この人を。

 一緒に、生きて帰りたい。

「…」

 目を開ける。

 大好きな瞳は、僕を見上げていた。

「出来るよ、ユリアなら」

 ランゼルは、いつもみたいに愛おしげに微笑んで、言った。

 信じてる、と。

 ランゼルがそう言うのならば————僕はそれに、答えなければ。

「…わかった」

 掠れた声では、ほとんど音にならなかった。

 ランゼルの手が、僕の髪を優しく撫でる。ありがとう、と囁いた声に涙が滲んだ。

 横たわるランゼルを跨いで膝立ちになる。

「ほんとに…ほんとに最低だよ、お前」

 僕にこんなことさせて。これで死んだら、すぐに後を追ってやる。

 ごめん、とランゼルは笑った。何度謝られたって許せない。また一生許せないことが増えてしまった。

 剣を抜く。

 両手で柄を握って、剣先を、下に向ける。

 急所は避けて、でも致命傷になるように。狙いを、定めて。

「…」

 怖い。本当は、今すぐに泣き叫びたいくらい、怖い。

 でも、ランゼルが、僕を信じてくれるから。

「ユリア」

 何度も何度も呼ばれた名前。その声色は、いつもと変わらない。愛情がいっぱいに詰まった、優しい声だった。

「生きて帰ろう」

「うん」

 ランゼルの作った美しい刀身。その煌めく刃に、全意識を、集中させて。

 その胸に、剣を突き立てた。

「————っ」

 剣が砕け散る。きらきらと、空気に溶ける。

 風が、大地を撫でた。霧が晴れる。充満していた重い魔力が、一瞬にして霧散する。

「は…」

 終わった。

 でも、ランゼルが。

 真っ赤に染まったランゼルの胸に、震える手を乗せる。力が入らない手で押さえても、血が止まらない。

「ラン、ゼル…」

 死なないで。

 ひとりにしないで。

 側に居て。名前を呼んで。笑って。

 願いと愛を込めて、その唇に、キスをした。

「…」

 温かな風がランゼルを包む。薄く開いた瞼の隙間から紅い瞳がのぞいて、柔らかく細められた。

 その微笑みを見た瞬間、僕の意識も白い光に飲まれて途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る