第6話 友愛
————『そっちだって、主人のこと嫌いなクチじゃないの?』
あの日、ネモに言われた時も。
————『俺のこと、嫌いなんじゃないの…』
昨日、ランゼルに言われた時も。
僕は、頷くことが出来なかった。
ランゼルのことが許せない。あの日から今日まで、恨みが消えたことはない。だから嫌いなはずなのに、どうしてもその問いに頷くことは出来なかった。
ランゼルの役に立ちたいと思う。ランゼルに求められたいと思う。それは、ここで花騎士として生きることが僕の全てだからなのだと思っていた。だから、あいつを嫌いにはならない————いや、なれないのだと結論付けたこともあった。
でも、多分、違った。
ランゼルの力になりたいと願うこの気持ちに、花騎士であることは関係ないのだと、昨日の一件で気付いてしまった。
僕の手を振り払って一人で苦しみを抱えようとするランゼルに食い下がったのは、責任感からじゃない。あの瞬間、自分の立場のことなんて微塵も頭にはなかった。
僕はただ、ランゼルを助けたいと強く思ったから、その手を掴んだ。
ランゼルに苦しんでほしくない、あの笑顔が曇るのを見たくない————親友だったあの頃から変わらない思いが今もあることを、もういい加減受け入れなければならない。
きっと僕は、今もランゼルのことが好きなんだ。一人の、大切な友人として。
恨む気持ちが強くて、ずっと素直に好意を認められなかった。自分はランゼルを嫌いになったのだと思えた方が、感情の辻褄が合って楽だったから。
好きだと認めたからといって遺恨は消えないし、相反する感情をどう処理したらいいのかの答えも、まだ出せていない。でも、これから時間をかけて、向き合いながら答えを探せばいいと思った。ランゼルの隣で、その思いを一つ一つ確かめながら。
そう、昨日、心に決めたばかりだったのに。
「ユリア」
翌朝、珍しく部屋まで迎えに来たと思ったら、その表情は暗く沈んでいた。
あまり見ないその雰囲気に、不穏な予感がした直後。
「花騎士、辞めない?」
唐突に、そんなことを言われた。
「は…?」
掠れた声が漏れる。
呆然としている僕に、ランゼルは言葉を続けた。
「花騎士である以上、これからもずっとユリアに苦しい選択をさせることになると思うんだ」
一体、何の話をしているんだ。
不安感に、耳鳴りがしてくる。ランゼルはそんな僕から目を逸らして、ぽつりと呟くように言った。
「もう、俺はユリアを傷つけたくない…」
背筋が冷たくなるのを感じながら、急に訳のわからないことを言い出したランゼルに言い返す。
「何の話…僕は、お前に傷つけられてなんかない」
昨日のことを気にしているのなら、あれはランゼルのせいじゃない。いいと言ったのは僕だ。そう伝えたけれど、ランゼルは悲しげに首を振った。
「違う…ユリアは麻痺してるんだ。あんなの、自己犠牲でしかない」
「何、言って」
掠れが声が漏れる。
麻痺? 自己犠牲?
ショックで、言葉を失う。
僕はあれを、お前への好意がそうさせたと結論付けたのに。湧き上がる怒りを隠し切れず、ランゼルを睨みつけた。
「お前のエゴを、僕に押し付けるな」
人の気持ちを勝手に決めつけて、まるで悪いことみたいに解釈して。
ランゼルの悪いところだ。いつでも正しくいようとするあまり、周りが見えなくなって、思い込みで答えを出す。しかも、自分の中で正しさを定めたら、もうそこへ向かうことしか考えられなくなって、自分や相手の感情をなおざりにしていることにも気付かない。
しかし、ランゼルはそれがエゴであることも認めた。
「エゴでもいい。俺はもう、ユリアの身体も心も蔑ろにしたくないんだ」
「…っ、今まさに蔑ろにしてるって、分かんないの?」
声が震えた。
悔しくて堪らない。
昨日のあれは、自己犠牲なんかじゃない。紛れもなく僕の意思だった。ランゼルの力になりたいという、僕の気持ちがそうさせたのに。
否定したいのに、怒りのあまり言葉が上手く出てこなくて。
「最低だよ、お前」
ただ吐き捨てることしか、出来なかった。
「っ…」
ランゼルは顔を歪める。けれど言葉を撤回する気はないのだろう、ただ床に視線を落として沈黙した。
その横をすり抜けて、部屋を出る。廊下を大股で歩き、外の集合場所へ向かった。
階段を駆け降りながら、涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。悔しい。むかつく。あいつのああいうところだけは、昔からずっと嫌いだ。
思い出すのは、僕がランゼルと間違えられて誘拐されそうになった時のこと。僕が危険な目に遭ったのは、自分が友人になったせいだからと、突然絶交を持ち掛けてきた。
僕の気持ちなんて一ミリも考えられてないその選択に、僕はあの時もひどく怒りを覚えた。泣きながら、お前は本当にそれでいいのかと掴み掛かった。
昔から、ランゼルは一度こうなると、自分の心にも平気で嘘を吐く。自己犠牲はどっちだ。
お前、僕のこと好きなんじゃなかったの。その気持ちとは、どう折り合いつけたんだよ。
どうせ、折り合いなんてつけてないんだろうな。無理やり捩じ伏せて殺しただけだろ。
僕と離れても本当にいいの。僕への気持ちってそんなもんだったの————なんて、僕が言ったら、あいつはどんな顔をするんだろう。
悪魔狩りへ向かう車の中の空気は、最悪だった。
「…」
「…」
僕らは冷戦状態のまま、黙ってそれぞれ窓の外を眺めている。
今は怒りが収まらないから何も話す気にはなれないけれど、ランゼルが完全に自分の感情に見切りをつける前にどうにかしなくてはならない。これはもう、子供の喧嘩じゃない。その心を完全に殺してしまったら、ランゼルは僕が何を言おうと問答無用で全てを終わらせるだろうから。そしてその力が、今のランゼルにはある。
そんなことになったら、僕は本当にこいつのことを一生許せないだろう。今度こそ、本当に嫌いになってしまう。そんな人生は嫌だと、今ははっきりそう言える。
僕は、僕の中にあるこいつへの愛情を大事にして生きていきたい。それが、ようやく見えた光だから。何の執着も夢も無かった人生に差した唯一の光なんだ。絶対に、失うわけにはいかない。
車が止まる。礼を言って二人で降りる。
車が走り去るのを待たず、ランゼルは歩き出した。
この憎らしい背中を蹴って、地面に押し倒して、胸ぐらを掴んで、思いをそのまま全部吐き出したら、何か変わるだろうか。
「…」
僕がそんな乱暴なことをすれば、ランゼルも驚いて少しは目が覚めるかもしれない。でもそれは、望む解決法ではなかった。
ランゼル自身の意思でこの先も一緒に居ることを選んで欲しい、なんて。僕も随分と強欲になったものだ。
昨日以前とはあまりにも変わった考え方に、自分でも少し笑ってしまう。
まさかこんなことを願うようになるなど、ここに来た時は思いもしなかった。もっと淡々と生きていくつもりだったんだ。心なんてものがあるから苦しいんだと思ってしまったから。だから、感情も願いも奥深くに仕舞い込んだのに、それを、他でもないランゼルが引き摺り出した。
こいつにそんなつもりはなかったのかもしれないけれど、これはランゼルがこじ開けた扉だ。人の心を荒らすだけ荒らして、知らんふりだなんて許さない。
数メートル先に大きな黒い魔法陣と、複数の黒い人影が見えた。武器を持った、人型の悪魔だ。剣を抜き、ランゼルを追い抜かして、地面を強く蹴った。
宙を舞う足元に白い魔法陣が現れて、ふわりと温かさに包まれる。僕を守るためのこの魔法だって、ランゼルの愛だ。寝る間も惜しんで魔法の練習をしていたことだって知っている。いつだって、ランゼルは僕のためにその身を削ってくれるんだ。
僕だってそうしたい。それは、お前のことが好きだからなんだって、分かってほしい。
「ッ!」
剣を振り下ろす。悪魔は黒い塵となって消えた。
一撃で倒せるものの、数がかなり多い。ざっと十体だが、まだ魔法陣が新たな個体を顕現させ続けている。
あの手の複数の悪魔を出現させる魔法陣は、呪力が消えるまで悪魔を倒し続けるしかない。
呼吸を整え、状況を確認して、再び地面を蹴った。一体ずつ確実に仕留めていく。落ち着いて、警戒を怠らず、常に戦況を把握して————。
戦っている横を、一体が走り抜けて行った。
「っ、!」
剣をぶつけていた敵の攻撃を無理やり弾き飛ばし、後ろを振り返る。
それは、一直線にランゼルの方へ向かっていた。
すぐに追おうとして、しかし背後からの殺気を感じて反射的に地面へ転がる。顔を上げた時には、もうランゼルのすぐそこまで悪魔は迫っていた。
まずい、この距離では、走っても間に合わない。
「————ッ」
ランゼルだって戦闘訓練を受けているのだから一撃で致命傷になるわけはないとか、そもそも何の防御の策もなく戦場に立っているわけはないとか、少し考えれば、そこまで絶望的な状況ではないと思えたかもしれない。
でも、この時はそんな冷静に考える余裕はなかった。
「ッ!」
ランゼルを守らなきゃ。
地面を蹴る。でも、どう考えても間に合わない。
敵が剣を振り上げる。
守りたい。ランゼルを、守りたい。
僕を、守ってくれたように。
「ランゼル!!」
届かないのに、手を伸ばして————その瞬間、ランゼルの足元に魔法陣が光った。
剣を振り下ろそうとする悪魔が、何かに弾かれたように吹き飛ぶ。
速度を緩めず走り、跳躍する。地面に転がったそれに向かって、思いきり剣を突き立てた。
残り三体。黒い魔法陣は消えている。これらを片付けたらお終いだ。
全てが灰になるまで、五分もかからなかった。
息を深く吐く。剣を鞘にしまって、その方を振り返って。
「ユリア…?」
警戒と動揺を露わにしたランゼルが、掠れた声で僕を呼んだ。
なぜそんな顔をしているのか、僕には分からなかった。
「さっきの、は…どういうこと…?」
震えた声。
「え?」
さっきの、とは。何を指しているのか分からず戸惑う。
ランゼルはゆっくりと息を吐き出して、静かに口を開いた。
「俺に————魔法、かけたよね」
何を言われているのか、本当に分からなかった。
僕が魔法を? そんなわけがない。
「何の話…?」
「さっき、俺が悪魔に襲われそうになった時…ユリアが、俺に魔法をかけて守ってくれたでしょ」
確かにあの瞬間、魔法が発動した。でも、それは。
「何言ってるの、あれはランゼルが自分でかけたものじゃ————」
「俺はかけてない、あの魔法は、ユリアが発動したものだ」
はっきりと返されたけれど、やっぱり意味が分からない。
「僕に魔法は使えない…そんなの、お前もよく分かってるだろ」
ランゼルも困惑を浮かべて「それは、そうだけど」と呟いた。
「勘違いじゃないの。魔法陣、いつものランゼルのものだった」
僕の言葉に、ランゼルははっとした顔をした。
「そうか…もしかしたら…でも…」
何やらぶつぶつと一人で考え込み始める。
まさか、本当に僕が魔法を使ったと思っているのだろうか。
「…」
あの時のことを思い返す。
ランゼルのことを守りたくて、それだけが頭にあった。届かないと分かっていて、それでも手を伸ばして————思い出してみると、なぜそんなことをしたのか理由は説明出来なかった。
でもあの瞬間、反射的にそうすれば守れると思ってしまったんだ。
「とりあえず、兄上のところへ行こう」
「…分かった」
ランゼルに手を取られる。
僕を連れ回す時、ランゼルはいつもこうして手を繋ぐ。無意識のような気がするけれど、当たり前のように結ばれる手に、こちらとしては毎度少し落ち着かない気持ちになる。
王宮に到着するなり早足で廊下を進み、カゼル様の部屋へ向かった。
そのドアを叩こうとした時、まるで予期していたかのようにドアが開いた。
そこには、深刻な面持ちをしたカゼル様が立っていて。
「…入りなさい」
「え…なんで…」
ランゼルも驚いたように目を丸くしている。顔を見合わせ、二人で部屋に足を踏み入れた。中にはフレジア先輩も居て、心配そうな顔でこちらを見守っている。
「それ、どうしたんだい?」
「それって…」
ランゼルは戸惑いながら溢す。カゼル様は、人差し指でとん、とランゼルの胸元に触れた。
「…祝福がかかった痕跡がある。でもこれは————ランゼルの魔力だ」
「!」
ランゼルは息を飲んだ。
話の行方が分からず、僕はただ黙ってカゼル様を見つめた。
「祝福は、とても少ない魔力で魔法を使う技術だけれど、かける対象への強い思い————もう少し具体的に言うと、特別深い愛情が必要になる」
カゼル様は、ランゼルを見下ろして静かに語った。
「だから、自分に祝福を掛けることは出来ない。なのに…この祝福には、ランゼルの魔力が使われている」
矛盾を指摘するカゼル様は、真相を探るようにじっとランゼルを見つめていた。
僕がランゼルの魔力を使って祝福を掛けたとしたら、辻褄は合う。でもまさか、そんなこと————本当に、あり得るのだろうか。
「…」
ランゼルは、ちらりと僕を見た。
視線が交錯する。迷いを露わにしたその瞳を、ただ見返した。
ランゼルは一度深呼吸をして、それから僕と同じ推論を口にした。
「信じられないかもしれないんですが…おそらく、ユリアが俺の魔力を使って俺に祝福をかけたのではないかと」
「え…?」
目を見開いたカゼル様に、ランゼルは起きたことを説明した。
カゼル様は黙ってその話を聞いた後、しばらく黙りこくった。美しい人の真顔は少し恐ろしく、緊張が走る。
十数秒の静寂。そして、その唇がゆっくりと開いた。
「俄かには信じられないけれど…確かにその状況だと、ランゼルが自分で自分に祝福を掛けたか、ユリアがランゼルに祝福を掛けたかの二択しかない」
どちらも普通はあり得ないことだが、ランゼルが自分でやったという方がまだ頷けると、カゼル様は淡々と語った。
「だからもう一度確認させて欲しいのだけれど…それは、本当にランゼルがやったことではないのかい」
問いかけに、ランゼルはカゼル様を真っ直ぐに見返した。
「自分が魔法を使っていないという確信もあるのですが…何より、あれは確かにユリアの魔法でした」
「…」
なぜ断言出来るのか————今ならば、少しその感覚も分かってしまう。
僕もきっと、魔法陣を見なくとも、かけられた時の感覚だけでランゼルの魔法かどうか、もう分かるだろうから。
魔法には、使い手の思いが込もる。ランゼル以外の人に魔法をかけられたことはないけれど、これだけ強くランゼルを感じ取れるのだから、その感覚は全く異なるものだろう。それに、今回は思いが力の根源となる祝福だ。魔法よりも、さらに強くその人の心を感じ取れるに違いない。
そうか、とカゼル様は頷いて、呼吸を整えるように細く息を吐いた。そしてようやくいつもの優しい微笑みを浮かべ、柔らかな声で話し出した。
「じゃあ、どうしてそんなことが起きたのか、落ち着いて考えてみよう」
立ち話もなんだから、とソファの方に誘われる。僕にも席をすすめてくださったので、ランゼルの隣に腰掛けた。
カゼル様は向かい側に座り、その後方に、ずっと黙って話を聞いているフレジア先輩が立った。
「状況を整理しようか」
カゼル様が話を切り出す。
「まず、その祝福に使われた魔力は、確かにランゼルのものだった。でも、刻印で受け取った魔力は、その身体に留まり続けるようになっているから使うことは出来ない…だからきっと————」
しかし、言葉は途中で途切れた。
そして、カゼル様は僕の方を見て、申し訳なさそうに眉を下げる。
「…ごめんね、ユリア。魔力を移譲したこと、ランゼルから聞いているんだ」
それを知られていること自体別に問題ではないのに、謝罪されたということは。
ランゼルを横目で睨む。
「…ごめん」
その方法まで、伝えたのか。
気まずそうに視線を逸らすランゼル。羞恥に頬が熱くなるのを感じながら、カゼル様の方へ向き直る。
「考えられるのは、その移譲された魔力が少しだけユリアの中に残っていた…かな。祝福は本当に僅かな魔力で発動できるから、それならばかろうじて説明がつく」
「でも、そもそもユリアが魔法を使ったというのが…王家の血を引いていないと魔法を発動するのは不可能なのかと思っていましたが…」
「そこは分からないね。不可能とされているけれど、本当はそんなことないということなのかもしれないし、ユリアが特別なのかもしれない」
カゼル様に、親戚に王族は居ないかと聞かれ首を振る。何代も遡ったら可能性はあるが、少なくとも知る限りでは血縁に王族は居ないはずだった。
「何にせよ、異例であることは事実だ。————ユリア」
はい、と返事をする。カゼル様の美しいエメラルドグリーンの瞳が、僕をじっと見つめた。
「このことは、絶対に誰にも言わないこと。そして、誰にもバラさないために、もう魔法は使わないこと。いいね?」
「はい」
使わないというより、使えない。あの時も意識的に出来たわけではないし、どうやって使ったのかすら分からない。
「少しだけ、ランゼルと二人にしてもらってもいいかい?」
カゼル様の言葉に席を立つと、フレジア先輩が僕を見てにこりと笑った。
「僕の部屋に行こうか、ユリア」
「…はい、ありがとうございます」
先輩と共に隣の部屋に行く。
初めて足を踏み入れたけれど、部屋の広さも家具の配置も、僕の部屋と全く同じだった。
「ユリア、大丈夫?」
気遣わしげに問いかけられて頷く。
「僕は大丈夫です。…本当に自分が魔法を使ったなんて、信じられないですけど」
「僕も驚いたよ。そんなことあるんだね」
完全防音なので、隣の部屋の声は全く聞こえない。二人は何を話しているのだろうと考えていると、ふとフレジア先輩に問い掛けられる。
「最近、ランゼル様とは、どう?」
「え…どうって…」
どういう意味か尋ねようとして、はたとその可能性が思いついた。ランゼルは、魔力移譲を含めてあの日あったことの全てをカゼル様とフレジア先輩に話したのでは、という可能性に。
「…ごめんね、ランゼル様に告白されたことも、聞いちゃったんだ」
やっぱりそうか。本当に何でもかんでもカゼル様に話してしまうんだから。昔からそうだし、あの方が兄だったら慕うのも分かるけれど、今回の件が全て筒抜けだというのはさすがに恥ずかしい。
「特に答えは返していなくて…あれから、話題にも上がってません」
そっか、とフレジア先輩は優しく笑ってくれた。
その顔を見ていたらほっとして。少し、思いを吐露したくなってしまった。
「…ランゼルのこと、好きなんだって気付いたんです。今も昔も、変わらずに」
告白された時はそれすらも分かっていない状況だったから、ランゼルから向けられる愛情が友愛だけではないということについて、まともに考えることが出来なかった。でも、自分の気持ちが整理出来た今も、そこについてはあまり変わらない。
「ランゼルの言う好きとは…違うような気がしているんですが、それも、ちゃんとは分からなくて」
「難しいよね。ひとえに愛情と言っても、あまりにいろんな種類があるし…」
本当にそうだ。実際、僕がランゼルに向ける愛情も、友愛と一言で表すと、それはそれで何だか違うような気もする。そこにはもっと複雑な、一言で表せる適切な言葉なんてない唯一無二の感情があるように思えた。
難しいな、と思っていると、不意に、フレジア先輩が呟くように溢した。
「友愛も、親愛も、敬愛も…それこそ、同情だって、愛情だろうから」
「え…」
突然飛び出した同情という言葉に、フレジア先輩が何を思い浮かべているのか想像がついてしまった。
聞いてもいいのだろうか。逡巡して、けれど結局尋ねてしまった。
「カゼル様のこと…ですか」
フレジア先輩は、身寄りが無いらしい。だから、卒業後はほぼ王室に引き取られるような形でカゼル様の元へ身を寄せたと聞いている。
当時、二人の間にどんなやり取りがあったのかは知らないけれど、でも、傍から見ている限りでは。
「カゼル様のフレジア先輩への愛情は、同情なんかじゃないと思います」
僕の言葉に、フレジア先輩は一瞬驚いた顔をした後、少し寂しげな微笑みを浮かべた。
「もちろん、同情だけだなんて思っていないよ。カゼル様は、本当に僕を大切にしてくださるから」
なら、なぜそんな顔をするのだろう。
二人の間に確かな絆があるのは、見ているだけでも本当によく分かる。フレジア先輩を見るカゼル様の目はいつだってとても優しくて、愛情に溢れていた。もちろん、逆も然りで、二人は本当に互いを大切にしているのだろうなと、王宮入り前の生活でも何度も思ったものだ。
王宮に来てからも、本当にいつも一緒に居るし、仲も良い。それが、僕にとっては少し羨ましくもあった。
でも、そんなふうに全てが上手くいっているように見える二人でも、思いの全部が噛み合っているわけではないらしい。少なくとも、この様子だと、フレジア先輩は何か思うことがあるのだろう。
人の心の難しさをあらためて実感する。何か掛ける言葉はないだろうかと探していると、フレジア先輩は力なく首を振った。
「…ごめんね、僕の話はいいんだ。僕は悩んでいるわけじゃないから」
それが嘘であることはさすがに分かる。でも、続くフレジア先輩の言葉に、僕は一切の言葉を封じられた。
「僕は、身も心も、持てる全てをカゼル様に捧げると決めている。だから…いただける愛情がどういうものであれ、僕はただそれを受け止めるだけ」
胸に手を当てて語るフレジア先輩。静かな、しかし有無を言わせない声で、はっきりとそれを口にする。
「これが、僕の忠誠だから」
「…!」
忠誠。
主人と従者という関係において、本来は必ず存在するもの。
僕にも近しいものはあるかもしれないけれど、やっぱり忠誠と呼ぶに相応しいものではない。だから、それを持たない僕には、真にカゼル様とフレジア先輩の関係を理解することは出来ないのだろうと思ってしまった。
コンコン、とドアがノックされる。フレジア先輩は、ふっと笑みを溢して僕に向かって言った。
「話が逸れてしまったけれど————どんな形でも、ユリアの答えが出せるといいね」
そして、席を立ってドアの方へ向かう。
「…」
その背中を見ながら、答えを出すということについて考える。
ランゼルはあの日から一度もこの件について話題には出して来なかったし、答えを求めてくることもなかった。
でもそれは、ランゼルの優しさだ。これまでそうしてきてくれたのと同じように、ただ僕の甘えを容認してくれているだけに過ぎない。
僕も、誠実でありたい。
ランゼルを大切に思う、一人の友人として。
「二人とも、待たせてすまないね」
「いえ、お気になさらず。ユリアとも、色々話が出来たので」
カゼル様とフレジア先輩のやり取りを聞いて席を立つ。
「フレジア先輩、ありがとうございました」
そして、二人に見送られながら僕はランゼルと共に部屋を出て行った。
私室に向かって、並んで歩く。今朝と同じ沈黙だけれど、纏う空気は柔らかかった。
「…ありがと、ユリア」
小さな声が、沈黙をそっと破る。
「どうなってるのかよく分からないし、心配だからもう使ってほしくないけど…でも、嬉しかった」
はにかむランゼルを前に、どんな顔をしたらいいか分からなくて俯いた。
————『祝福は、とても少ない魔力で魔法を使う技術だけれど、掛ける対象への強い思い————もう少し具体的に言うと、特別深い愛情が必要になる』
カゼル様の言葉が蘇る。
つまり、僕のランゼルへの愛情が祝福となった。そこに、特別深い愛情が存在することの、何よりの証明だ。
もうそれ自体は認めたことではあるけれど、あらためてその事実を突きつけられると少し複雑だ。
「…ユリアはさ」
ランゼルの優しい声に顔を上げる。
「俺のこと、嫌いじゃない?」
それは、嫌いではないことを確認するイントネーションだった。
ふっと息を吐く。それから、ランゼルの目を見て伝えた。
「嫌いなわけ、ないだろ」
「…はは、そっか」
ランゼルは嬉しそうに笑う。そして、今朝はごめん、と謝罪を口にした。
いいよ、と返せば、また目元をくしゃりとさせてランゼルは笑った。
* * *
ランゼルへの好意を認めてから、一緒に居るのが前よりさらに楽になった。
毎日が忙しくて、やるべきことがたくさんあって、飛ぶように日々が過ぎていった。しかし、ただ忙殺に身を委ねていると、何となく全てが上手くいっているように錯覚してしまう。僕はまだ、出すべき答えを出せていないのに。
ちゃんと自分の心と向き合うため、一日の終わりに自問自答をするようにした。
一人の時間に、これまでの過去を振り返って、感情の整理を行う。
ランゼルのことは好きだ。一緒に居て心安らぐし、笑っていてほしいと思う。特別大切な人であることは、二人で過ごした幼き日々から変わらない。
でも、やっぱりそれだけでは済まなかった。
全てを取り上げられたあの瞬間を、それからの地獄のような生活を、なかったことには出来ない。
あの頃のことは、まともに思い返すことをずっと避けてきた。苦しさが込み上げてくるだけで何にもならないと思っていたから。しかし、気持ちを整理するには、この感情に関わる全てと向き合わなければならない。
親元を離れて入学させられた騎士学校は、とても冷たい場所だった。
今でも、最初の日のことを思い出すと息が苦しくなる。教壇に立った僕に突き刺さる視線はどれも冷たく、人生で初めて頭が真っ白になった。
当時、僕は剣すら握ったこともない、何も出来ないただのか弱い生徒で、そんな僕に対して周囲は辛く当たった。理由は、花騎士になることが決まっていたから。何の力もない人間が、エリートコースを約束させられていることを、周囲はよく思わなかった。
あまりにも何も出来ない僕を見て、次第にこの程度の人間ならば潰してしまえばいいという思考が働いたのだろう。初めはただ無視されるだけだったが、そのうち陰湿なことをされるようになった。あんなふうに人からむき出しの悪意を向けられたことなんてなかった僕は、必死に恐怖を殺し、毎晩部屋で泣いていた。
花騎士メンバーだけが、唯一僕を傷つけない存在だった。でも、知識も経験も足りなかった僕は、最初の数年間は花騎士クラスで授業を受けることがほぼ無かった。だから、三人と過ごせる時間もそう多くはなく、一人孤独に戦っていた。でも、おそらくあの頃の三人は、出来る範囲で僕のことを守ってくれていたのだと思う。それでも、悪意の方が膨大で、僕への仕打ちがなくなることはなかったけれど。
ランゼルのことを、心の底から恨んだ。何度その恨みを直接投げつけようと思ったか分からない。でも、面会に来たランゼルと実際に会うと、その温かさに何も言えなくなった。目を見て笑ってくれる、優しく名前を呼んでくれる————それだけのことが、冷たい世界に生きていた僕にとっては、あまりにも温かくて。
自分をこんな目に遭わせたランゼルのことは許せない。でも、今や自分を求めてくれる人も、この人しかいない。最初の数年は、そんな濁ったジレンマの中で何とか息をしていた。
僕の意識がそこから変わったのは、花騎士クラスの特別カリキュラムが始まったことがきっかけだった。
カリキュラムでは、とても人道的だとは思えない、人体実験にも近いことが行われた。身体だけでなく、精神的に強いストレスを与えるカリキュラムも多く、これまでの恐怖とは違う恐ろしさがあった。
それらも全部、ランゼルの騎士になるためにさせられていること。その道に進むことを決められた僕は、受け入れる以外の選択肢なんてない。その事実をあらためて目の当たりにして————ついに、心を捨てた。
求められているものを手に入れ、花騎士になる。そして、自分を認め、居場所を与えてくれる世界で生きていくことだけを考える。それ以外の理由も、意思を揺るがす感情も要らない。今思うと、そうすることで、僕は自分の心を守っていたのだと思う。
ランゼルに会って安寧を覚えるすらのも嫌で、面会を拒否した。フレジア先輩が卒業したのもその頃だったから、僕は本当に独りになった。
そこから数年間は、あまり記憶にない。ただ目の前の課題を必死にこなしていき、食事が喉を通らなくなるほどの修練を重ねて————気付けば、周囲よりも優秀な成績を収められるようになっていた。
その頃になると、周りは手のひらを返して僕を煽てたり、もてはやしたりして、僕の機嫌を取った。不快な思いをさせられなくなったのは良かったけれど、周りの人間が嫌いなのは変わりなかった。
ランゼルとの面会も再開した。あと二年で花騎士になるにあたり、最低限の関係性は必要だと思ったからだった。
この八年間の記憶は、今も僕の胸に深く刻み込まれている。
この先どれだけ心が満たされても、幸せでも、あの痛みをなかったことにはきっと一生出来ないし、したくなかった。
暗い部屋で、幼い自分が声を殺して泣いている。その背中をさすってあげられるのは、自分しかいないから。
しかし、この記憶とともに生きていくということは、僕はランゼルのことを許せる日は来ないのと同義だ。
悪いのは、実際に僕に悪意を向けた人間かもしれない。ランゼルが僕を直接傷つけたわけではないのだから。
でも、苦しくて辛かったカリキュラムは、花騎士に課せられた命の危険と隣り合わせでやっていかなければならない僕らを守るためのものだった。悪意を向けてきた人間たちも、僕が花騎士の約束をされていなければきっとただのクラスメイトだった。
結局、全ての原因はこの道を歩ませたランゼルにあるという思考に行き着いてしまう。
許せない、どうしても。けれど、これからも一緒に居たい。好きだから。
「…堂々巡りだ」
ため息が溢れた。
正の感情と負の感情がこんなにも平衡状態を保つことなんてあるんだろうか。答えを出すのに、あとは何を考えればいいのだろう————。
考えに耽りながら雨音が響く廊下を歩いていると、ふと誰かの足音が聞こえて立ち止まった。
今日は久しぶりに公務が早く終わったので、訓練場で剣を振るっていた。実戦ももちろん力になるが、基礎を固めるという意味でも訓練場で鍛錬をする必要がある。久々の自主練につい熱中してしまい、慌ててシャワールームで汗を流し、部屋に帰ろうとしていたところだった。
おそらく、もうそろそろ日付を越えようという時間だ。
明かりも消え、人気のない廊下。遠くに聞こえる足音の正体は————。
「え…あれ、って……」
ネモとリーフィラ殿下だった。
リーフィラ殿下の後をついていくネモ。表情までは見えないが、その足取りに不自然さを感じる。無気力というか、おぼつかないというか。
「…」
後を追う。
曲がり角まで行き、顔を覗かせると————二人が一室に入って行くのが見えた。
ドアが閉まってから、その部屋の前まで行く。隣の部屋のドアとの距離や、その装飾の雰囲気から察するに、おそらくここはリーフィラ殿下の部屋だ。
何をしているのかとても気になるけれど、さすがにノックする勇気はない。というか、詮索しないようランゼルに言われてからは、探りを入れるのもやめていた。その言いつけを破るつもりはない。気には、なるけれど。
「…」
立ち去らなければと思いながらも、未練がましくその場から動けない。
どうしてこんなに二人のことが気になるのか、自分でもよく分からなかった。
気になり始めたのは、ここに来てからだ。ネモのリーファラ殿下嫌いは今に始まったことではなく、騎士学校の頃からだったけれど、あの頃はただ険悪な雰囲気を出すネモのことを苦手だとしか思わなかった。
でも今は、二人の間にある確執の正体が気になってしまう。いや、厳密にはそれを暴きたいというのとは少し違って、僕はただ、二人の関係が拗れている現状が正しいのか、それがどうしても気になっていた。
だって本当は、ネモはリーフィラ殿下のことを————。
「そこで何してるの?」
「え…」
扉が、開いていた。
「ッ!」
誰かに背中を押されたように、たたらを踏んで部屋に入ってしまう。
バタン、と背後でドアが閉まって————目にした異様な光景に、絶句した。
「な、に…して…」
ベッドに腰掛けるリーファラ殿下の膝に頭を乗せて横たわるネモ。その瞼は閉じられている。
「警告したのに。彼から聞いてないの?」
リーフィラ殿下はネモの頭を撫でながら、薄く笑った。
部屋の空気が、身体にのしかかるように重い。ランゼルのものとは違う、甘い花の匂いが充満していた。
「何を、してるのですか」
カラカラの喉を動かして問い掛ける。緊張からか、耳の奥にこだます鼓動がうるさい。
ネモと同じグレーの瞳が、僕をじっと見つめる。そして小さく口を開いた。
「これはね、呪いをかけてるの」
「呪い…?」
魔法とは違うのか。何にせよ、あまり良い響きではない。
リーフィラ殿下は、手元に視線を落とした。そして、マリンブルーの髪を優しく梳く。
「…」
やっていることはともかく、少なくともリーフィラ殿下からは、ネモに対する嫌悪を全く感じない。それどころか、その手つきも、視線も、とても柔らかくて————。
「…まぁ、君には関係ないけどね」
再び顔を上げた時には、笑みは消えていた。
「僕らには、僕らの事情があるんだ」
これ以上踏み込まなと言われている。鋭い視線が突き刺さって、思わず生唾を飲んだ。
「さて…じゃあ、少し痛い目を見てもらおうかな」
リーフィラ殿下が、そう言い放った瞬間。
「…っ」
足から力が抜けた。かくんと膝が折れて、その場に崩れ落ちる。地面を両手で押しても、足に全く力が入らなくて立ち上がれない。
冷や汗が伝った。これはまずい、かもしれない。
「…」
何も言わず、リーフィラ殿下は無表情に僕を見下ろしていた。
僕を中心に魔法陣が現れる。何をされるのか分からない恐怖。でも、さすがに公務に支障が出るようなことはされないだろうし、少し耐えれば————。
痛みに備えようと、瞼を強く瞑った時だった。
バチンと空気を切り裂く音。目を開ける。魔法陣が掻き消され、代わりに見慣れた花模様が地面に広がって。
「…!」
次の瞬間、背後のドアが勢いよく開いた。僕の前に、人影が立ち塞がる。
「何してるんだ」
低い声。黒髪を下ろした見慣れない背中。
「ランゼル…」
来てくれた。緊張が解けて、無意識に力んでいた身体が弛緩する。
「警告はしたはずだけど」
淡々と言うリーフィラ殿下。怯んだ様子は全くない。
「お迎えが来てよかったね」
僕の方をちらりと見て言った。
「…」
ランゼルがここに向かっていると分かっていたのだろうか。この方の考えが全く読めない。
ランゼルはこちらを振り返ると、僕に向かって手を差し出した。
「ユリア、立てる?」
「う、ん…」
力は入るようになっていた。その手を掴んで、立ち上がる。
ランゼルは振り向くことなく僕の手を引いて部屋を出て行った。
廊下を早足で進む。ランゼルは何も言わない。
「…」
「…」
僕の手を握り込むように強く掴む手。その乱暴さから、ランゼルの感情が伝わってくる。
謝らなきゃ————そう思うのに、初めて向けられる怒りに胸の辺りが騒めいて、上手く言葉が出てこなかった。
歩みが、唐突に止まる。
ランゼルは手を掴んだまま振り返った。黒い髪が、動きに合わせてふわりと揺れる。
ランゼルは、僕をじっと見つめて低い声で言った。
「ユリア。俺、怒ってるよ」
分かってはいたけれど、直接言葉にされると気分は重く沈んだ。顔を見れなくて、俯いて謝罪する。
「…ごめん、なさい」
はぁ、と溜め息を吐かれた。
「なんであいつの部屋に行ったの」
「たまたま、二人が歩いているのを見かけて…」
状況を説明すると、ランゼルはもう一度溜め息を吐く。そして、手を優しく握り直し、「ユリア」と僕の名前を呼んだ。
「…」
顔を上げる。もう、その表情に怒りはなかったけれど、今にも泣きそうな顔をしていて、胸がきゅっと苦しくなった。
「心配した。ユリアに何かあったら、俺…」
言葉が途切れる。
一つ息を吐いて、手が解かれる。
「…ごめん、なんでもない」
何を言おうとして、どうしてやめたのだろう。気になるけれど、言葉を催促することは出来なかった。
「軽率だった。本当に、ごめん」
僕の謝罪に、ランゼルはただ眉を下げて微笑んだ。
二人で廊下を並んで歩く。部屋まであと少しというところで、ランゼルがぽつりと呟いた。
「雨、ひどくなってきたね」
「…そうだね」
小雨は、気付けば豪雨に変わっていた。
ピカッと空が光る。数秒後、低い轟音が鳴り響いた。
「…」
昔は、雷が苦手だった。
突然の大きな音や、その不穏な雰囲気が苦手で、雷の日は一日憂鬱だった。今はもう、そんなことはないけれど。
カリキュラムには、様々な恐怖症を克服する訓練があった。暗闇や騒音、高所など、人が恐怖を感じる可能性のあるものに対して、動揺したり、思考が止まったりしないようにする訓練。雷が苦手な僕にとって、騒音耐性訓練は一番精神的に苦痛なものだった。
遠い記憶だ。今はもう、大きな音を聞いても恐怖に体がくすんだりはしない。
「雷、すごいな」
窓を見て、ランゼルがぼやく。
つられてその方を見た。窓に叩きつけられた雨が滝のように流れている。暗く曇った空に時折稲妻が走った。
「…今日、一緒に寝る?」
ランゼルは僕の顔を伺って問うた。
一緒に寝る————どうしてそんな提案をして来たのかは明らかだ。
雷が苦手なことを、ランゼルは知っている。幼い頃、鳴り響く轟音が怖くて動けなくなってしまった僕の背中を撫で、手を取って一緒に歩いてくれた。
もう平気だと返せば、それで済む話だ。でも、その提案が魅力的に思えてしまって。
「うん」
本当は、雷を克服したわけじゃない。恐怖心の殺し方を覚えただけ。恐怖の中でも頭と身体を無理矢理に動かす方法を学んだだけ。
頷いた僕に、ランゼルは小さく笑った。その笑顔を見て、ようやくほっと肩の力が抜ける。
一度自分の部屋に帰り、服を着替えてからランゼルの部屋に行く。
「それにしても…あいつ、何やってたんだろう」
並んでベッドに寝転ぶ。ブランケットを被りながら、彼の言葉を伝えた。
「呪いだって、言ってた」
「え…」
ランゼルは顔を顰める。そしてそれが何なのかをぽつぽつと語ってくれた。
呪いは、恨みや妬みのような負の感情で生み出す魔法。少ない魔力で強力な効果を得ることが出来るらしい。
「まーだから…ネモの様子が変だったってのは、リーフィラのあれのせいってことか」
ネモのリーフィラ殿下に向ける嫌悪が日によって違った理由を呪いだと仮定すると、つまり、その呪いの効果は。
「リーフィラ殿下は、自分を嫌う呪いをネモにかけてるってこと…?」
「そうなるかな…? なんでそんなことしてんのかは分かんないけど、辻褄は合う」
呪いが弱くなると嫌悪が薄れる。しかし再びリーフィラ殿下によって呪いを掛け直され、翌日には強い嫌悪感を抱くネモに戻っていた————確かに、そう考えることは出来る。
「ほんと、訳分かんない双子だな…」
ランゼルは深く溜め息を吐き出した。
「…」
あれは本当に呪いなのだろうか。
だって、リーフィラ殿下の目には、恨みなんて込もっていなかった。それどころか、愛おしさすら感じるほど優しい目をしていた。
その効果自体は、確かに呪いと呼ぶに値するものかもしれない。でもその正体は、呪いなんかじゃなくて、祝福なんじゃないかと思ってしまって。
いずれにせよ、どうしてリーフィラ殿下がそんなことをしているのかは分からない。でも、リーフィラ殿下を優しく見つめて微笑んでいたネモこそ、本来のネモだというならば、二人の間には、確かに愛情があるということだ。
よかった。やっぱり、ネモは殿下を嫌ってなんかいなかったんだ。ほっと安堵の息を吐いて————そこで、唐突に理解した。
「…そっか」
「ん?」
「どうして二人のことがこんなに気になるんだろうって少し不思議だったんだけど…ようやく、それが分かって」
ランゼルは寝返りを打ってこっちを向いた。
「どうしてだったの?」
僕もその方を向く。
「二人の気持ちが噛み合っていないのは…なんというか、寂しいなって、思ってたんだ」
リーフィラ殿下を見て笑った顔を見た時、ネモの本当の心は双子の弟のことを大切に思っていると、分かってしまったから。
「結局、リーフィラ殿下の呪いがあるから、今は仲良くは出来ないんだろうけど…でも、二人の間にはちゃんとお互いに対する愛情があるって、今日分かったから」
もう、十分だ。これ以上は、僕の気にすることじゃない。
ランゼルは少し驚いた顔をした後、そっか、と小さく笑った。
話は終わったけれど、本当は、もう少し続きがある。
二人に思いを通わせてほしいと願ってしまった理由————それはきっと、無意識のうちに自分のことと重ねていたからだ。ランゼルと上手く思いを通わせられない自分と。
僕らも互いを大切に思っているはずなのに、から回ってばかりだから。本当は、それがずっとやるせなかったし寂しかった。叶うことなら、僕らなりの答えを出して、何も気に病むことなく一緒に居たかった。
「…」
雷鳴が轟く。心臓がきゅっと縮こまる。怖いと本能が泣いている。
ランゼルの方に身を寄せた。その体温が感じられるくらいまで側に寄ると、腕を回して抱き寄せてくれる。とんとんと背中を撫でる手の優しさが、薄い服越しに触れ合う肌の温度が、その身体から香る柔らかな花の匂いが、強張った心を解いてくれる。
「おやすみ、ユリア」
耳をくすぐる声に目を閉じた。すごく安心する。優しい睡魔に身を委ねると、すぐに意識は溶けていった。
* * *
「…おしまい」
誰にともなく呟いて、リーフィラはネモの頭から手を離した。
膝の上で眠るその安らかな顔を見て小さく微笑みを溢し、ネモの肩を抱いて膝から下ろしベッドに横たえる。
リーフィラは立ち上がると、ドレッサーの一番上の引き出しを開けた。そして、一枚の写真を取り出し、それをじっと眺める。
「…」
晴れた空の下、幼い双子が肩を組んで笑っていた。
幸せな瞬間を切り取ったその写真を、指先でそっとなぞる。ふっと頬を緩めた、その時だった。
「なにそれ」
「っ!!」
鏡越しに見えたネモの姿に、リーフィラはびくりと肩を震わせた。ネモは構わずその手にあった写真を雑に奪い取る。
「あっ…」
手を伸ばすも虚しく、ネモはその写真を見て————そして、不快そうに顔を歪めた。
「きもちわる」
一言吐き捨てるように言うと、何の躊躇もなくその写真を破き、地面に放った。
「ッ————」
声の一つも出せず、リーフィラはその場に立ち尽くす。ネモはその横をすり抜け、隣の部屋へと消えた。
「…っ…」
背後で乱暴にドアが閉まったと同時に、リーフィラは崩れ落ちるようにその場に膝をついた。そして、破られた写真へ、震える手を伸ばす。
カーペットの上に座り込んだまま、それを胸に抱いた。すすり泣く声は、雷雨に掻き消されて誰にも届かない。
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