第4話 告白
天井の高いホールに、王の声が響く。
壇上には、白い礼服を着た四人の王子達が王の方を向いて並んでいる。その背中を、僕ら花騎士は壁際に立って見守っていた。
陛下は、普段人前に姿をお見せにならない。僕も、直接そのお姿を見たのは初めてだった。
今代の王がそうということではなく、王になると外界との関わりを断つというのが古くからのしきたりらしい。ご家族ともほとんど顔を合わせず、花騎士だけが伝令役として王の側についているという。
とても孤独な役だ。そんな不遜なこと、思ってはいけないのだろうけれど。
王からのお言葉が終わると、四人は民衆の方を向いた。
「…」
こうして見ると、ランゼルも王子なのだなと思わされる。正装で壇上に立つ姿は他の三人に見劣りしないオーラがあって、落ち着いていて、普段の様子からはかけ離れていた。
王の側に控えていた者————おそらく花騎士が前に出て、その名前を一人ずつ呼び上げる。
「第一王室、第一王子ロゼヴィア殿下」
美しく、一礼をする。
出迎えて下さった、王の一人息子であるロゼヴィア殿下。鮮やかな赤髪と、金色に輝く瞳が印象的だ。カゼル様と同い年だと言っていたので、歳は六つ上。僕よりも小柄で、口調も表情も柔らかなのに、相対した瞬間に高貴な方なのだと分かるオーラがあった。
「第二王室、第一王子カゼル殿下」
カゼル様が優雅に礼をする。編まれたエメラルド色の髪が、動きに合わせて肩から滑り落ちた。容姿端麗な方だとは思っていたけれど、正装なのも相まって今日はさらに美しかった。
集まった民を見渡し、カゼル様は小さく微笑む。
そして、次は。
「第二王室、第二王子ランゼル殿下」
前のお二方と同じように一礼をするランゼル。その所作も、容姿も、とても綺麗だった。その表情は凛としている。笑みのない顔を見ることがあまりなかったからだろうか、何だか知らない人のようにすら見えた。
そして、最後のお一人が呼ばれた。
「第四王室、第二王子リーフィラ殿下!」
唯一、面識が無い。けれど、肩ほどある薄青の髪をハーフアップにしたその方は、よく知った顔をしていた。
「…」
思わず、ちらりと横を見る。
短い髪と醸し出す雰囲気は異なるが、その顔立ちは、やはり壇上にいらっしゃるリーフィラ殿下とよく似ていた。
「…なーに」
横目で見返されて、小さく首を振る。
リーフィラ殿下の双子の兄であり、その花騎士であるネモ。詳細は知らないけれど、この双子の関係が複雑なものであることだけはぼんやりと知っている。
「以上、四名が王位継承権を持つ者である。我が国に平和と安寧をもたらす新たなる王が生まれることを願って————」
このうちの一人が、次期王となる。
ランゼルがどういうつもりでこの舞台に上がったのかを、僕は知らない。
王座を望むようなタイプではない気がするけれど、どうなのだろう。どういうつもりであれ、僕のすべきことは変わらないけれど————ただ、何も言ってくれないんだとは、少し、思った。
式典が終わると、僕ら四人は控え室に通された。
「みんな、お疲れ様」
フレジア先輩の声掛けに、それぞれが返事を返す。少しだけ懐かしい景色だ。
「今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げたのは、ロゼヴィア殿下の花騎士であるガーバラ先輩だった。低い位置で束ねられたチョコレート色の髪に、落ち着いたイエローの瞳。見る度に思うけれど、本当に背が高い。
一つ上なので、この中では一番歳が近く、一緒に課題に取り組んだり、授業を受けたりと、学校での接触は一番多かった。冷たいというわけではないけれど、表情筋が全くと言っていいほどに動かないので、少しコミュニケーションに戸惑うことがある。でも、とても良い人だ。
「よろしくー。みんな変わんなくて安心したわ」
ネモはひらひらと手をする。こちらはこちらで、逆に少し困るくらいフレンドリーな人だ。スキンシップも多く、お喋りで自由人だけれど、面倒見が良く、コミュニケーション能力が高い。
なんだかんだ唯一砕けた口調で話せる相手ではあるし、良い人だとは思っているけれど————双子の弟であるリーフィラ殿下のことを少し異様なほどに嫌悪していて、そこだけは苦手だった。
「よろしくお願いします」
三人に向けて頭を下げる。顔見知りではあるし、話もそれなりにしては来たけれど、正直、互いのプライベートについては、フレジア先輩ですらも深くは知らない。
でも、ここに自分へ敵意を持った人間はいない。それだけで、とても息がしやすかった。
他愛のない話をしていると、まもなくして、案内役な人に声を掛けられる。
次はパーティーだ。煌びやかなダンスホールで開かれるそこでの僕らの仕事は、主人の護衛と会場の警備だった。当然、食事はしない。
とはいえ、今日の来賓客は招待状を持った王族の身内やそれに近しい者のみなので、側について護衛をするほど警戒の必要はなかった。
そのため、僕らはそれぞれ四つ角立って、ただ主人たちがパーティーに参加する様子を眺めているだけだったのだけれど。
「…」
ランゼルは、常に人に囲まれていた。集まる人々は年齢も性別も様々で、一体どういう関係の人なのかも分からなかったけれど、ランゼルの様子からするに皆知人のようだった。
誰に対しても、にこやかに受け答えをしている。グラスを片手に談笑する姿は優雅で、仕草一つにも気品があって、社交の場に慣れているのは明らかだった。
一緒に居ると忘れがちだけれど、ランゼルもちゃんと一国の王子なのだと思わされる。立場も、生きる世界も、違う人なのだと。
「…」
上品に微笑む姿は、また知らない人のように見えて————。
「!」
ぱちりと、目が合った。
ランゼルは見慣れない笑顔を浮かべたまま、僕の方を手で指し示し、お相手に何かを話している。
花騎士の紹介でもしているのだろうか、と思いながら見守っていると、二人はこちらに向かって歩いて来た。
「ユリア」
名を呼ぶ声すらも、なんだか別人のように思えてしまう。
「…はい」
背筋を伸ばして返事をする。ランゼルはそんな僕を見て、ふっと笑った。一瞬見せたその笑顔はよく知ったもので少しほっとしてしまう。
「こちらは、第二王室に医務室を立ち上げてくださったフォーラード伯爵。幼い頃は直接俺もよく診ていただいていて————」
紹介されたのは、初老の男性だった。
話し終えると、今度は僕の方を示して彼の方に向き直る。
「先ほどご紹介いたしましたが、騎士のユリア・ブランドールです」
頭を下げる。彼は驚いたような顔をして言った。
「これはこれは…ずいぶんと小柄で可愛らしい花騎士さんですな」
自分が騎士らしくないなりであることは分かっている。騎士学校時代は、もっと心無い言葉もたくさん言われてきた。だから、この程度、特に気に留めるほどでもなかったのだけれど。
「ユリアは、とても優秀な騎士ですよ」
にこやかな表情に反して、その声は僅かに冷気を纏っていた。ランゼルは僕の方をちらりと見て「またあとで」と囁き、彼を連れて元のテーブルへと戻って行った。
「…」
別に、僕がどう思われようとどうでもいい。騎士の実力など、実際に戦場に立たねば分からないのだから、外見しか情報が無い状態では、ああ言われてしまうのも一定仕方がないと思っていた。
でも、僕を花騎士として連れていると、ランゼルもああいうことを言われなければならないのだと思うと、少し、嫌だった。
は、と息を吐き出す。僕を花騎士に選んだのはあいつなんだから、別にこっちが思い悩む必要なんてないはずなのにな。
心の中に霞が渦巻く。
感情なんてものを追求したって意味はないって、そう結論を出したはずだろう。心をかき乱すもののことは考えない、思考を邪魔するような感情からは目を背ける————これまでと同じように、そうしていたいのに。
どうしてこんなにも、上手くいかないのだろう。
長時間に渡るパーティが終わって、ようやく解放となった。
ランゼルと共に私室に向かう。
「あー疲れた」
大きく伸びをしながらランゼルがぼやいた。さっきまでのよそいきはどこへやら、すっかり普段通りだ。
「早くこの服脱ぎたい…」
「動きづらいから?」
「んーまぁ窮屈なのもあるけど…あんま似合ってなくて好きじゃない」
そうだろうか。黒髪も紅い瞳も映えていて、綺麗だと思う。あまり明るい色の服を着ているイメージは無いけれど、華やかな服装も似合うのだなと思った。
「ああいうパーティ、よく行くの」
「いや、よくは行かない。たまに面白い話聞ける時もあるけど、ほとんどつまんない社交辞令ばっかだし。出席必須って言われてる時だけかな」
随分と慣れた様子だったから、頻繁に参加しているのかと思ったけれど違ったらしい。
「…さっきは、ごめん」
不意に、ランゼルが沈んだ声で言った。
「何が?」
「伯爵を紹介した時さ…その、なんかちょっとヤな感じだったから」
ランゼルは眉を下げて笑う。
「別に、気にしてない」
首を振る。けれど、ランゼルの表情は晴れなかった。
「悪い人じゃないんだけど、ちょっと考え方が古典的っていうか————」
「本当に、気にしてないから。主人より小柄な人間が花騎士だなんて、驚いて当然だと思う」
ランゼルは、何か言いたげな顔をしながらも口を閉ざした。
ああ、これが嫌だったのかもしれないな。僕のことを思ってランゼルが心を痛めることが、嫌だったのかも。
何か言葉を足そうとした時だった。
「ユーリア!」
大きな声で名前を呼ばれて振り返る。
「ネモ…?」
どうしたのだろう。お疲れ、とひらひら手を振るネモに、とりあえず、お疲れ様、と返す。
何の用か尋ねようとしたのだけれど、そんな間もなく、急に肩を組まれた。
「ちょっ…なに」
ガーバラ先輩ほどではないけれど、ネモもかなり身長が高い。その顔を見上げようとすると、頭をぽんぽんと叩かれた。
「いやー相変わらず可愛くて安心したわ! 身長全然伸びなかったね〜」
「え…わざわざそんなこと言いに来たの」
呆れながら返すと、ネモはにこりと笑った。
「んーユリアのご主人に挨拶しとこうと思って」
ここでようやくランゼルを見た。
「…ランゼル?」
ランゼルは、何とも言えない表情で固まっていた。急な乱入者に驚いたのだろうか。
そういえば、ネモは王族だし、ここは面識があったりするのか————と思ったところで、その答えはネモの口から明かされた。
「ちっちゃい頃に何度か会ってると思うんだけど、正直全然覚えてないからさ。あらためまして、これからよろしく」
ランゼルはぎこちなく返事をする。
「よろしく…」
なんだか珍しい。顔を引き攣らせているランゼルに、思わず首を傾げてしまった。
本当に用事はそれだけだったらしく、ネモは「またね」と言って去って行った。本当に自由な人だ。
「ユリア、あいつと仲良いの…?」
その背中を見送ってから、ランゼルは訝しむように言った。
「別に…なんで?」
「あの双子って俺らより三つ上だよね? ユリアが歳上にタメ口なの珍しくない…?」
ああ、と頷いて説明をする。
「敬語やめろってうるさかったから、そうしてるだけ」
そっか、とランゼルは呟いた。聞いてきたくせに、どこか上の空だ。
部屋に辿り着く。主人と花騎士の部屋は隣同士で、さらにドアを隔てて繋がっていた。主人の部屋からは鍵が掛かるようになっているらしい。
「じゃあ、おやすみ」
部屋の前で挨拶を交わす。
「…おやすみ」
ふと、騎士になった初日のことを思い出した。
何となく、今日も眠れないんだろうなと思いながら、部屋に入る。
少し荷解きをして、シャワーを浴びて、ベッドに潜る。明日は朝から悪魔狩りに出なければならないらしい。初めての公務だし、できればその前に軽く身体を動かしておきたいからもう眠りたいのだけれど————やはり、睡魔は降りてこなかった。
仕方ない、荷解きでも進めようかと、ベッドから起き上がった時だった。
コンコン、とランゼルの部屋と繋がっているドアがノックされる。
ドアを開けると、そこにはネグリジェを着たランゼルが困った顔で立っていた。
「ごめん、寝てた?」
首を振ると、よかった、とランゼルは微笑む。
「寝れなくてさ、よければちょっと話さない?」
「…うん」
気を遣われているのだろうか。まぁ、いいや、何でも。
部屋に招かれる。僕に与えられた部屋もかなり広いが、その比ではなかった。稽古でもできそうなくらいスペースがある。家具も装飾品もあまりに高価そうで、とてもそんなことをする気にはならないけれど。
ランゼルは当然のようにベッドに向かった。一緒に寝ても構わないということなのだろうと思い、僕も反対側からベッドに入った。
「ユリア、その格好で寝るの?」
シャツにスラックスではあるけれど、すぐに動けるように着ている服なので窮屈ではない。
「有事の時のために…あ、剣取ってくる」
武器は常に手の届くところに置いておかなければならない。ベッドから降りようとすると、ランゼルに止められた。
「いいよ。作ってあげる」
ふわりと風が舞う。
光が集まって、剣の形になり————そして、それが生み出された。
はい、と渡される。あまりに簡単にやってのけたけれど、物体生成はかなり高度な魔法だと言われていた。
「魔法使うのって疲れないの」
ランゼルの特異体質について、幼い頃から話は聞いていた。魔力が人よりも多くあるため、魔法の使用を制限されていないのだと。しかし、魔法を好きなだけ使えることと、疲労は関係ないのではないかと思っての質問だった。
「俺は疲れないかな。魔力管理しなくていいから、色々適当でも平気だし」
器も大きくないしね、とランゼルは肩をすくめた。
「器って、一度の魔法に使う魔力の量のこと?」
「そうそう。それが小さいから、俺は大きい魔法が使えないの」
はぁ、とランゼルは深く溜め息を吐く。
ランゼルの魔法しかまともに見たことはないのでどれほど差があるのかは知らないけれど、どうやらランゼルは他の王族に比べると使える魔法の規模が小さいらしい。それをずっと気にしているのは知っていた。
「明日、初めての公務だね」
「…うん」
「俺たちは一緒に戦うの初めてだからさ。色々、相談させて」
王族の公務は、訪問や書類系の仕事などもあるが、ほとんどは悪魔狩りだ。
騎士学校の訓練で何度か実際の悪魔と戦ったこともあるけれど、魔法の力無く倒すのはとても難しかった。魔法で作られた魔剣は、刻印が刻まれた花騎士にしか扱えないので、魔鉱石という素材で作られた擬似的な魔剣での戦闘だったというのはあるだろうけれど、剣だけで倒すのはほとんど不可能な手応えだった。
未だ一度も公務として悪魔狩りをしたことがないのは、おそらく僕らだけだ。そういう意味では、すでに遅れを取っている状況でもある。
「…ユリア」
そっと名前を呼ばれる。
ランゼルは部屋の灯を消した。月明かりに照らされたランゼルは、紅い瞳を細めた。
「がんばろ、一緒に」
「…うん」
やれることは全てやった。あとは持てる全てで挑むしかない。
目を閉じる。不安はなくならないけれど、側に感じる気配を意識すると、少しだけ心が落ち着いた。
* * *
翌朝は、ランゼルより早く起きて、支度をするために自室へ戻った。
軽く体を動かして、戦いに備える。こんなに緊張するのはいつぶりだろう。夜は眠れたけれど、朝から心はずっと不安に晒されていた。
時間が来て、ランゼルが部屋を訪ねてくる。
「ユリア、ちょっといい?」
頷くと、そばまで来て、唐突に僕の手を取った。
両手を優しく包み込まれる。くすぐったくて、落ち着かなくて、逃げたい気持ちになる。
「…」
何をしているのだろうと思いながら見守っていると、ランゼルはゆっくりと目を閉じた。
ふわりと温かな風が頬を撫でる。慣れ親しんだ花の匂いが香る。
胸が温かくなって、思わず吐息が溢れた。
ランゼルが囁く。
「祝福って言うんだ」
「…魔法とは違うの」
うん、と頷いて、繋いでいた手が解かれた。
「おまじないのようなものかな。魔法のように、具体的な効果があるものじゃないんだ」
祝福に必要なのは、ほんの少しの魔力と相手を思う気持ち。しかしその効果は、思いの強さ次第でいくらでも大きくなると言う。
「いつか、ユリアを助けてくれるかもしれないから」
ランゼルはにこりと笑った。
礼を言うべきか迷っていると、行こう、と歩き出してしまった。結局何も言えないまま、僕らは集合場所へと向かった。
* * *
「今日は、競争をしようか」
訪れたのは、王宮から数キロの距離にある暗い森だった。
ロゼヴィア殿下は、皆を見渡しながらにこやかに話し始める。
「森の奥に咲く青星の花を採って、ここへ戻ってくること。早さで競おう。…ちょっとランゼルたちには不利だけれど、頑張ってね」
頭を下げる僕の横で、ランゼルは「頑張ります」と笑いながら答えた。
「この森は悪魔の森なんて呼ばれているけれど、それほど強い悪魔は現れないはず。もし危ないと思ったら渡した鈴を鳴らして」
鳴らすために振らなければ鳴らないという、魔法で作られた鈴。どれほどの距離があっても、魔力を持った者には音が届くらしい。
いくつか注意事項が続いて、それからそれぞれスタート地点を指定される。皆ルートが異なるらしく、僕らには一番距離の短いルートが割り当てられた。
無理はしないようにと念を押され、初めての公務が始まった。
「よし! 頑張ろ、ユリア!」
ランゼルは妙に元気だ。昔からそうだった。進級とか、新学期とか、何かの始まりの日は異様に張り切っていて、いつも以上にうっとおしかったのをよく覚えている。
「…慎重にね」
分かってる、と返す声はやはり弾んでいて、本当に分かっているのかと言いたくなった。
ランゼルと共に森の中を進む。木々が生い茂っていて薄暗かった。
先陣を切ろうと歩く速度を上げると、当然のようにランゼルも速度を上げて並んできたので、溜め息を吐いてしまった。
「隣歩かないで。意味ないだろそれじゃ」
「え、でも…」
何のための騎士なんだと言おうとした時————風が、不穏にざわめいた。
「っ」
その方を振り返る。数メートル先の地面に黒い魔法陣。すぐに剣を抜いた。
魔法陣から、どろりとした黒い影が浮かび上がる。
悪魔は、こうして突如現れる。この森のように、頻繁に現れる場所というのも存在するが、基本的に出現場所も時間も規則性はなく、その形状も様々だった。人のような形をしていることもあれば、獣のような見た目の時もあるし、植物の形を取ることもあるらしい。人を襲うが、それは捕食行動でははないため、なぜ攻撃してくるのかすら分かっていない。あまりに不明な点の多い、気味の悪い存在だった。
影が、獣の形になっていく。完全に実体化する、その瞬間を待って。
「————ッ」
四つ足のそれに、斬りかかった。
魔剣の力は確かで、以前戦った時よりは手応えがあった。しかし、やはりこちらが想定している威力と、実際に敵の受けているダメージはイコールではないように思える。その証拠に、何度急所を貫いても敵は全く怯まない。
これは大した悪魔ではないから、こうやって斬り込んでいればいずれは倒せるのだろう。しかし、こちらは人間なので、この程度の悪魔に時間をかけていたら体力なんてすぐになくなってしまう。
やはり、あくまで護衛以上のことは出来ないのだろう。ランゼルに攻撃が向かないようにして、時間を稼ぐ————それが、正しい戦法だ。
攻撃速度は速くないし、反応も鈍い。力はそれなりに強そうなので、まともに攻撃を食らわないことだけ気を付ければ、さほど大変な相手でもなかったのだけれど。
その気配を背後に感じたのと、名前を呼ばれたのは同時だった。
「ユリア!!」
振り返る。
二体目が発生していた。
挟まれるのはまずい。しかし、運悪く一体目の爪が振り下ろされようとしているところだった。
「ッ!」
攻撃をかわして地面を転がる。休む間もなく、二体目が低く構えの姿勢を取る。
一体目に比べると少し体格が小さく、その分スピードが速かった。突進してくるのを跳んで避け、剣を構える。
「は、っ…」
二体になると、急に厄介だ。実戦を積めば、もっと難なく対応出来るようになるのだろうか。
時間にしたら、戦闘開始からせいぜい二、三分しか経っていない。まだ体力には余裕があるし、この二体相手ならば大きな怪我をすることもないとは思うけれど、それでも考えることが多く、緊張感もあるからかかなり精神的に疲れる。
二体目の方に、ランゼルの魔法が放たれた。その一撃で、黒ずんだ体は塵になって蒸発する。
あまりに、呆気なかった。
「…」
やはり、悪魔は魔法で狩るのが正攻法。僕のやるべきことは防御に徹すること。そう、分かってはいるけれど————それならば、この戦い方は、どうなのだろう。
僕の戦闘スタイルは、攻撃を受け止めることにあまり向いていない。力負けすることが分かっているから、守りの基本は回避だ。だから、攻撃に力を入れてきた。けれど、この状況では攻撃をするのは難しいし、そもそもこの魔剣で攻撃をしたところで大したダメージは与えられない。
「…」
もし今後もこの戦法でいくのなら、僕が作り上げてきた戦い方は、主人を守る騎士としては相応しくないのかもしれないと、気付いてしまった。僕の、これまでの努力は、もしかしたら————。
「っ、ユリア!」
呼び声にはっとする。思考に意識を奪われすぎた。
目前に迫る鋭い爪。回避が間に合わない。直撃したら無事では済まないから、剣を構えるしかなかった。一撃ならば耐えられるだろうか。地面を強く踏み締めて、振り下ろされる爪から目を逸らさず衝撃に備えて————。
「…っ!」
白く光る魔法陣が、足元に花開いた。
魔法がかかる。
剣に爪が当たった瞬間、バチンと破裂音がして、攻撃が弾き飛ばされた。
「え…」
間髪入れず、ランゼルの魔法が一体目を捕える。悪魔は、跡形もなく霧散した。
「ユリア! 大丈夫?」
ランゼルが駆けてくる。
「なに、今の」
「え?」
「今、僕にかけた魔法」
ああ、とランゼルは何の話か理解してくれたものの、その答えはとても曖昧なものだった。
「何と言われると…とりあえずユリアを守ろうと思って適当に魔法を…」
適当で、あんなことが出来るのか。
魔法というものの力を目の当たりにした気分だった。力として、あまりに圧倒的すぎる。
「それより、怪我はない?」
大丈夫、と返すと、ランゼルは僕の身体を確認するように眺めてから、よかった、と笑った。
「…」
剣の柄を強く握る。
今の戦闘は、あまりに反省すべき点が多かった。
いや、ただ反省するだけではどうにもならないことも色々とあった。ドクンドクンと、心臓が嫌な音を立てる。
「ユリア」
そんな僕に、ランゼルはいつも通りの調子で声を掛けてきた。
「ちょっと剣かして? やってみたいことがあって」
言われた通りに剣を渡すと、ランゼルはそれを持って、目を閉じた。
足元に魔法陣が浮かび上がる。魔法の強さによってその半径や明るさが変わるのかもしれない。魔法陣はさっきよりも大きく、まばゆく光っていた。
綺麗な花の模様だ。別に自分が魔法をかけられているわけではないのに、ここにいると不思議な安堵を覚える。
「…こんなもんかな」
数秒して、すうっと光が引いていった。
ランゼルから剣を手渡される。その刃は、さっきとは全く異なる見た目をしていた。
「色が変わってる…」
プリズムのように虹色の光を放つ剣。重さや手触りは変わらないけれど、異様なオーラというか、力のようなものを感じる。
「魔力をとりあえずいっぱい詰め込んでみただけなんだけど、どうかな」
「どう、って」
「これで、ユリアの攻撃ももうちょいちゃんとあいつらに当たんないかなって」
「え…」
もしそうなれば、このままの戦闘スタイルでも戦えるかもしれない。そんな希望が芽生えた時だった。
ランゼルは、いつものように明るく笑って。
「ユリアの剣の腕はすごいからさ。それを活かした方が、俺たちは強くなれると思うんだ」
「…っ」
胸の真ん中を、貫かれたような心地がした。
死に物狂いで力を手にした。身も心も、全てをそれに費やして、ようやっと人に誇れるだけの実力を手に入れた。
でも、これは実戦では全く役に立たない力だったのかもしれないと思ってしまった。結局は生まれ持った体格が全てで、必死に技を磨いた時間も努力も、全部無駄だったのかもしれないと、そんなことを考えて、絶望した。
「ユリア?」
「…」
でもランゼルは、そんな自分の力を活かそうと思ってくれた。ここまでの努力を拾い上げてくれた。
僕のこんな思考まで読み取って提案してくれたわけではないだろう。それでも————とても、嬉しくて。
「…ありがとう」
「えっ」
ああ、こんな感情を誰かに対して抱くのはいつぶりだろう。
胸が温かくなって、自然と頬が緩む。
過去の記憶が蘇る。そうだ。僕は昔、ランゼルのこういうところが、とても好きだったんだ。誰かのために、自然と尽くせるところが。
思い出したところで、あの頃のように純粋な好意を持つことは出来ないけれど。ただ、事実として、確かにそうだった。
「い、いや、まだ効果あるか分かんないけどね!」
ランゼルは上擦った声で言った。
もしこの対応に意味が無かったとしても構わない。その気持ちが嬉しかったということに、変わりはないから。
進もう、と声を掛けて足を踏み出す。これでダメだったら、また努力すればいい。自分を認めて、求めてくれる人のためならば、何だって出来る。これは決して忠誠などではなく、ただの自愛だけれど。
五分ほど歩くと、再び悪魔が現れた。
また、獣型の悪魔だ。大きさもさっきとあまり変わらない。
剣を抜く。この暗がりでも、刀身は美しく光を放っていた。
息を吐いて、地面を強く蹴る。攻撃を避け、その勢いを使って、急所に向けて剣を振り下ろして————。
「っ!?」
手応えが、まるで違った。
黒い塵が舞う。そして、形は、空気に溶けて。
「え…?」
思わず呆然としてしまう。
悪魔は、そのまま跡形もなく消えた。
「一撃…?!」
ランゼルの大声で、今し方起きたことを理解する。
さっきはあんなに攻撃しても怯むことすらなかったのに、たった一振りで屠ることが出来てしまった。
「すごい! すごいじゃん!!」
ランゼルは駆け寄ってくると、嬉しそうに声を上げる。
「いや、これはランゼルの魔法のおかげで…」
「いやいや、俺の魔法はユリアの攻撃がちゃんと当たるようにしただけだから」
こういう時————僕に、何か良いことがあった時、ランゼルは本当に嬉しそうな顔で笑うんだ。
「…」
胸が、苦しくなる。
この笑顔を素直に受け止められたら、きっともっと楽に生きられるんだろうな。
分かっているのに、そうはなれない。心の奥に刻まれた深い傷が、何度でも僕に烈火を思い出させる。結局、僕は自分で自分の首を絞めているんだ。
一つ息を吐いて、思考を中断した。
「…ねぇ、さっき僕を守ってくれた魔法…あれって何度も使える?」
目を伏せて尋ねた。ランゼルは迷うことなく頷く。
「うん。使えるよ」
やはりそうか。ならば、僕らが取るべき手は、これなのかもしれない。
「なら、ランゼルの魔法で僕を守って」
「え?」
顔を上げる。紅い瞳を見つめて、意思を伝えた。
「僕が、戦うから」
ようやく何を言っているのか理解したらしく、ランゼルは小さく息を呑んだ。それから、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「つまり…俺がユリアを魔法で守って、ユリアが直接悪魔と戦うってこと…?」
「そう」
ランゼルは迷いを見せた。
腕を組んで、うーん、と唸り声を上げる。答えを催促せずじっと静観していると、やがてランゼルは一つ息を吐き出した。
「…分かった。一旦、そうしてみよう」
「!」
心配性が発動して断られるかもしれないと思っていたので、すんなり了承されたのは意外だった。
よかった、とひとまず安堵している僕の手を、不意にランゼルが拾い上げる。
なに、と問う前に、その瞳と、再び目が合って。
「俺がユリアを守るよ」
いつだって、ランゼルは一つの曇りもない目で僕を見る。
そして。
その視線から、いつも僕は逃げる。
「…よろしく」
目を背けても、ランゼルは何も言わない。
だから、僕は逃げ続ける。見ないふり、知らないふりをして、勝手に一人で息苦しくなって。
こんなこと、馬鹿げている。いい加減、諦めるしかないのかもしれない。騎士学校で一人きりだったあの頃のように、全ての感情をシャットアウトすることなんてもう出来ない。ランゼルと一緒に居る限りは。
「よし! だいぶ遅れを取ってるだろうし急ご!」
「…うん」
今は公務中だ。考えるのは今じゃないと、無理やり思考を中断させて目の前に集中する。
それからの道のりは、あまりにもスムーズだった。
これまで正面から受け止めないようにと回避していた攻撃に対して、臆することなく立ち向かえる。防御に思考も体力も持っていかれない分、普段より攻撃の精度も上がっているように思えた。
森では下級の悪魔にしか出会わなかったため、急所を貫けばほとんど一撃で倒すことが出来た。足を止める必要もほぼなく、あっという間に目的の草原へ辿り着き、花を見つけ、折り返して帰路についた。
全てが上手くいっていて、とても、順調だったのに————帰り道で、急にランゼルが奇声を上げた。
「あ〜!!」
「何、うるさい」
明らかに緊張感のない大声に呆れて返せば、ランゼルは声を張り上げて騒ぎ始めた。
「効率がいいのは分かるけど! これ俺の心臓に悪すぎる!!」
「何が?」
問いかけると、ランゼルはぼそぼそと呟いた。
「ミスったら死ぬデスゲームしてるみたいできつい…」
「一回ミスったくらいじゃランゼルは死なないだろ」
相対している僕よりも後ろにいるんだから。そう思って言ったのに、大袈裟にため息を吐かれた。それから窺うように僕の顔を覗き込んで問う。
「あんな真っ向から攻撃に向かってくの、怖くないの?」
怖いなんて感情は、一つもなかった。
「だって、守ってくれるんだろ」
お前がそう言ったんじゃないか。
そう返すと、ランゼルはなぜか目を見開いて固まった。それから、わざとらしく溜め息を吐く。
「はー…ずるいじゃん、それは…」
「何が?」
よく分からないけれど、戦いは問題ないし、ちゃんと話す気もなさそうなので、無視して歩みを再開した。待って、と慌てたように言って追いかけてくるランゼルは、なんだか懐かしい声をしていた。
競争の結果は、なんと僕らが一番だった。
距離が短かったのもあるだろうけれど、下級の悪魔しか出てこないこの森にあまりに合った戦法だったというのが大きい。
僕の剣を見たカゼル様は、とんでもないものを作ったね、と眉を下げて笑っていた。ユリアにしか使えないものでよかった、とも。ランゼルの刻印を持つ騎士は僕しかいないから、この魔剣を扱えるのも確かに僕だけではあるけれど、その言葉の真意は分からなかった。
そして翌日、今度は本当に公務として、またも全員で悪魔狩りに出た。
「現状それほど強い悪魔はいないみたいだけれど、研究院の予測によると、この後中級の悪魔が出現する見込みらしいんだ」
研究院とは、魔法や悪魔についての研究を行っている組織だ。悪魔の出現を全て予測することは出来ないものの、力のある悪魔が出現する時は事前にある程度把握することが出来るらしい。
「僕らに与えられた命は、その悪魔を狩ること…出現までは、周囲の悪魔を狩る」
ロゼヴィア殿下の言葉に、各々返事を返す。
現地に着くと、そこは草木の生えていない薄暗い荒野だった。出現場所に規則は無いとされているものの、悪魔はこういった人気の無い朽ちた場所に現れることが多い。それでも、放置しておくと人里に現れて人を襲うから、発見し次第倒す必要があった。
「北から時計回りに、僕ら、ランゼルたち、カゼルたち、リーフィラたちで別れて戦おう」
すでに二十体ほど出現している。乱戦にならないよう、それぞれ指定された場所で数体を誘き寄せて戦った。
下級の悪魔しか居なかったため、魔剣を使えばさほど苦労することなく倒すことが出来た。
「…ふぅ」
剣を鞘に仕舞い、乱れた髪を耳にかけて辺りを見渡す。他の面々も狩りを終えるところだった。
横目で皆がどんな戦い方をしているのか少し見ていたのだけれど、その戦闘スタイルはそれぞれ全く異なっていた。
防御と攻撃をバランスよく行って敵の注意を引くフレジア先輩、長槍で全ての攻撃を弾いて主人を守るガーバラ先輩、そして大剣を振り回しつつ自身も自由に魔法を使いながら敵を倒し、もはやリーフィラ殿下と連携など全く取っていなさそうに見えるネモ。
やり方は様々だなと思うものの、やはりフレジア先輩の戦い方は安定していて隙が無かった。複数の敵を相手にしていても、危なげは一切なく、常に余裕がある。
昨日の戦いを踏まえて相談したところ、複数を相手にすることや、騎士学校ではあまり訓練出来なかった獣型の相手などは、実戦で経験を積んでいくしかないと言われた。
————『ユリアの剣の腕はもう十分すぎるくらいに洗練されてるよ。だから自信を持って、場数をこなしていこう』
自分はもう四年も騎士をやっているのだから、出来て当たり前だと笑ってくれた。また、前回は獣型だったから苦戦を強いられただけで、人型であれば、ランゼルの力がなくとも、今のスタイルで問題なく渡り合えただろうとも。フレジア先輩は優しい人だけれど、稽古をつけてもらっていた時はそれなりに厳しいことも言われたので、その言葉は決して慰めだけのものではないと思えた。
ランゼルと編み出したこの戦い方に合わせて、もっと剣技を磨きたい。修練を積んで、早く安定した戦いが出来るようにならなければ————。
「ユリア、下がって!!」
「っ」
地面を蹴って跳ぶ。ランゼルの元に走って戻ると、地鳴りのような音が辺りに響いた。
「…お出ましだな」
ランゼルがぽつりと呟く。皆と合流して、その時を待った。
そしてついに、開けた地面に半径三メートルほどの魔法陣が浮かび上がる。
「!」
現れたのは、二足歩行の異形の怪物だった。
五メートル以上あるが、この大きさなら中級だろう。これより上位の悪魔が存在すると思うと寒気がする。
「…」
こうして実際に目にすると、人間が物理的に戦って勝てるような相手ではないと思い知らされる。魔法なしでは、とても敵わない。
「ここは、僕がやらせてもらおう」
穏やかな声が、沈黙を破った。風が、ロゼヴィア殿下のウェーブがかった赤髪を揺らす。
「四人も魔法の使い手が居るから、あれ一体ならば僕らだけで倒すことも出来るけれど…せっかくだから、花騎士四人に活躍してもらおうかな」
実戦経験は大事だからね、とロゼヴィア殿下は穏やかに言った。
「少しだけ、時間を稼ぎをよろしくね」
ロゼヴィア殿下の言葉に、ガーバラ先輩がすぐさま飛び出す。フレジア先輩は一度カゼル様と目を合わせて頷きを得てから、ネモは特に何も確認せず、悪魔に向かって行った。
剣を抜く。僕も、やれることをやらなければ。
ランゼルの方を振り返ると、気を付けて、とだけ言われた。その言葉に頷いて、僕もその方へ向かう。
互いを斬り合わないように連携を取りつつ、フレジア先輩とガーバラ先輩の守備組、僕とネモの攻撃組で、役割を分けて戦う。指揮を取るのはフレジア先輩だ。四人での演習は、先輩方が騎士学校を卒業してからも定期的に行っていたので動きが身体に染み付いている。
だから、対応自体は落ち着いて出来ていたけれど————敵の攻撃は、想定していたよりもずっと恐ろしかった。
中級以上の悪魔は魔術を使う。物理的な攻撃だって、体躯が大きくなるに従って力も強くなる。直撃したらひとたまりもないだろう。
僕の足元には何度もランゼルの魔法陣が光っていた。攻撃に合わせているのか、毎度異なる魔法をかけられているのを感じる。厳密にどういう効果の魔法を使われているのかはよく分かっていないけれど、それらは全ての攻撃を見事に弾いてくれていた。
————『直撃による衝撃を防いでいるだけで、ダメージを完全に消しているわけじゃないから。怪我には、ちゃんと気を付けて』
昨日、ランゼルに言われたことだった。魔法の効果としては、あくまで自力で受け止めるのは難しかった攻撃が剣で弾けるようになるというもの。無敵とは違うのだということを、口うるさく言われた。
「ッ!」
それにしても、この大きさになると急所に剣を当てるのも難しい。この特別な魔剣をもってしても、まともにダメージを与えられない。せいぜい、腕や足を傷つけて動きを鈍らせる程度のことしか出来なかった。
「下がって!」
フレジア先輩の指示に、皆が一斉に距離を取る。
そして、次の瞬間。
「…!」
地面に広がる、巨大な白い魔法陣。
眩い業火が当たりを明るく照らし、悪魔の身体を包み込む。その炎は、一瞬にして全てを燃やし、敵を灰へと変えた。
「すごい…」
これが、今代最も秀でた魔法の使い手と言われているロゼヴィア殿下の魔法。あまりに美しく、壮絶で、思わず息を呑んでしまう。
「ね、ほんとに」
気が付くと、すぐ近くにランゼルが立っていた。
「しかもこれ、たぶんロゼヴィアさん的には全力じゃないからね」
「えっ…」
「あの人の魔法、ものによっては上級も一撃で倒せるらしいよ」
とんでもない威力だ。あらためて、その能力の高さを実感させられる。ランゼルが大きな魔法を使えないと気にするのも、少し理解出来てしまう気がした。
何はともあれ、これで今回の公務は終わりだ。皆の方へ行こうと足を踏み出したのだけれど、ランゼルに呼び止められた。
「ねぇ、ユリア、その手…」
見れば、左手の甲が切れて、血が滲んでいる。どこかで攻撃に当たったのかもしれない。
「それ…痛くないの?」
その質問に、どきりとした。
僕らは、痛覚を鈍らせる麻酔剤のようなものを投薬されている。命に別状がない傷にいちいち痛みを感じていたら、戦いに支障が出るからだ。
あれも、思い返すとかなりひどいカリキュラムだった。定期的に投薬をし、どの程度から痛みを感じるのか、それを確認するために何度も怪我をさせられて————。
「…うん。痛くないから、平気」
追及されるだろうか。ランゼルには、この話はしたくない。このまま話を終えたくて、皆の方へ向かおうとしたのだけれど————パシリと、手首を掴まれた。
「…」
仕方なく、また向き直る。ランゼルは何も言わず、掴んだ僕の手を見下ろすように俯いていた。
魔法陣が光る。
花の香りが僕を包んで、消えた。
「治癒の魔法は…怪我を治せるわけじゃないんだ」
静かな声でランゼルは語る。
「あくまで、治癒力を高めるだけ。どんなに偉大な魔法の使い手でも、それ以上のことは出来ないんだって。命の理に触れてしまうから。…だからさ」
ランゼルは顔を上げる。その表情は、苦しげに歪んでいた。
「痛みがなくても…怪我には、気を付けてほしい」
「…!」
明らかに、前と反応が違う。
もしかしたら、ランゼルは知ってしまったのかもしれない。僕らが花騎士クラスでどんなカリキュラムを受けて来たのかを。
「…分かった。気を付ける」
うん、とランゼルは消え入りそうな声で頷いた。
公務を終えて王宮に帰還し、今日のところは解散となった。
「…ブランドール」
ランゼルとともに部屋に帰ろうとしたところで声を掛けられて振り返る。
「なんでしょう」
そこに立っていたガーバラ先輩は、ランゼルに一礼してから僕に向かって話しかけた。
「ロゼヴィア様が、話をされたいと」
え、と思わず声を上げてしまった。
「僕と、ですか…?」
魔剣についてだろうか。でも、それならば僕ではなくランゼルに聞くような気がする。
「ブランドールと、だ。今日の夕食後、ロゼヴィア様のお部屋に来てもらえないだろうか」
「…分かりました。伺います」
何の話をされるのか、正直少し不安ではあるけれど、断るという選択肢はない。僕が頷いたのを見て、その場を去ろうとしたガーバラ先輩を、ランゼルが呼び止めた。
「あ、あの! それって俺も一緒じゃダメですか…?」
「は?」
急に何を言い出すんだ。
ガーバラ先輩は再びこちらを向くと、相変わらず眉ひとつ動かさず、淡々と言った。
「おそらく殿下がご一緒でも問題はないかと存じます」
ロゼヴィア様にお伝えいたします、と言って、丁寧に礼をして今度こそ去っていく。
「…なんでお前も来るの」
「だって気になるじゃん 」
ランゼルは追及を避けるように、早くシャワーを浴びたいと言いながらずんずんと歩いて行ってしまった。
そして、夕食後。二人でロゼヴィア殿下の部屋を訪れた。
「ふふ、急にユリア一人に声を掛けてごめんねランゼル」
開口一番にそう言って微笑む殿下に、ランゼルはなぜか慌てたようにぶんぶんと首を振った。
招かれるまま部屋に入り、すすめられた椅子に座る。
ガーバラ先輩が紅茶を淹れてくれる。ありがとうございます、と言うと、小さく会釈が返された。
「今日呼んだのは、本当にただユリアと話がしたかっただけなんだ。唯一、ここに来てもらってから初めて出会ったから」
ああ、そういうことか。確かに、ネモ含む王族五人とは面識があるだろうし、カゼル様と仲が良いと言っていたから、フレジア先輩とも話したことがあったのだろう。
「ぜひ、固くならず普段の君たちを見せてくれると嬉しいな」
穏やかに微笑まれる。はい、と頷くと、殿下はガーバラ先輩を見上げた。
「ガーバラも一緒にどう?」
しかし、先輩は恭しく頭を下げた。
「いえ、私はここで」
そう、とその返事を受け入れるロゼヴィア殿下は、どこか寂しそうだった。
確か、ガーバラ先輩は代々王家に仕えている伯爵家の長男だったはず。ロゼヴィア殿下の花騎士になるために、幼少期から英才教育を受けていたと聞いたことがあった。
ガーバラ先輩は自分のことをほとんど話さないけれど、ロゼヴィア殿下のことをとても大切に思っていることは、言葉や態度の端々から伝わってくる。自分の意思で花騎士になることを選んだわけではないという意味では、境遇が少し僕に似ていると勝手に思っているのだけれど、僕がランゼルに対して抱いているような負の感情がそこに一つもないのは明らかだった。
「二人は、幼馴染なんだよね。初等学校が同じだったんだっけ」
「はい、たまたま同じクラスで、友達になりました」
「きっかけとかはあったのかな?」
ロゼヴィア殿下は、とても不思議な雰囲気の人だ。
穏やかで、人当たりが柔らかくて、見た目も可愛らしいのに、オーラがあって背筋が伸びる。
「えっと、ランゼルが…変なことをしていて」
「変なこと?」
「クラスメイトを、試すようなことを————」
「あれは試してたんじゃなくて、俺なりに友好を深めようと思ったの! 全然、誰もまともに構ってくれなかったから」
ランゼルの言い分に、ロゼヴィア殿下は口元に手を当てて小さく笑う。
「分かるよ。僕も、友人と呼べるような間柄だったのは結局カゼルしかいなかったから。学校のみんなとは、どうしても距離が詰まらないというか」
ロゼヴィア殿下は、ティーカップに口を付ける。紅茶を飲むその姿すら、とても上品で優雅だった。
「そうなんですよね…でもユリアが、そんな俺を叱ってくれて」
「叱ってない。思ったこと言っただけ」
僕の訂正に、殿下はまたおかしそうに笑う。
「ユリアは、正義感が強いのかな?」
「いえ…そういうわけでは」
自分では、秩序とかを気にするタイプではないと思っている。あの時は、単に不思議だったんだ。
「自分がみんなを振り回しているくせに、ランゼルはいつもつまらなそうで…なんでこんなことしてるんだろうって、本当にただ疑問だったんです」
別に、ランゼルに行動を改めて欲しいという意図があったわけではなかった。みんな困ってるんだし、やめた方がいいんじゃないかとは思っていたけれど。でも、少なくとも僕は困っていなかったし、ランゼルのよく分からない無茶振りに応える気もなかったから、わりとどうでもよくはあった。
「それで、ランゼルはそんなユリアに心惹かれたんだね」
「こ、心惹かれたというか…いや、まぁ…そうですね…」
気まずそうにちらりとこちらを見てくるランゼル。どんな顔をしたらいいのか分からなくて、気付かないふりをした。
「そこから、ずっと仲良しなの?」
殿下の問いかけに、事実を答える。
初めはうっとおしかった。正直、ランゼルとは性格が合わなかったし、一緒にいると面倒ごとに巻き込まれるし、早く飽きてどこかへ行ってくれないかと思っていた。
「めちゃくちゃ正直に話すじゃん…」
「あんなに付き纏われたらそらうざったいだろ。…でも、そうしているうちに、気付けば仲良くなっていて」
本当は、ある事件がきっかけだけれど————今のランゼルにその話をするのは気が進まない。
七歳の頃、ランゼルと間違われて誘拐されそうになったことがあった。十六歳の成人まで王家の子供は姿を公表しないため、勘違いしたのだと思う。
誘拐犯の会話から、自分がランゼルだと思われていることにはすぐ気が付いた。そしてその時に心に浮かんだのは、恐怖でも恨む気持ちでもなくて————ただ、目を付けられたのがランゼルじゃなくて僕で良かった、ということだった。
結局、すぐに大人が来てくれて誘拐は未遂に終わった。一緒に迎えに来てくれたランゼルは、僕を抱きしめてわんわん泣いた。
そしてその翌日、もう一緒にいるのをやめる、とランゼルに言われて。
ショックだった。なんでそんなこと言うんだと泣いてしまったほどに。
そこで初めて、自分もランゼルと一緒に居たいと思っていたのだということを自覚した。
もう二度とあんな危ない目にはあってほしくないのだと語るランゼルも半泣きだった。僕を思ってくれるその気持ち自体は嬉しくはあったけれど、でも、やっぱり自分勝手なその決断は許せなかぅた。しばらく二人でぐだぐたと言い合いをした結局、ちゃんと気を付けるから一緒にいよう、なんて、今思うと随分と可愛らしい約束をして終わった。
ランゼルも、この日のことは記憶にあるだろう。でもきっと、僕の気持ちがこれを境に変わったとは知らない。
「それで、仲良くなって…ユリアは、どうして騎士に?」
「…」
正直に話してくれと言われても、さすがにこの感情までは打ち明けられない。
言葉を選ぶ。
「ランゼルが、僕を騎士に指名してくれました」
「!」
視界の端で、ランゼルがぴくりと反応を示した。
「指名…じゃあ、ユリアは最初から騎士希望だったわけじゃないんだね。それで、騎士学校に?」
「はい。十歳の時に————」
騎士学校での話をする間、ランゼルは一切口を挟まなかった。
何を思っているのだろう。
————『騎士以外にやりたいことがあるならその道に進んで欲しいと思って、ああ言ったんだ』
ランゼルの言葉が蘇る。
こいつは、僕のために僕をこの役目から降そうとしていた。
引け目を感じているのは間違いない。それはそれで、腹が立つけれど。
「おや、もうこんな時間になってしまったね」
不意にロゼヴィア様が声を上げる。時計を見れば、ここに来てからそろそろ一時間が経とうとしていた。
「今日は話を聞かせてくれてありがとう。とても楽しかったよ」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」
ランゼルも礼を言う。その表情は、やはりどこか浮かないままだった。
そして、話している間ずっと微動だせずに立っていたガーバラ先輩に見送られて、僕らはロゼヴィア殿下の部屋を後にした。
* * *
静かに扉が閉まる。
「ユリア、いい子だね」
ロゼヴィアは独り言のようにこぼした。
「はい。とても芯のある、騎士に相応しい志を持っています」
失礼します、と言ってガーバラはテーブルを片付け始める。その姿を見上げながら、ロゼヴィアはそっと問いかけた。
「ガーバラは、ユリアとは仲良し?」
「学年が一つしか変わらないので、花騎士の中では一番接点があったかと」
そっか、と小さく相槌を打つ。
「ただの幼馴染…という感じではなさそうだったけれど、でも、ああやって打ち解けた仲の相手がいるのっていいよね」
ロゼヴィアは穏やかな声で言うと、再び問いを口にする。
「ガーバラにも、そういう人はいる?」
「…」
片付けていた手が止まった。
マスタードイエローの瞳が、ロゼヴィアを見下ろす。そして、淡々とそれを告げた。
「私には、ロゼヴィア様が全てです」
その返事に、膝に置かれていたロゼヴィアの手が、ぎゅっと拳を握る。
「…いつもありがとう、ガーバラ」
ロゼヴィアの微笑みに、ガーバラはただ恭しく礼を返した。
* * *
二人で並んで廊下を歩く。ずっと沈黙が続いていた。
「…ねぇ」
足を止めた。ランゼルは数歩先に進んで、それから僕を振り返る。
その沈んだ表情が気に入らなくて、心に秘めていた問いを、口にしてしまった。
「僕を花騎士に選んだこと、後悔してるの」
「っ…」
ランゼルは息を呑む。
「後悔、は…」
視線を落として、口を噤んだ。
答えは、言ったようなものだ。後悔しているんだろう。でも、僕にここまで歩ませておいてそんなこと言えないから、何か別の言葉を探している。
「…」
意地悪なことを聞いた自覚はあったから、答えを待たずに歩みを再開した。ランゼルの横をすり抜けてそのまま廊下を進む。
「あ…」
呼び止めようとするような小さな声が聞こえたけれど、足は止めなかった。
シャワーを浴び、明日の準備を済ませて、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、大人気ないことをしてしまったなと少しだけ反省した。
「…なにしてんだろ……」
深くため息を吐いて、目を閉じた時だった。
コンコン、とドアがノックされる。廊下側ではなく、ランゼルの部屋と繋がっている方のドアだった。
「…」
話をしようとしてくれているのだろうか。気は進まないけれど無視するわけにもいかず、その方へ向かう。
「なに」
ドアを開けず、その前で返事をした。
「…ごめん、ユリア」
ドア越しの、くぐもった声。
謝罪なんていらないと突っぱねようとしたのだが。
「明日から、三日くらい、公務休む」
続いたのは、全く予想もしていなかった言葉だった。
「は?」
急な話についていけず、気の抜けた声が出てしまう。
「部屋に閉じこもる、けど、気にしないで」
「待って、どういうこと」
何が何だか全くわからず問い返したのだけれど、返事はなかなか返ってこない。
「ランゼル?」
そういえば、心なしか苦しそうな声だった。何か良くないことがその身に起きているように思えて不安が立ち込める。
「ご、めん、大丈夫だから…じゃあ」
「ちょっと待って————」
ドアを開けようとして、しかしそこにはすでに鍵がかけられていた。
「ランゼル、鍵開けて」
「…」
一体何が起きているんだ。ドアノブを捻る。やっぱり開かない。
「体調悪いなら、ちゃんと診てもらって…っ?」
ふわりと、花の香りがした。
ドア越しでも分かるほどに濃い香りに、思わず唾を飲む。
「…ねぇ、何が起きてるの」
普通の病気ではないのだろう。これはおそらく、魔法関連の何かが原因だ。
それが何であれ、秘密にしようとしていることが気に入らなかった。こんな訳のわからない言葉だけで、僕が納得して受け入れると思われていることも。
「教えて、ちゃんと」
数秒の沈黙。
そして、やっと口火が切られた。
「…たまに、魔力が、荒れるんだ」
ランゼルは、途切れ途切れに話をしてくれた。
魔力が溢れて、自分の魔力に対して中毒症状を起こしてしまう。一度その状態になってしまうと、数日間動けなくなるらしい。
「それで、なんで僕を締め出すの」
治す助けは出来なくとも、世話くらい、してやるのに。それくらい頼ってくれたっていいじゃないか。
ランゼルは、か細い声で囁いた。
「ユリアに…そばに、いてほしくて」
「は…?」
側に居てほしい?
言っていることとやっていることが噛み合わなくて困惑する。
「なら、鍵開けて。…本当に側に居るくらいしか出来ないかもしれないけど、それくらいするから」
頼ってもらえないことに、少し苛立ちも感じていた。果たせる務めは果たしたい。そのために、花騎士になったのだから。花騎士に、させられたのだから。
けれど、ランゼルは譲らなかった。
「むり、できない…」
「なんで。側に居て欲しいんじゃないの」
「なんか、おかしい、から」
おかしいのは明らかだけれど————埒が明かない。
「ねぇ、開けてよ」
ドアに擦り寄って、言葉を連ねる。
「こんな話聞いて、放っておけるわけないだろ」
鮮やかな花の香り。この香りが、ランゼルを苦しめている。
「ランゼル」
懇願するような声が出た。
カチャ、と鍵の開く音がして、迷わずドアを開けた。
「っ…」
ランゼルは、声の通り、苦しげな顔でそこに立っていた。
大丈夫かと声をかけようとしたのだけれど————突然、腕を掴まれて、引き寄せられる。
そして、そのまま強く抱き締められた。
「う…っ」
むせかえるような花の香りにくらりとする。密着した身体から熱が伝わってきて、体温が上がるのを感じた。
なぜ抱き締められているのかは不明だが、とりあえずベッドに寝かせるべきだろう。身体を離そうともがくと、案外あっさり力は緩まったのだけれど、腕は解けなかった。
「…ユリア」
腰を抱いたまま、片手で頬をなぞられる。僕を見下ろすその目は、熱に濡れていて。
「っ…」
これは、ダメ、なんじゃないだろうか。
警鐘が鳴る。腕を振り解こうとして、しかし身体が動かない。指一本、動かせない。
刻印の力だと気付いたと同時に、つまり、僕の力ではもうどうしようもないのだと悟る。この力には、絶対に逆らえないようにされているのだから。
「ユリア…」
至近距離で目が合って、ぞくりと背筋が震えた。
熱っぽい視線に、息を詰める。あまりにも、近い。
「ランゼル、まっ————っ」
言葉は、その唇に飲み込まれた。
口の中に、ぬるりとしたものが差し込まれる。キスをされているのだと、頭が理解した次の瞬間。
「ッ、あ…」
熱い何かが、激流のように身体の中を巡る。眩暈がして、意識が一気に遠のいた。
ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打つ。熱くて、苦しくて、身体に力が入らなくなって————。
突然、ぷつん、と意識が途切れた。
真っ暗な世界に、ゆっくりと光が差し込む。意識が、覚醒して。
「…」
目を開ける。
自室のベッドだった。
「ユリア…?」
小さな声にその方を見れば、ランゼルが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「身体は大丈夫? 気持ち悪かったり、怠かったり、どこか変なとこはない?」
「え…?」
何の心配をされているのか、一瞬分からなくて————すぐに何があったかを思い出す。
急にランゼルにキスされて、身体が熱くなって、そのまま気を失ったんだ。
熱は、もうない。その他の身体の不調も、特にはない。少し眠ったおかげか、気分はすっきりしている。
「大丈夫、だけど…」
起き上がろうとすると、やんわりと止められた。安静にしてて、と言われたけれど、本当に不調は一切ない。
そして、ごめん、と小さく謝罪が溢された。
「許してほしいわけじゃないけど…本当に、ごめん」
それは、何に対する謝罪なんだ。
色々と思うことはあるけれど、それよりも。
「何だったの、あれ」
僕の問いに、ランゼルは迷いながらも話をしてくれた。
「あれは、魔力氾濫って、呼ばれてるんだけど…」
魔力が過剰に生成されてしまい、体調不良を引き起こす現象。不定期で原因も不明なこの症状は、魔力を持つ者には誰しも起こるものだが、海を持つランゼルはその症状が他人よりもひどく、一度荒れると数日は寝たきりになってしまうらしい。
「自然と過剰分の魔力が蒸発するのを待つしかないんだけど…さっき、その溢れた分の魔力を、ユリアに渡してしまって…」
つまり、僕は大量の魔力を渡されて気絶したということか。
「魔法を使えない人にも渡せるものなの?」
「それは…分からない。刻印も似たようなことをしているし、可能ではあるのかもしれないけれど…でも、普通は中毒症状が出ると思うんだ」
本当に身体は大丈夫かともう一度聞かれて、問題ないと答える。あらためて身体に意識を集中させても、やはりどこにも不調はなかった。
刻印をしているからかな、と呟くランゼルを見ながら、ふと問いかける。
「ランゼルは、もう平気なの」
さっきまでの苦しそうな様子はなかった。しかし、なぜかランゼルは僕を見てきゅっと眉を下げる。
「俺は平気…ユリアに、魔力渡したから」
「普段は数日かけて落ち着かせなきゃいけないものが、今の一瞬で治ったってこと?」
「え…まぁ、そうだけど…」
思いついたことを、そのまま口にした。
「なら、これからもこうすればいい」
効率的だし、やらない理由はない。
「何、言って…」
「魔力氾濫を起こした時は、僕に魔力を渡して解決すればいい」
ランゼルは目を見開いて絶句した。
それから、声を震わせる。
「何されたか、覚えてないわけじゃないよね」
「…キスのことなら、別に」
驚きはしたけれど、拒むようなことじゃない。それでランゼルの負荷を大きく軽減出来るというのなら、キスくらいすればいいと本気で思っていた。
「別に、って…なんで、そんな…」
でも、ランゼルは違うのだろう。
拳を握って、唇を噛む。その姿を見ながら、ランゼルにとってキスは正しく特別なものなのだろうと思った。結構、ロマンチストなところがあるから、そういう思想を持っていること自体は意外ではなかった。
でも、僕は、愛とか恋とか、そんなものに対する憧れはもうとっくに無い。
「お前が、僕にキスするのが嫌ならいいけど。少なくとも僕は気にしないから、好きにして」
「…」
ランゼルは顔を歪めた。
僕を叱る言葉でも探しているのだろうか。そんなもの、響きはしない。
沈黙は、静かな問いで破られた。
「どうして、キスしたと思う?」
「え…」
それは魔力氾濫のせいだろう。
しかし、僕の答えを封じるようにランゼルは口を開いた。
「魔力が暴走したせいだけじゃないよ。これまでだってその状態でいろんな人に会ってるけど、キスなんて誰にもしたことはないんだから」
「…」
暗雲が、立ち込める。
この話を続けていいのだろうか。視線を逸らして逃げ場を探すけれど、ランゼルは許してはくれなかった。
「ユリアだったから、俺はキスしたんだ」
ドクン、と心臓が鳴る。
「どういう意味か、分かる?」
「知らない、別に、興味ない————」
「ユリア」
少し強く名前を呼ばれて、口を噤んでしまう。
「こっち見て」
「っ」
顔が上がる。命令には、逆らえない。
目が合った。その微笑みは、これまでも何度も見てきた、僕の、苦手な表情だった。
「好きだよ」
言葉が、心に染み込んでいく。
「ずっと、ユリアが好きなんだ」
温かいのに、苦しい。
「好きだから、キスをした。それでも、ユリアはこれからもキスを受け入れられる?」
キスなんて、触れ合いの一種に過ぎない。
でも、そこには意味があると言う。
でも、意味があったからって何が変わるのか。
でも、その意味は無視できないものだったのも事実。
でも、これまでみたいに全部感情を殺すことさえできれば。
でも、でも。
「…」
いろんな感情がぐちゃぐちゃに絡まって、何も言葉が出て来なかった。
ランゼルは、ふっと優しく笑った。
「困らせてごめん。でも、あれはただの暴走じゃなく、俺の特別な好意が含まれてるんだって分かってほしくて」
特別な、好意。
そんなもの、知りたくなかった。
「今日は、本当にごめん。体調に何かあったら、些細なことでも必ず教えて」
ランゼルはベッドから立ち上がると、おやすみ、と言って部屋を出て行った。
「……」
本当は、心のどこかでは気付いていたような気がする。
でも、知らないふりをして目を背けていた。そんな感情、向けられてもどうしたらいいか分からないから。
まだ僕は、怒りと憎しみと友愛の狭間で彷徨っているのに、そんな大きなものをぶつけられても困る。僕には、とても手に負えない。
ぎゅっとブランケットを手繰り寄せて小さく丸まる。どうしてこんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだ。ずっと感情から逃げてきたツケでも払わされているのだろうか。
強く目を閉じる。シャットアウトしようとしても、どこまでも感情がこびりついて離れない。今日も思考は放棄できそうになかった。
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