第3話 傷心

 ————『刻印というのはね、相手を力ずくで支配下に置く儀式なんだ』

 刻印のやり方を尋ねた時に返された言葉が蘇る。

 ————『どれくらいの強さで縛るかは、こちらに委ねられている。だから、やりすぎてはいけないよ』

 やりすぎるとはどういうことなのかと尋ねると、兄上はただ微笑んで、やれば分かる、とだけ言った。

 古くは力のある騎士が裏切らないようにするためのものだったため、強い力で支配することが必要とされていた。しかし今は、花騎士が魔剣を扱えるようにするためという理由以上の意味はないから、刻印に強度は必要ない。

 そもそも刻印なんてものをユリアに刻まなければならないことが憂鬱で、どうにかやらずに済む方法は無いかと考えていたのだが、やんわりと兄上に腹を括れと諭されてしまった。

 そして、気乗りしないままその時を迎え————いざ、ユリアに刻印をしたら。

 始めた瞬間に、兄上からの忠告が何を意味していたのかを理解した。

 魔力がユリアの身体に満ちていき、自分のものになっていく感覚。仄暗い欲求が甘く満たされて、熱で頭が茹って。

 力の抜けたその身体を抱き寄せた時には、警鐘が鳴っていた。

 欲望を断ち切って、刻印を終えた。眠るユリアの表情が穏やかで、心底ほっとした。

「はぁー……」

 ベッドに横たわる。

 王宮入りまであと三日。まだやるべきことはいくつか残されていて、今日もその一つを片付ける約束をしていた。

 そろそろだろうかと時計を見上げたところで————その気配が動いたのを、感じ取った。

 ユリアが部屋から出た。こっちに向かっている。

「うわ…分かる……」

 意図して探らなくとも、勝手に情報が入ってくる。まさかここまで詳細に把握出来てしまうとは思っていなかった。ユリアもここまで筒抜けだとは思っていないだろうし、正直少し気まずい。

 ベッドから起き上がり、机に置いておいた剣を手に取った。

 魔法で精製した魔剣。一応ユリアの使っていた剣と同じ寸法、重さで作ったけれど、実際に使ってもらって問題ないか、今日はそれを確める予定だった。

 コンコン、と部屋のドアがノックされる。

「ランゼル」

 名前を呼ばれて、すぐにドアを開けた。

「お、おはようユリア」

 変な緊張のせいで、声が上擦る。

「もう昼だけど。稽古場でやるの?」

 いつもと変わらない淡白さに、今日ばかりは安堵した。

 鞘に入った魔剣を手渡すと、ユリアはそれをベルトに装着する。剣を下げると急に騎士らしく見えて、なんだか落ち着かない気持ちになった。

 二人で稽古場へ向かい、その扉を開ける。すると、そこには先客がいた。兄上とフレジアさんだ。二人とも、剣を持っていた。

 歩み寄って、手合わせですか、と聞こうとしたけれど————俺が口をひらく前に、兄上がおかしそうに笑った。

「これは…ふふ」

 その少し悪戯っぽい笑い方に、嫌な予感はした。

 兄上はちらりとユリアを見て、それから俺に笑いかける。

「結構しっかりつけたね、ランゼル」

「えっ」

 主語がなくとも、何の話をしているかは明らかで、思わず硬直する。

「…」

「?」

 何の話をしているのか理解して困ったように笑うフレジアさんと、話が読めずきょとんとしているユリア。

 居た堪れず、慌てて話題を逸らす。

「あ、兄上たちは何をしてたんですか?」

 確信犯の兄上はくすくすと楽しげに笑いながら、フレジアさんに稽古をつけてもらっていたのだと答えた。

 騎士ほどではないけれど、俺も兄上も一応剣の修練をしている。俺も、何度かフレジアさんに相手をしてもらった。

「ユリアの魔剣を試しに来たんだろう? ランゼルも、ユリアに稽古をつけてもらったら?」

「えっ、ユリアに!?」

 思いもしない提案に驚いてユリアを見る。

「別にいいけど」

「えぇ…いや…でも…」

 ユリア相手に剣を振れる気がしなくて躊躇ってしまう。

 まだ一度もユリアが剣を振るう姿は見たことが無いけれど、さすがに騎士学校を首席で卒業しているユリアの方が上手に決まっているから、傷付ける心配をしているわけではない。実力がどうという話ではなく、ただ単に自分はユリアに対して本気で剣を振れないだろうということが分かっているが故の躊躇いだった。

「…」

 悩んでいる俺を放置して、ユリアはすたすたと訓練所に入り、立てかけてあった剣を手に取る。そして、あろうことかそれをこちらに投げてよこした。

「うわっ」

 慌てて手を伸ばし、それをギリギリでキャッチする。

「…ほら」

 ユリアは稽古場に立ち、慣れた手つきですっと鞘から剣を抜いた。

 魔剣が、光を反射してきらりと青く光った。

「う…わかった…」

 仕方ない。気乗りしないまま、ユリアの正面に立って剣を抜く。

「では、わたしが号令をかけますね」

 フレジアさんの声に、緊張感が走った。

 息を詰める。ユリアの瞳に揺らぎはなく、凪いでいた。

「————始め!」

 声が掛かったと同時にユリアの身体がふっと沈んだ。

 斬り込まれる————足を踏ん張り、剣先の動きに集中して構える。

 次の瞬間、構えた剣に重い衝撃が走った。

「っ!」

 予想より、ずっと速い。今のは、俺が塞いだというよりは、俺の構えた剣にユリアが剣を当ててくれたと言った方が正しい。

 何度か剣をぶつかるけれど、受け止めるだけで精一杯だった。

 速さもそうだが、身軽な動きに反して一撃一撃がかなり重い。その細腕でどうやって、と思ってしまうほどだった。

 必死に応じていると、不意にユリアの攻撃が緩んだ。たぶん、わざとだ。俺が斬り込めるように、力を緩めてくれたんだろう。

 これは稽古なんだから、与えられた隙を使って反撃しなければならない。

 分かってる————分かってる、けど。

「————ッ」

 ユリアと目が合うと、どうしても、剣が振れなかった。

 カァン、と清々しい音が響いたと同時に、持っていたはずの剣が手元から離れて飛んで行く。

「あ…」

 振り抜いたユリアは、じっと俺を見つめて言った。

「なんで斬り込んで来ないの」

 不機嫌そうな声に、しかし俺は嘆くことしか出来ない。

「いややっぱ無理!!」

「無理って何? あんなに隙あったのに」

「無理なもんは無理!」

 これはもう、どうしようもないんだ。感情の話だから。

「…じゃあ、僕と手合わせしようか、ユリア」

 ユリアは底冷えするような目で俺を一瞥してから、お願いします、とフレジアさんの方へ向き直った。

 ああ、もう最悪だ。重い足取りで稽古場の外にいる兄上の方へ向かう。

「…兄上」

 恨めしい気持ちで見上げれば、兄上は口元に手を当てて上品に笑った。

「ふふ、ごめんね。ランゼルは好きな子大事にしたいタイプだもんね」

「兄上!」

 ぎゃんと叫んでも、兄上はただ笑うだけ。この人には永遠に勝てる気がしない。

「ほら、フレジアとユリアの手合わせが始まるよ」

 兄上の言葉にその方を向けば、二人は稽古場の真ん中で互いへ剣を向け合って立っていた。

 美しい立ち姿だ。さっきは手合わせに意識を持って行かれてあまり見えなかったのだけれど、剣を構えるユリアの姿はとても整っていた。

「ユリアの剣の腕は相当だとフレジアがよく褒めているけれど…さて、どんなものかな」

「どう…でしょうね」

 フレジアさんとユリアでは十センチ弱身長差があるし、フレジアさんも細身だけれど、ユリアはそれ以上に細い。こうして並んでいるのを見ていると体格差は明らかで、正直ユリアには部が悪く見える。あのフレジアさんの剣技を、ユリアがどう受け止めるのか、あまりイメージがつかなかった。

「じゃあ、始めようか」

「お願いします」

 空気が、張り詰めて————二人は、同時に動いた。

 そして次の瞬間、けたたましい音が場の空気を切り裂いた。

「っ…」

 思わず息を呑む。

 速い。フレジアさんの剣も相当速いと思っていたが、ユリアはそれに全く遅れを取らない。

 リーチや力の違いを踏まえた、洗練された動き。自分の体重や筋力を一定に保ち続けていると言っていた理由が分かってしまった。

 俺の目には、フレジアさんと互角のように見える。さっきの俺との打ち合いなど、ユリアにとってはあまりに他愛無いものだったろう。

「すごいね、ユリア」

 兄上も感嘆の声を上げた。

 本当に、すごいと思う————けれど。

「…そう、ですね」

 ここまで剣技を磨くために、一体どれほどの努力をしてきたのだろう。

 簡単な道のりではなかったはず。武術なんて、基本は力比べだ。でもたぶん、ユリアは体格的にその王道を選べなかった。自分の弱みを強みに変えて、ここまで叩き上げるまでの努力は、きっと凄まじいものだっただろう。

 一体何がユリアにここまでさせたのか————フレジアさんなら、知っているのだろうか。聞いてみようと思っているけれど、まだ話を聞きに行けていない。

「…」

 ユリアが高く跳び上がる。真っ直ぐにフレジアさんの剣に振り下ろして、一際大きい音が鳴り響いた。

 そして、二人は示し合わせたかのように、唐突に打ち合いを止めた。

「ちょっと剣先が重い?」

「そうですね」

「重心を下にずらしていただいた方が良さそうだね」

 今の一撃でそんなことまで分かるのか————驚きに固まっていると、背中をとんと押される。

「今やってあげたら? ランゼルなら問題ないだろう?」

 兄上はにこりと笑った。

 俺ならば問題はない、という言葉に、まぁ、と曖昧に頷く。

 魔法を使うことのできる王族は、魔力量が一定以下になると身体に影響が出てしまい、消費しきると最悪命の危険もあるため、魔力管理は慎重に行わなければならなかった。

 しかし、ごく稀に無尽蔵とも言えるほどの膨大な魔力を保有する人間も居て————俺は、たまたまそれだった。千年続く王族の歴史の中でも、過去に二人しか居ないというこの特異体質は海と呼ばれていて、兄上や両親と全く異なる黒髪と赤目なのも、それが原因だろうと言われている。

 海の持ち主であることは、俺にとって全く誇らしいことじゃなかった。その希少性のせいで、一家から一人と決まっている王座争いに、例外として兄上と共に参加することになってしまったし、それに————どんなに魔力が多かろうと、それを思うように使えないのなら意味は無い。

「ユリア、その剣貸して」

「…はい」

 受け取った剣を掲げる。

「重心をもうちょっと手前に…だっけ」

「そう。五センチくらい手元に寄せてほしい」

 指示が細かくて、上手く出来るかあまり自信がない。でもまぁ、成功するまで作り直せばいつかは出来上がるだろう。

 物体生成は、あらゆる魔法の中でも特に魔力を大量に消費するものだから、普通は一日に何度も使えないらしい。この宝の持ち腐れも、こういう時は便利だ。

 それから、結局五本ほど作って、ユリアの魔剣が完成した。

 今日の目的が終わると、ユリアとフレジアさんは日課のトレーニングをしに行くからと二人で稽古場を出て行った。

「…兄上。この後少し時間ありますか」

 なぜ呼び止められたのか、説明せずとも分かったようで、兄上はすぐに了承してくれた。

「ああ、いいよ」

 礼を言って、魔法の練習がしたいのだと伝える。兄上はにこやかに頷いた。

 魔法は、修練によって出来ることが無限に広がっていく。ただ魔力を持っているだけでは意味はなく、そこからどう魔法という形にしていくかが能力の問われるところだった。

「見ているよ。魔法を使ってごらん」

 兄上は、とても優秀な魔法の使い手だった。また、魔力感知力が非常に高く、魔法の痕跡や魔力の流れなどを読み取ることが出来る。その力を借りながら、俺もそれなりに修練を積んできたつもり、ではあるのだけれど。

「…」

 目を閉じる。身体の奥深くに溜まった魔力に、全意識を集中させる。

 魔法を使うには、まず魔力を手元に持って来る作業が必要になる。どんな魔法を、どんな規模で展開するのか、それに合わせた量の魔力を、器に移す。それから、魔法という形にしていく流れなのだが。

「う…」

 思うように、魔力が取り出せない。

 生まれつき決まっている魔力量と違い、器は訓練により大きくすることが出来るもののはずだった。しかし、どれだけ修練を重ねても、俺は器を広げることが出来なかった。だから俺は、兄上やその他の王族達より圧倒的な量の魔力を持っているのに、彼らのように大きな魔法は使えない。

「…はー……」

 広大な水源がそこにあるのに、蛇口を捻っても全然水が出てこないような、そんな感覚。とにもかくにも、例え魔力量が多くともそれをまともに扱えないのなら価値はない。

 今日もダメだ。汲み上げた魔力を、適当な魔法に変換する。何もないところに魔法陣が光り、風が渦巻いた。

 はぁ、とため息を吐くと、兄上にぽんと肩を叩かれた。

「ランゼルは納得行かないかもしれないけれど、私はあまり気にすることないと思っているよ」

「でも、魔法で悪魔を仕留められないのは俺だけですし…」

「そんなことないだろう? ランゼルはランゼルのやり方で、あれらを狩ることは出来る。何も、一撃であることに拘る必要はないよ」

 兄上の言う通り、ちくちく攻撃していけばもちろん俺の魔法でも倒せることは倒せる。魔力効率を考える必要が無いところを活かして、単発の速度を上げたり、複数の魔法を同時に展開するなど、兄上に手伝ってもらいながらこの癖のある能力値に合わせた戦闘方法を身につけた。けれど、他の王族たちは大型の魔法を一つ展開するだけで倒しているし、実際、回復などの特殊な力を持った悪魔だと、その方法でしか倒せないことだってある。

「海を持っていることもそうだけれど、ランゼルは魔法の発動が本当に速いから、それを武器に戦える。素晴らしい能力だと思うよ」

 兄上はいつもこうして俺を肯定してくれる。それが慰めではなく、本心であることも分かっていた。

 それでも、現状に納得することは出来ない。それすらも兄上は分かっているのだろう、一向に上達しない俺に、根気強くやり方を教えてくれた。

 今日も、きっと何も出来るようにはならないんだろうけれど————やらなかったら、何も変わらないから。

 もう一度お願いします、と言おうとした俺に、「ねぇ」と静かな声が掛けられた。

「どうしてそんなに大きな魔法が使えるようになりたいんだい?」

 兄上は、じっと俺の目を覗き込んで囁いた。

「ランゼルは、王になりたいわけじゃないよね」

「ち、ちがいます」

 慌てて返す。

 もちろん、王座になど興味はない。指名制でなければ絶対にこんなもの参加しなかった。

 でも、兄上は違う。兄上は、本気で王座を狙っていた。

 なぜそれほどの強い意志があるのかは分からない。聞いたことはあるけれど、時が来たら教えると言われてしまった。

「俺は…兄上に王になってほしいと心から思っています」

 俺の幼い頃は母上が病に臥せがちだったのもあり、兄上がよく俺の面倒を見てくれていた。容姿端麗で頭も良くて、優しくて————小さな頃から、俺にとって兄上はずっと憧れそのものだった。

 尊敬しているし、誰よりも信頼している。兄上が王になるのなら、何の心配もなかった。王になった兄上の傍らでその支えになれたら、どれほど誇らしいだろうと思う。

「ありがとう、ランゼル」

 兄上はにこりと笑って、俺の頭を撫でた。もうそういう歳でもないんだけれど、嫌ではないのでされるがままになっておく。

「私も、もっと精進しなければいけないね」

「もっとですか?」

「もちろん。上には上がいるからね…単に、個人としての力だけを試されるわけではないだろうし」

 今代の王位継承権を持つ者は、俺含めて四人。

 俺と兄上の他に、現王の一人息子であるロゼヴィアと、王の従兄弟の息子であるリーフィラ。現時点で最有力と言われているのは、最も優秀な魔法の使い手であるロゼヴィアさんだけれど、もう一人の方も何やら曲者らしい。なんと、双子の弟であるリーフィラが王位継承権を持ち、その双子の兄であるネモが花騎士を務めているため、どちらも魔法を使うことが出来るという異例のペアだという。

 王の務めは国の繁栄と悪魔から民を守ることとされているが、その詳細は明かされていない。戦場に王自らは出て行かないし、それどころか滅多に人前にも姿を現さないため、その真相は謎に包まれていた。しかし、王は花騎士と共にその責務を果たしているらしく、この王位争いは単に王位継承者の能力だけを比べるのではなく、花騎士と合わせた実力を測って決められるらしい。

「何を見られて、どう決められるのかよく分かりませんが…兄上なら、兄上とフレジアさんなら、きっと大丈夫です」

 ありがとう、と兄上は再び礼を言って微笑んだ。

 

     * * *


 夜に、俺はフレジアさんの部屋を訪ねた。

 フレジアさんは俺を見て少し驚いた顔をしたものの、すぐに何かを察したのか快く了承して部屋に入れてくれた。

 勧められた椅子に腰掛ける。アイスティーでいいかと尋ねられて頷いた。

「ユリアのことでしょうか」

 彼はグラスにアイスティーを注ぎながら問う。

「はい。兄上に、ユリアのことを知りたいのならフレジアさんに聞いてみるといいって言われて」

「カゼル様が…」

 なるほど、と彼は頷いて、丁寧な手つきでグラスを俺の前に置いた。

「わたしも、それほどよく知っているわけではありません。四学年も離れていたので、授業も当然違いますし、校内で顔を合わせるのも、花騎士クラスのカリキュラムや修練がある時だけでした」

 自分の分のグラスを持って、フレジアさんは俺の向かいに座った。

「花騎士クラス…って、栄養食みたいな味気ないご飯食べてたっていう…」

「栄養食…? 確かに、推奨はされていましたが…」

 フレジアさんは眉を下げて笑い、説明をしてくれる。

 花騎士クラスとは、その名の通り、花騎士になることが決まっている生徒たちのための特別なクラスらしい。普通の授業では行なわれない専用のカリキュラムが組まれていたと言う。

「どんなことをするんですか?」

 わざわざ別でクラスを設けるくらいだから、きっと厳しい内容だったのだろうと思ってはいた。

 でも、その程度しか、想像出来ていなかった。

「…色々なことをやりました」

 含みのある、静かな声。

「何をしたか、公の場で言ってはならないと言われるようなことばかりだったので…あまり、気持ちのいい話ではないと思います」

「え…?」

 その不穏な言葉に、背筋がすっと冷たくなる。

 それでも聞きますか、とフレジアさんは穏やかな声で問うた。

「…はい。聞かせてください」

 こうして話として聞いて心を痛めたところで、ユリアが抱えてきた苦しみの端切れ程度しか理解することは出来ないだろう。でも、もしかしたら、その心に寄り添う方法が、その手掛かりが、見つかるかもしれない。

 フレジアさんは、分かりました、と囁いた。

「本当に色々あるので、一部だけお話しますね」

 緊張に、拳を握る。

「例えば…毒物への耐性をつける訓練がありました」

 毒薬などを定期的に摂取して、身体に慣れさせていく訓練。毒薬を飲み、反応が一定を下回るまでそれが続く。

「中毒反応を起こした時の対処や、適切に解毒をしてもらうため、その期間は寮を出て専用の個室に入れられ、常にドクターがそばに居る生活になります。人によっては三ヶ月程度、そこで訓練を受けていました」

 まるで人体実験の話でも聞いているかのようだった。

「そん、な…」

 聞いているだけでも、壮絶な訓練だ。フレジアさんは憂うように言葉を続ける。

「こういったことを、色々とするクラスでした。外には出ない情報ですが、ランゼル様がお求めでしたら手に入れられると思います」

 きっと、問い合わせずとも兄上が持っているだろう。フレジアさんのことで、知らないことがあるとは思えない。

「…」

 なんと言ったらいいか、言葉が見つからなくて黙ってしまう。

 こんなことを、他にも、いくつも————これまでユリアが受けてきたであろう数々の責め苦を思うと、心臓を握られたように胸が痛んだ。

「あのカリキュラムは、正直非人道的だと感じることも多々ありました。…でも」

 フレジアさんの水色の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめた。

「これらは、あくまでわたしたち騎士を守るためのものであるということを、ご理解いただければと思います」

「守るため…?」

 はい、と彼は穏やかに頷く。

「花騎士になれば、過酷な環境に置かれたり、厳しい戦場に立たなくてはならないことがあるかもしれない…そういった時、これらの訓練はわたしたちの命を守ることに繋がります」

 その言葉に、はっとした。

 ああ、そうか。悪いのはカリキュラムじゃない。

「…そうですね」

 花騎士にするとは、そういう場面に立たせるということ。

 つまり————結局、ユリアにその役を強いた俺が全部悪い。

「少し、話がずれてしまいましたね」

 穏やかに言って、彼は話を始めた。

「ユリアについて、わたしが知っているのはほんの一部でしかありませんが…学生時代のユリアは、とにかく努力家でした。…いえ、あれはそんな言葉に収まるものではないですね」

 他の追随を許さない気迫で、自らを叩き上げた。まるで何かに取り憑かれたように修練に励む姿は、少し異様なほどだったと語る。

「自らの身を顧みない訓練の仕方に、わたしも何度ユリアを注意したか分かりません」

「…」

 聞いているだけで胸が詰まる。

 昼間に見たユリアの剣を思い出す。美しさすら感じさせられたあの鋭い剣術は、やはり途方もない努力の上で作り上げられたものなのだろう。

 何も言えずにいると、そっと問いが投げられた。

「なぜそこまであの子が必死になって鍛錬を行っていたか…ランゼル様は、分かりますか?」

 それが、一番知りたいことだった。

 何がユリアをそこまで追い詰めたのか、それが分かれば、きっと少しはその心を理解出来る。

「…俺には、分かりません。教えてもらえますか」

 俺の言葉に、フレジアさんはふわりと柔らかく微笑んで、そっと囁いた。

「あなたの騎士になるためです」

「え…?」

 掠れた声が漏れる。

 だって、そんな。そんなわけがない。ユリアは花騎士の道を歩まされ、強制的にやらされていただけだ。そこには、ユリアの気持ちも意思もない。

「でも…ユリアは、望んで俺の騎士になったわけじゃないですし…」

「そのあたりの話は、私もユリアからちゃんと聞けているわけではないので存じ上げないのですが…おそらく、ユリアにとって花騎士になることは、孤独から逃れる唯一の方法だったのではないかと」

「孤独…?」

 嫌な響きの言葉に、どくんと心臓が鳴る。たまらず、問いかけてしまった。

「学校に、友達はいなかったんですか」

 フレジアさんは、ただ悲しげに微笑んだ。

 ユリアはクールだけれど、人当たりが悪いわけではない。素直で優しいし、初等学校の頃は友人もたくさんいた。それなのに、なぜ。

「…騎士学校は、常に人と比べられる環境だったので、妬みや恨みが蔓延っていました」

 つまり、ユリアもそれに晒されていたということなのだろう。

 脳裏に蘇る、ユリアの不安そうな声。

 ————『行く場所なんて…ない』

 俺に王位継承権が無くなったら自由にしていいと伝えたあの時、ユリアは迷子のような顔をしていた。

 これは推測でしかないし、最悪の予想ではあるけれど————その妬みや恨みを向けられた結果、周囲の人間に危害を加えられたりしたのかもしれない。

 名言はしないフレジアさんの様子からしても、遠からず当たっている気がした。ユリアにそんなことをした人間が居るかもしれないと思うだけで、はらわたが煮えくり返る。でも、ユリアをそんな環境に追いやったのは、他の誰でもない自分だ。

 ユリアのために俺が出来ることは、なるべく早くこの手を離すことだと思っていた。でも、おそらくもう、そうではなくなってしまったのだろう。今のユリアには、ここが唯一安心できるに場所に思えてしまっているのかもしれない。

「…お話聞かせてくださって、ありがとうございました」

 いえ、とフレジアさんは首を振る。

 学校には友人が居ないと言っていたが、フレジアさんのことは明らかに慕っている。ユリアにとってこの人は、きっととても、とても大切な存在だ。

「フレジアさんは、ユリアの心の拠り所だと思うので…これからも、支えてもらえたら嬉しいです」

 しかし、迷わず頷いてくれると思ったのに、フレジアさんは困った顔をした。

「もちろん、信頼してくれているとは思います。でも、結局ユリアは一度も弱みを見せてくれることはありませんでした」

 稽古をつけてくれとお願いされたり、座学で分からないところを聞かれたりはしたが、精神的に自分に甘えるようなことは一度も無かったと、フレジアさんは寂しそうに笑った。

「だから…ここに来て最初の夜、眠れなかったからランゼル様の部屋で寝たのだとユリアから聞いた時、とても安心しました。ランゼル様になら、ユリアは頼れるのだなと思って」

「いや、あれは別に、たぶんそういうのじゃ…」

 確かに、あの日はユリアの方からここで寝たいと言ってきたけれど。この態度の差は、単に俺は昔馴染みで、フレジアさんは四つも上の尊敬する先輩であるというだけのように思えてならない。

 しかし、フレジアさんはにこりと微笑んで言った。

「ランゼル様のお側なら、心配なさらずともユリアは大丈夫ですよ」

「…」

 気を遣わずに居られるという意味なら、確かに俺と一緒に居るのが一番気楽ではあるのかもしれない。それがユリアの感情的に喜ばしいことだとはとても思えないけれど、それでも、今のユリアは俺の元に居るのが一番心休まるというのなら、俺に出来るのはそれを叶えることだけだった。



「ユリア!!」

 翌朝、一番にユリアの部屋を訪ねた。

「…何」

 朝のトレーニングに向かうところだったのだろう、タオルと飲み物を持って部屋を出ようとするユリアを引き止める。

 ユリアは訝しむように眉を寄せていたけれど、構わず伝えたい言葉を伝えた。

「刻印した時、俺に王位継承権がなくなったら花騎士辞めていいって言ったけど、俺は、叶うならずっとユリアに花騎士で居て欲しいと思ってるから!」

「え…何、急に何の話?」

 気圧されたようにユリアは一歩下がる。その一歩を埋めるように足を踏み出して、その手を取った。

「騎士以外にやりたいことがあるならその道に進んで欲しいと思って、ああ言ったんだ」

「…」

 ユリアの瞳が、あの時と同じように不安げに揺れた。

「期限を決めたかったわけでも、ましてやユリアに騎士を辞めて欲しかったわけでもないよ」

 ユリアは何も言わない。しかし、その表情に僅かに光が差すのを見た気がした。

「だからもし、ユリアがその先も花騎士で居る道を選んでくれるのなら、俺は嬉しい」

 ユリアはしばらく沈黙して、それから小さく口を開いた。

「…そう」

 たった一言だけだったけれど、それで良かった。

 表情が少し晴れたというだけで、いつもとその雰囲気は変わらない。ユリアはふいっと顔を背けて、俺の手からするりと逃れた。

「じゃあ、トレーニングしてくるから」

「うん。…いってらっしゃい」

 その背中を見送って、ため息を吐く。

 他に夢があるかどうかに関わらず、本来ならば、俺の騎士であることをユリアが選ぶわけはない。今は、それを選択することしか出来ない精神状態だというだけだ。

 間違っても、喜ばしいなんて思ってはいけない。そう、何度も自分を戒めた。

 

     * * *


 そして、ついに王宮入りの日が来た。

 純白のブラウスに袖を通す。スカーフをエメラルドのブローチで留めて形を整え、ボタンが三つもある長いカフスのボタンを溜める。

「これ留めずら…袖も動きづらいし…」

 今日は式典があるため、正装で王宮へ向かわなければならなかった。ため息を吐きながら、やたらと装飾の多い服を手に取る。

 丈の短いベストを着てから、膝下まである丈の長いベストを着て、ウエストに合わせて背中のベルトを締める。鏡の前で襟元や腰回りの装飾品を整えれば、正装らしいシルエットになった。

 少しヒールのあるロングブーツに履き替える。足に合わせて編み上げを引っ張って————これで、完成だ。

 もう一度全体を姿見で確認して。

「…似合わないよなぁ……」

 思わず苦笑いが漏れた。

 正装は、動き辛いとか、着心地が悪いとかもあるけれど、何よりこの真っ白が似合わなくて好きじゃなかった。

 黒髪と赤目に合わないんだ。俺も兄上や父上のような柔らかなエメラルドグリーンの髪が良かった。

 そんなことを言っても仕方がないし、そこまで気にしているわけではないけれど。正装する度に少しだけ気分が下がる。

 コンコン、と部屋がノックされて、支度を手伝ってくれる使用人たちが入って来た。軽く化粧をされ、髪を綺麗に整えてもらう。編み込まれたところに華やかな白い花飾りがつけられたけれど、これもまたあんまり似合わない。

 全ての支度が終わり広間に降りた。するとそこには、すでに他の三人が揃っていて。

「…!」

 騎士服を着たユリアが、俺を振り返った。

「遅い」

 伝統的な、深いグレーの騎士服。その色を纏った姿に、息が詰まって何も言えなくなる。

「格好良いよね、二人とも」

 真っ白なテールコートを着た兄上に声をかけられはっとした。

「あ…はい、そうですね」

 よく似合っているよ、と微笑む兄上に、ユリアもフレジアさんもにこやかに礼を返した。

 そのやりとりを、ぼんやりと見つめる。

「…」

 それぞれの体型や戦い方に合わせて仕立てられているのだろう。フレジアさんはロングコートの上からベルトを締める形だけれど、ユリアは詰襟のショートコートの下に丈の長い服を着ているようだった。

 綺麗だとは、思うけれど————きっと、ユリアにはもっと明るい色が似合う。金色の髪も色素の薄い紫色の瞳も、それこそ白とかの方が映えるだろうな。こんな、暗い色じゃなくて。

「ランゼル?」

 不意にユリアに声を掛けられる。

「…ううん、何でもない」

 行こうか、と返して足を踏み出す。兄上とフレジアさんと共に、見送りに来てくれた両親と使用人たちに挨拶をし、王宮へ向かう車に乗った。



 森を抜けると、視界が一気に開ける。

 広大な庭の真ん中、王宮へと続く道にはずらりと兵が並んでいた。道を歩き、王宮の入り口が見えたところで、その姿に気付く。

 薔薇のような赤い髪に、黄金色の瞳。背が高いわけでも、高圧的な態度なわけでもないのに、不思議な威圧感を放つその人は。

「皆、よく来たね」

 王の一人息子であり、現時点で一番の魔法の使い手であるロゼヴィア第一王子。

「変わりなさそうで良かった。久しぶり、ロゼヴィア」

 穏やかな声で言った兄上の横で会釈をすると、ロゼヴィアさんは「ランゼルも久しぶりだね」と俺を見て柔らかく微笑んだ。

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