第2話 契約

 一日が、終わった。

「は……」

 吐息が溢れる。ベッドに倒れ込む。

 大したことはしていないのに、学校を出たのが今朝のこととは思えないほど長い一日だった。

 ランゼルもカゼル様もフレジア先輩も、両殿下さえも、この屋敷に住まう人々は皆元から面識はあった。けれど、僕自身があの頃とは全く違って、それで勝手に緊張していたのかもしれない。

 蓋を開けてみれば皆は何も変わらなくて、両殿下も快く迎えてくださった。共に食卓を囲むことを許してくださり、皆で昔話に花を咲かせた。ランゼルと共に過ごした幼少期は、僕にとっては遠い色褪せた記憶で、もうどういう気持ちで思い返したらいいのかも分からないようなものばかりだったけれど。

「…」

 寝返りを打つ。

 ランゼルは、やっぱり変わっていなかった。

 あの頃と同じ目で僕を見る。僕に笑いかける。僕の手を取る。

 くるりとした丸い瞳が僕を捉える度に、嫌でも分かってしまうんだ。ランゼルに、悪意なんてなかったことが。

 ランゼルだって、こんなことになると分かっていたら僕を花騎士になんて選ばなかったかもしれない。そこに僕を苦しめる意図なんて一つもなかった。

 そういうやつじゃないことなんて、もうずっと前から分かってて————それでも。

 僕は、どうしたって、あいつを許せない。

「僕が悪い…のかな…」

 目を閉じる。瞼の裏に、邪気なんて一つもないランゼルの笑顔が浮かぶ。でも、それだけじゃ、心にこびりついた痛みの記憶は消えない。

 ああ、もうこういうことは考えないって、決めたのに。

「…寝よう」

 灯を消して、ブランケットを被る。

 絡まる思考から目を逸らして、眠りに潜ろうとする。少し枕が高い。知らない匂いがする。秒針を刻む音がする。

 しばらく、身を横たえていたのだけれど、眠気が降りてくる気配は全く無かった。

「…眠れない……」

 諦めてベッドから起き上がる。少し身体でも動かそうか。こんなに何もしない一日は久しぶりだから、身体が疲れていなくて寝つきが悪いのかもしれない。

 稽古場は夜でも空いているのだろうか。もし空いてなければ外を走ろう。そんなことを考えながら剣を手に部屋を出て、階段を降りている時だった。

「…」

 階段を登ってくる足音がして立ち止まる。

 使用人だったら、訓練場のことを聞いてみようと思いながら足音に向かうように階段を降りて。

「え…?! ユリア?!」

 そこに居たのは、何やら盆を持ったランゼルだった。

「…なに、してるの」

「いやそれはこっちのセリフだけど…俺は、ちょっと小腹が空いたから厨房から色々くすねてきたところ」

 もう日付が変わろうとしている。こんな時間に小腹なんて空くのか。相変わらず自由なやつだ。

「ユリアはどうしたの? 迷った?」

「そんなわけないだろ。ちょっと寝つきが悪くて…少し身体を動かそうかなって」

 ランゼルは驚いたように目を瞬いて、それから小さく笑った。

「もしユリアが良ければだけど、寝れないなら、ちょっと話さない?」

「え…」

 話すことなんて無い、けれど。

 これから先、僕はずっとこいつとやっていかなくちゃいけないんだ。

「…わかった」

「嫌ならいいから! 断られても気にしないし!!」

「うるさい、夜」

 囁き返すと、ランゼルははっとしたように口を噤んで、それから「じゃあ俺の部屋に行こう」と小さな声で言った。

 二人で静かな廊下を歩いてランゼルの部屋にたどり着く。

「ユリアはどれが好き?」

 盆に乗っていた皿には、小さなスコーンやクッキーが並んでいた。

「こんな時間に食べない」

「え、なんで」

「体重増やせないから」

 え、と再び驚いた顔をされる。そしてちらりと僕の身体を見ておずおずと言った。

「十分細いと思うけど…」

 スタイルを気にしているわけないだろうと言いたくなる気持ちを抑えて答える。

「体重が変わると、動きにも影響が出るから」

 僕は、体格に恵まれなかった。

 身長は平均より低く、筋肉もつきにくい。戦術で良い成績を残そうと思ったら、どうしたって自分よりもがたいの良い人たちに勝たなくてはならなかった。

 人より小柄な肉体の数少ない長所は、身軽なこと。だから、体力と機敏性を武器に戦うための方法を、ひたすらに追い求めた。地面を蹴る力、反動、体重の掛け方、そういった身のこなし全ての精度を上げ、自分にとって最適な体重と筋力を測った。

「…だから、体重が変動しないように気を付けてるってだけ」

 軽く説明をすると、ランゼルは神妙な面持ちで尋ねてくる。

「今日の夕飯、あんまり食べてなかったのもそれ…?」

「え」

 確かにあまり量は食べられなかったのだが、各自が自由に取るビュッフェ形式だったから、気付かれずに済んだと思っていた。

 ランゼルは眉を寄せて、心配そうに僕を見ている。昔からこうだった。心配性というか、お節介というか、何かあるとすぐにこちらを案じてくる。

 鬱陶しいと思うのに、この目を向けられるとどうも蔑ろに出来なくて————つい、正直に話してしまった。

「いや、夕飯は…その、いろんな味のするご飯が久しぶりで、あまり量が食べられなくて」

「いろんな味?」

 騎士学校時代は、固形のバランス食で済ませることがほとんどだった。過不足なく栄養が摂れる便利な食事ではあったが、味を楽しむようなものでは当然ない。

 今日の夕飯も、美味しいとは思ったけれど、その差に慣れなくて量は食べられなかった、と伝える。すると、ランゼルの眉間の皺はさらに深まった。

「騎士学校ってみんなそうなの?」

「食堂はあったから、食べようと思えばちゃんとした食事も食べられたけど…」

「けど?」

「…花騎士は、バランス食が推奨されていたから」

 あまりこういう話はしたくなかった。

 騎士学校の中でも、僕やフレジア先輩含む、花騎士の称号が与えられることが決まっている生徒には特別厳しいカリキュラムが用意されていた。そこで行われていたことは、正直非人道的なものもあって————そういう話をランゼルにするのは、気が進まなかった。

「そう、なんだ…」

 ほら、やっぱり。すぐそういう顔をする。

 苛立ちと、後悔。言い得ぬ感情に、もやが広がる。

 バランス食で過ごしていたことなんて、他のカリキュラムに比べればなんてことはない。僕らがどんなことをしてきたのか知ったら、ランゼルはきっともっと気に病むんだろうと思ったら、何も言いたくなかった。

 ああ、相変わらず矛盾してるな。あんなことをさせられたのもランゼルのせいなのに。どうしてお前がそんな顔をするんだと怒りも覚えるのに。自分の味わってきた苦しみを知って傷ついてほしいとも、思えなくて。

 僕は、ランゼルに何を求めているのだろう。欲しいのは、反省でも、後悔でも、懺悔でもない。感情は絡まるばかりで答えは見えなかった。

「じゃあ、フレジアさんも体型とか気にしてるのかな」

 ランゼルは、一転して軽い調子で言った。気を遣わせたと分かったけれど、今はそれがありがたかった。

「…どうだろう。上背もあるし、そこまで気にしなくてもフレジア先輩は平気だと思うけど」

 思ったことを返すと、ランゼルははっとしたように尋ねてくる。

「ユリア、身長何センチ?」

「何、急に」

「いいから」

「170センチ、だけど」

 ランゼルはほっとしたように、大袈裟に笑った。

「セーフ!よかった〜」

「…お前もたいして変わらないだろ」

「いや5センチも差あるから」

 得意げに笑うランゼルに呆れる。

「たった5センチでそんな…ふぁ…」

 しかし途中であくびが漏れて、眠気が降りて来ていることに気付いた。

「もう眠れそう?」

 優しい声。いつだって、ランゼルは変わらない。

「ん…」

 瞼が重くて、頭が心地よく重い。このまま眠ってしまいたいと思った。

「…ねぇ、ここで寝てもいい」

 え、とランゼルが固まった。

「ベッド、一つしかないけど」

 さすがに迷惑かと思い、邪魔なら戻る、と言えば、ランゼルは慌てたように言った。

「い、いや、同じベッドでいいならいいけど!」

 別にいい。これだけ広いベッドなら、スペースは十分だ。いい、と答えてベッドに腰掛けた。

「…じゃあ、寝よっか」

 ランゼルが反対側からベッドに潜る。

 結局お菓子食べてないけど、いいのかな。まぁ、どうでもいいか。

 並んでベッドに寝転んだ。両手を広げてもぶつからなさそうなくらい大きなベッドだ。

 息を吸うと、柔らかな花の香りがした。いつもランゼルから香るこの匂いは、魔力によるものらしい。魔法が使える王族は皆、花のような香りがするのだとか。

 灯消すよ、とランゼルが囁いたと同時に、ふっと灯が消えた。魔法を使ったのだろう。

「…」

 考えるより先に、言葉が溢れた。

「まほう、みせて」

 幼い頃、何度もこうして同じベッドで眠った。一日中遊んで、でもまだ足りなくて、ベッドに入ってからも話したいことがたくさんあって。

 そんな時に、よく魔法を見せてもらっていた。

 懐かしい、色褪せた思い出が蘇る。

「…いいよ」

 ランゼルが、指先で宙に円を描いた。

 繊細な光がキラキラと降ってくる。

 綺麗だな。

 あの頃のような素直な喜びはやっぱり湧かないけれど。でも、その光は確かに綺麗だと思った。


     * * *


「よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくね」

 剣を構える。

 体勢はそのままに、けれど瞬時に飛び出せるように地面を強く踏み締めた。動き出しを見逃さないよう、息を詰める。

 高い位置で一つに結えたフレジア先輩の髪が、ふわりと揺れた。

「っ!」

 地面を蹴る。動きをよく見て、攻撃をかわす。

 リーチでは敵わないから必要以上に距離を詰めない。力勝負にならないように、攻撃は正面から受け止めず横に受け流す。確実な一撃を与えられる隙を慎重に狙う。何度も何度も身体に叩き込んだ戦い方だった。

 剣先がぶつかって、鋭い音が空気を揺らす。ふっと笑ったフレジア先輩に向けて、剣を振り下ろした。

 

「ありがとうございました」

「ユリア、本当に強くなったね。あらためて、首席おめでとう」

 一時間ほどの手合わせを終えて、水分補給をしながら言葉を交わす。

「首席だったのは、座学でカバー出来たところもあるので…フレジア先輩にはまだまだ敵いません」

 最終評価点が首席だっただけで、全ての科目において成績が一番だったわけではなかった。例えば、剣術は何とか一番が取れたものの、武器なしの対人格闘である体術で一番になるのはさすがに厳しかったりと、科目によって成績にばらつきがある。

「そんなことないよ。もう攻撃だけで比べたら、ユリアの方が上手なんじゃないかな」

「そんなことは…それに、僕は守備が弱いので」

「ユリアは攻撃型だから、それでいいんだよ。逆に僕は守備型だから、攻撃には力を入れていないし」

 そうは言いつつ、フレジア先輩は攻撃もそつなくこなす。守備役に回ることが多いというだけで、攻撃役も問題なく出来るだろう。

 もっと修練を積まなくてはならない。この場所に、ふさわしくあるために。

 精進します、と返せば、根を詰めすぎないようにね、と柔らかく返された。

「昨日はちゃんと眠れた?」

 気遣うような問いに、少し迷いつつ正直に答える。

「一応…。ランゼルの部屋で、寝たんですが」

「えっ」

 驚かれてしまい、慌てて経緯を説明する。話を聞いたフレジア先輩は、どこかほっとしたように笑った。

「ランゼル様と本当に仲が良いんだね」

「…幼馴染なだけ、です」

 素直に頷けずそう返すと、そっか、と優しく相槌を打たれる。

 フレジア先輩は、カゼル様を心から慕っている。そこに、僕がランゼルに向けるような複雑な感情などないのは明らかだった。

 同じ道を歩んで、なぜそう居られるのか、聞いてみたい気持ちはあるけれど————きっと、そもそもが違うのだろうとも思う。

 幼馴染でなければ、ただの主人と従者であれば、こんな思いをせずに済んだのだろうか。いや、もしそうだったら僕は騎士なんかにはならない。

 振り払っても振り払っても、気付けば無意味な堂々巡りを繰り返す思考。騎士学校に居た頃は、全部捨てられたのに。

 あいつの側に居ると、どうしたって今まで目を背けて来た自分の心と向き合おうとしてしまう。

「…」

 これから先、僕はずっとこの感情に囚われて生きていくことになるのかもしれないと思ったら、目の前がふっと暗くなるような感覚を覚えた。


     * * *


 数日が、穏やかに過ぎて行った。

 王宮入りに向けて、今後のスケジュールの話や、これからランゼルと共に行うことになる公務についての説明などを聞きつつ、空き時間は鍛錬をして、フレジア先輩が居る時は稽古をつけてもらう。騎士学校での日々と比べると、あまりに平穏で、少し落ち着かないほどだった。

 そして、この邸宅に来てから四日が経った夜。

「…ユリア、入っていい?」

 予告された通りの時間に、ランゼルが部屋を訪ねて来た。

 了承の返事をすると、緊張した面持ちのランゼルが部屋に入って来る。

 王宮入りまでに済ませておかなければならないことの一つに、主人と花騎士の間で契約を交わすというものがあった。つまり、正確に言えば、それを行っていない僕はまだ花騎士ではない。

 刻印を刻み、騎士に服従を約束させて初めて、花騎士として認められる。刻印の目的としては二つあり、主人の作った魔剣を扱えるようにするというのと、忠誠が損なわれることがあった時に然るべき対応が出来るようにするというものだ。

 それを今晩済ませたいと言われたのが昼のこと。その時から、ランゼルはどこか浮かない顔をしていた。

「えっと…まずこれ、なんだけど」

 小さなジュエリーボックスを差し出して来る。

「魔鉱石のピアス。王族から、花騎士に贈るものなんだ」

 渡されたそれを開ける。中にはエメラルド色の宝石で作られたピアスが一つ入っていた。

 そう言えば、カゼル様とフレジア先輩も揃いのものを着けていたような気がする。ふと見てみれば、手の中にある物と同じ物が、ランゼルの耳にも着いていた。

「…」

 いつも髪を耳にかけている方にピアスを着ける。チリ、と澄んだ音が耳元で鳴った。

「…うん、似合ってる」

 ランゼルはふっと目を細める。今となっては少し苦手な笑顔で、視線を逸らしてしまった。

「じゃあ…その、本題なんだけど…刻印、本当につけてもいい?」

 どういう質問なんだと思いながら、俯いたまま返した。

「いいも何も、つけなきゃいけないものだろ」

「いやそれはそう、なんだけど…その…ユリアを縛るものなわけで…なんかあんまり気持ちのいいものじゃないし…」

 何やらごにょごにょ言い出したランゼルに、ため息を吐いて顔を上げる。

「今更そんなこと気にしない」

 やらないなんて選択肢は無い。それはランゼルも分かっているのだろう。苦い顔をして、息を吐いた。

「…じゃあ、せめてちゃんとどういうものか説明させて」

 刻印の説明は、学校でも十分にされている。別にあらためて聞くほどのことではないというのが正直なところだったけれど、どうにもランゼルが話したそうなので黙って話を聞くことにした。

 何処にいても居場所が分かる。主人の命令に逆らえなくなる。身体の自由を奪うことだって出来てしまう————ランゼルは僕の目を真っ直ぐに見つめながらそう語った。

 あらためて言葉にされると過剰なものだなとは思うけれど、僕からすればどれも大した意味はなかった。こんな契約がなくたって、ランゼルを裏切ってどうこうするなんてあり得ない。

「全部、知ってる」

 ランゼルは「そっか」と小さく溢した。

 もういいから早く済ませてくれと、言おうとして。

「じゃあ、最後に…この契約は、俺が王位継承権を失ったら解消するから」

「え?」

 それは、初耳だった。

 契約を解消————それはつまり、ランゼルの花騎士ではなくなるということを意味している。

 ランゼルが王位継承権を失ったら。ランゼルが王に選ばれなかったら、僕は。

「だからその後は、ユリアのしたいことをして欲しい」

「っ…」

 急に、未来が真っ暗になった。

 したいことって、なんだ。

 この場所に辿り着くためだけに生きて来た。それ以外の未来なんて知らない。他に居場所なんてどこにもない。

「ユリア?」

 ようやく、手に入れたのに。

「行く場所なんて…ない」

 声が震える。

「え…ほら、騎士団の団員として所属するとかも出来るし、ユリアほどの実力があれば、王宮から出てもどこだって————」

 ずっと、居場所がなかった。

 あの長い孤独が蘇る。背筋が、すうっと冷たくなっていく。

 誰も側に居てくれない。笑いかけてくれる人も、話をしてくれる人も居ない。悪意の視線に晒され、敵意を向けられて。今でも、あの頃のことを思い出すだけで息が苦しくなって、足がくすむ。

 全てを手に入れれば自分を求めてくれる場所に辿り着けると、それだけを胸に、血の滲むような努力をした。それが例え、望んだ未来でなくとも、それだけが僕の救いだったから。

 それなのに————この場所にも、終わりがあるのか。

 お前が歩ませた道なのに。用が済んだら、この手を離すのか。

「…わかった」

 心が、黒く荒んでいく。

 どうせ、なるようにしかならない。考えるだけ無駄。気に病むだけ無駄。

「もう分かったから、早くして」

 思ったより冷たい声が出た。ランゼルは戸惑いを見せたものの、何も聞いてくることはなく、ただ頷いた。

 腕につけていいかと尋ねられ、了承する。場所なんて、本当にどこでもいい。

「じゃあ、ベッドに座って…シャツ、片側だけ脱いで」

 言われた通りにする。注射でもするようにランゼルの方へ右腕を出すと、そっとその手が二の腕に触れた。

「頭が痛くなったり、気持ち悪くなったりしたら教えて」

「…わかった」

 詳しい仕組みまで知っているわけではないけれど、刻印とは魔力を送り込むことらしい。魔法の使えない人間が魔力を受け取ると中毒症状が出る可能性があるため、人によっては休憩を挟みながら行う必要があると聞いているけれど、身体的苦痛には慣れている。だから、別に大丈夫だろうと思っていた。

「やるね」

 囁きと同時に、ふわりと花の香る風が頬を掠めた————次の瞬間。

「っ…」

 何かが、身体の中に流れ込んでくる。どくん、と心臓が音を立てた。

 触れられている場所が、焼けるように熱い。痛みはないけれど、少しくすぐったいような気がする。

「ユリア、大丈夫?」

 そっと背中を撫でられ、首を縦に振った。

「ほんとに? 苦しくない?」

 口を開いたら意図しない声が出てしまいそうでもう一度頷きを返したのだけれど、ランゼルの心配は止まらない。

「辛いなら、我慢しないで教えて」

 何も言わずにいると本当に中断されるかもしれないと思い、仕方なく口をひらく。

「へ、き…だから」

 いいから黙ってやってくれ、とまでは言葉に出来なかった。少しでも熱を逃したくて、息を吐き出す。

 こうしている間も、ずっと熱い何かが身体の中をぐるぐると渦巻いている。次第に頭がぼうっとしてきて、目を閉じた。

「っ…は…」

 熱を出した時みたいに、身体が重くて気怠くて、息が苦しい。けれど、なぜだか苦痛も不快感もなかった。

「ま、だ…?」

 身体に力が入らなくなってくる。横になりたいと思ったけれど、肩を抱き寄せられてランゼルに寄りかかる形になった。花の匂いに包まれて、頭がくらくらしてくる。

「ごめん、もう、ちょっと」

 宥めるように、肩を優しく撫でられた。

 熱くて息苦しい。でも、不思議と安心もする。ものがあまり考えられなくなっているからだろうか。悲しみも苦しみも鈍っていくのが、心地良かった。もう少しこのまま、泥沼に沈んでいるのもいいかもしれない————。

「…ユリア」

 耳をくすぐるような呼びかけに、重い頭を持ち上げた。

「もう、終わるから…ごめん」

 何に対する謝罪なんだろう。

 目が合う。少し異質な紅い瞳も熱っぽくて、刻印をする側も苦しい思いをするものなのだろうか、なんてことを思った。

 印の刻まれた腕を、ランゼルがゆっくりと持ち上げる。

「…?」

 何をするのだろう。されるがまま、ぼんやりとランゼルの動きを見ていたら。

 ぽつりと、それらしい呪文を溢して————印に、口付けをした。

「ッ————!」

 身体が、燃えるように熱くなる。

 鎖で身体を縛り上げられるような感覚。胸が苦しくて、息が詰まる。

「は…っ、…」

 これは、支配だ。

 この人に逆らってはならないのだと、本能に刷り込まれる。服従しなかったら、この身は簡単に滅ぼされるのだろう。

「…ユリア」

 そんな強い支配とは裏腹に、その声はとても優しかった。

 目が合って、微笑まれる。力の入らない身体を、ランゼルがベッドに横たわらせてくれた。

「苦しくない?」

 額にかかった髪をそっと撫でる手。

 熱は引かない。頭もぼうっとする。息は出来るようになったけれど、苦しいか苦しくないかで言えば、たぶん、苦しい。

「…」

 けれど、優しく撫でてくれる手に安心もしていて————何も言わず、目を閉じてその手に擦り寄った。

 視界を遮ると、意識もゆっくりと暗闇に飲まれていく。

「ユリア、俺は————」

 ランゼルの声が聞こえたけれど、何を言っているのかは分からなかった。




 ————ユリアー!!

 呼び声に振り返る。いつもいつも声が大きいんだ。目の前に居るんだから、そんな大きな声じゃなくたって聞こえるのに。

 ————昨日習った魔法、見てくれ!

 いいよ、って返したら、すぐに手を繋がれて引っ張られる。何をそんなに急いでるんだと呆れてしまう。何度引っ張るなって言っても全然聞かないんだから。

 ————この水を使うんだ。見ててね。

 言われた通り、水道から汲んできたバケツいっぱいの水をじっと見つめる。

 すると、その手の動きに合わせて、水が宙を舞った。

 きれいだ、すごい、そう伝えれば、きらきらと目を輝かせて嬉しそうに笑う。

 この顔を見るのが好きだった。

 ああ、好きだったのにな。

 ————あっ…!

 水が重力に従って落ちて来る。その下にいた僕らは、頭から水を被ってしまって。

 ————わーっ! ごめん! ごめんユリア!!

 自分もびしょびしょなのに、どうにか僕を拭こうと右往左往するのがどうにもおかしくて、吹き出してしまった。

 バカだなぁ、本当に。始業前にこんなびしょ濡れになって、また怒られちゃうよ。お前と居ると、こんなことばっかりだ。

 顔を見合わせて笑い転げる。水に濡れるだけでこんなにも笑えてしまうことが、幸せだった。

 あれは確かに、幸せな思い出だった。




 何か、夢を見た気がする。

「ん…」

 誰かに頭を撫でられている。誰か、なんて、ひとりしかいないけれど。

 目を開けると、紅い瞳がこちらを見下ろしていた。

「身体はどう?」

 ふわふわした優しい声と、撫でるのをやめない手に気まずくなって視線を逸らした。

「…もう、大丈夫」

 上体を起こすと、すっと手も下ろされた。

 どれくらい寝ていたのだろうと時計を探して、それに気付いたランゼルが、三十分くらいだよ、と囁いた。

「じゃあ、俺は部屋戻るね。今日はもう安静にして、早めに休んで」

 ランゼルの方を見れないまま、おやすみ、という挨拶に同じ言葉を返した。

 ぱたん、とドアが閉じて、深いため息が漏れる。

「…はぁ…」

 熱は治ったものの、奇妙な感覚は依然としてそこにあった。

 こうして側に居なくとも、確かなもので繋がっているのが分かる。ずっと見られているような、全てを掌握されているような、そんな気分になって落ち着かない。

 身体に擦り込まれた主従関係は、思考にまで入り込んでくることこそないものの、身体の自由程度は簡単に奪われるのだろうということが感覚的に分かった。古くは複数の騎士にこの印をつけて管理していたというのも頷ける。

 ただ————単に、主従関係を確約するためのものとも、少し違うような気がして。

「…」

 印の刻まれた腕をそっと撫でる。半分脱いでいたはずだけれど、シャツは元通りに着せられていた。

 そこに触れた手のひらの、指先の、唇の、熱が蘇る。

 あの熱は、魔力によるものだけじゃない。魔力と一緒に流れ込んできたあれは、たぶん、ランゼルの気持ちだ。

 そして、その感情の正体は————。

「…お風呂入って、寝よう」

 これ以上考えたら、答えは簡単に分かってしまいそうで、思考を遮断する。

 着替えとタオルを持って浴場へ向かった。客室にはシャワールームが無いため、大浴場を使わせてもらっている。

 階段を降りて廊下を歩いていると、ぱたりとその人と出会った。

「あれ、ユリア」

 お疲れ様、と微笑むフレジア先輩に頭を下げた。

「お疲れ様です。訓練ですか?」

「うん、軽くね。これからお風呂なら一緒にどう?」

「はい、ぜひ」

 気が紛れてありがたかった。一人でいると、余計なことを考えてしまいそうだから。

 しかし、脱衣スペースで服を脱いだところでそれを目にしてしまい、手が止まった。

「…」

 腕にくっきりと焼きついた、花を模した円形の紋様。ランゼルが魔法を使う時に現れる魔法陣と同じもののようだった。

「刻印、入れていただいたんだね」

「あ…はい…」

 何となく気恥ずかしくて、上擦った声で返事をしてしまう。フレジア先輩はくすりと笑った。

「不思議なものだよね。とても合理的だとは思うけれど」

「そう…ですね」

 合理的。やはりそういう捉え方でいいのだと、少し安堵する。

 あくまで、主従関係を形にするための契約で、それ以上でもそれ以下でもない。その他の意味を探す必要はない。

「気分は大丈夫? 具合悪くなったりしてない?」

「少し眠ったので、もう大丈夫です」

「そっか。ちょっと苦しいよね、あれ」

 フレジア先輩は結い上げていた髪を解く。ミルクティー色の髪が背中に広がった。

 そしてシャツのボタンを一つ、二つと外して。

「…!」

 そこに刻まれた印に、思わず息を飲んでしまった。

 左の胸元に咲く花。そうか、場所は人によって違うのか。確かに、ランゼルも位置がどうこう言っていた。

「…そんなに見られると少し恥ずかしいかな」

「あっ、ご、ごめんなさい」

 慌てて視線を逸らす。すると、隣からくすくすと笑い声が聞こえた。

「すごい位置だなと思ってる?」

「いや…えっと…」

 正直、思ってしまった。あんなことを、この位置にやったのかと。

 しかし、さすがに頷くことも出来ない。言葉に迷っていると、ふっとフレジア先輩が優しく笑った。

「…カゼル様は、愛情深いお方だから」

 愛情深い、というか。その場所に印をつける心理を思うと、それ以上の何かがあるように思えてしまうけれど。

 あと、僕のものよりも印が濃くてはっきりとしていた。次第に定着していくものなのだろうか。

「お風呂、誰かと入りづらくなるよねこれ。僕らはあまりそういう機会も無いけれど」

 王宮の花騎士の個室にはシャワーがついているらしいよ、と話すフレジア先輩とともに、浴室に入る。身体を洗って、プールのような大きな浴槽に浸かった。

「この印って、実際にはどんな場面で使われるんですか」

 二人しかいないし、少し聞いてもいいだろうかと問いかける。フレジア先輩は、うーん、と考えてから話をしてくれた。

「普段はそんなに使うことないかな。位置が正確に分かるから、魔法をかけやすいっておっしゃっていたのと…あとは、声の届かない距離にいる時でもカゼル様からの指令が届いたりとか、それくらいだよ」

 確かに、悪魔狩りの時には有用そうだと思いながら相槌を打っていると。

「落ち着かない?」

「え?」

 首を傾げると、フレジア先輩はにこりと笑った。

「印、ずっと触っているから」

 はっとする。無意識のうちに、左手は右腕をさすっていた。言い逃れも出来ず、少し気まずさを抱きながら素直に答えた。

「…なんか、ずっと見張られているような気がして」

 繋がっている、という感覚に心がそわそわする。早く慣れてしまいたかった。

「ふふ、分かるよ。未だにちょっとドキドキしてしまうもの」

「え…もう数年経っているのに、ですか」

 驚いて問い返すと、フレジア先輩は曖昧に笑った。

「普段はもう何も気にならないんだけれど、ふとした時にね」

 ふとした時とは、どんな時を指すのだろう。分からないけれど、それだけの時間が経っても気になる瞬間があると言うのなら、そもそも数日程度で慣れるようなものでもないのかもしれない。

 フレジア先輩が花騎士になってから四年。僕にとっては、すでにとても長い年月で————。

 僕は、そんなに長くランゼルの騎士で居られるんだろうか。

「…あの」

 不安に背中を押されて言葉が溢れる。

「いつまでの契約なのかという話を…カゼル様はされましたか」

「え?」

 ぱちり、と目を瞬く。

 それから、躊躇いがちに答えた。

「期限は無いって、言われたけれど…」

 ああ、やっぱり。

「…そう、ですか」

 そういうルールなんじゃない。ただ、ランゼルがそうしようと決めただけだ。

 王座争いに決着がついて、ランゼルが次期王にならなかった場合、僕はもう要らないと、そういうことなんだろう。いつ来るか分からない終わりのことを考えるとひどい目眩がして、僕は薄く息を吐き出しながら目を閉じた。

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