第1話 再会

 鏡の前に腰を下ろす。

 髪が少し長い。そろそろ切りたいなと思いながら漆黒の髪をブラシでとかし、耳の下で一つに結いた。

 真紅のリボンを手に取る。遠い日に、ユリアが選んでくれたもの。瞳の色と同じだから良く似合うと、そう小さく笑ってくれた。

「…よし」

 支度は済んだ。あとは、その時を待つだけ。

 緊張と、不安と————少しの、期待。

 浮かれている場合じゃないと分かっていても、どうしたって嬉しいと思ってしまう心は抑えられない。

 ぱちんと頬を叩く。だらしない顔で出迎えるわけにはいかない、間違ってもユリアを不快にさせないよう、冷静に、落ち着いて————。

「失礼いたします、殿下。ユリア様がご到着されたようです」

「!」

 思わず勢いよく立ち上がってしまい、ガタンと椅子が音を立てた。

 声を掛けてくれた使用人に礼を言って部屋を飛び出す。廊下を走って広間の階段を降り、開け放たれた扉から外へ出て正門に向かう。

 バクバクと高鳴る鼓動。逸る心のまま、地面を蹴った。

 正門の前には一台の車が停まっていた。そしてそこにはその姿があって————足が、止まった。

「…」

 彼は荷物を下ろし、運転手に頭を下げる。車が走り去っていくのを見送って、それから、こちらを振り返った。

「…!」

 金色の髪が、風にさらわれて揺れる。色素の薄いパープルの瞳が、俺を捉えた。

 綺麗だ、なんて。

 この胸にずっと燻っている熱すらも、罪深いものだと思っていた。しかし勝手に湧き上がるこの感情を消すことは、どうしたって出来なかった。

 止まってしまった足を動かして、佇む彼の元へ向かう。

「久しぶり、ユリア」

 手を振る。

 ユリアは手を振り返すこともなく淡々と言った。

「二ヶ月ぶりじゃない」

 ふい、と顔を逸らされる。ユリアは髪を耳にかけると、地面に置いていたトランクを持ち上げた。

「あ、荷物持つよ」

 何の気なしに言ったのだが、返されたのは呆れたようなため息だった。

「持たせられるわけないだろ」

 主人に荷物を持たせる従者がどこにいるんだと一蹴されて、その言葉に、思わず息が詰まった。

 今の俺とユリアが主従関係にあることは、当然分かってはいた、けれど。

「…」

 この確かな上下関係は、これから先ずっと俺たちに付き纏うのだろう。王宮に入ってからは公の場に出ることも増えるだろうから、きっと常に主人と騎士としての振る舞いを求められる。

 寂しい、というのが素直な気持ちだった。

 でも、ユリアからすればもう俺は友人と呼びたい相手ですらないのかもしれない。それならば、正しい関係性が何かなんて、どうだって————。

「ランゼル?」

 名前を、呼ばれた。

 顔を上げる。そこには、動かない俺を不思議そうな顔で見ているユリアが居て。

「どうしたの」

「…いや、何でもない」

 関係も、気持ちも、全部変わってしまった。けれど、ユリアは今も変わらず、俺を名前で呼んでくれる。

 それだけで、今は十分だと思った。

「案内するよ。みんなにも紹介させて」

 駆け寄って笑いかければ、うん、とユリアは頷いた。


 荷物を使用人に任せ、ユリアを連れて各部屋を巡った。王宮に比べれば小さいが、建物としてはそれなりに大きい。説明したり挨拶をしながらだったのもあり、全て回り終えるのに小一時間ほどかかってしまった。

「…で、ここがユリアの部屋」

 これから七日ほど、ユリアはここに滞在することになる。王宮入りの準備をするために設けられた期間だ。

「分かった。ありがとう」

 ユリアは部屋に入っていく。俺もその後に続いた。

「ちなみに、隣はフレジアさんの部屋だよ」

「そう」

 彼と面識があるはずの人の名前だった。その名を出したことで、ふとそれを思い出す。

「そういえば、そろそろ兄上たちも帰って来る頃だと思うんだけど…」

 俺には兄が一人いる。六つ離れた兄のカゼルは、俺にとって尊敬と憧れの対象だった。

 そして、その兄の花騎士が、フレジア・アーデンテ。兄より二つ下のその人も、ユリアと同じく騎士学校を出ていて、三年ほど在学期間も被っているため、ユリアとは知り合いなはずだった。

 フレジアさんは、学校を卒業してすぐに花騎士となった。天涯孤独らしく、卒業からずっとここに住み込みで働いていて、すでに四年が経っている。卒業以降も定期的に騎士学校へ行っていて、その時にユリアとも顔を合わせていると言っていた。

 四年も一緒に暮らしているので、俺もフレジアさんとは色々と話をして来たけれど、ユリアの話はあまり聞いたことがなかった。少なくとも、フレジアさんの方からユリアの話題を持ち出してきたことは一度も無かったような気がする。だから、二人がどういう仲なのかも俺はよく知らなかった。

 考え始めたら気になって、ユリアに声を掛ける。

「…ねぇ、ユリアとフレジアさんって————」

 しかし、話し出したと同時に鐘の音が鳴り響いた。

「なに、この音…」

 ユリアは音の出どころ、正門の方に視線を向ける。

「ああ、兄上たちが帰ってきたんだ」

 窓を開けてベランダに出た。

 門のところに、その姿を見つける。編み下ろされた鮮やかなエメラルドグリーンの髪が兄上。ミルクティーのような柔らかな色のポニーテールがフレジアさん。見慣れた組み合わせだ。

 兄上の宝石のような髪色は、父譲りだった。俺の黒髪は特に誰の遺伝でもない突然変異のようなものなので、小さい頃からその色に焦がれていた。

「兄上ー!」

 ユリアの部屋は三階だから、叫べば声が届いた。

 兄上が振り返る。隣に居たフレジアさんもこちらを向いた。大きく手を振ると、兄上もひらひらと手を振り返してくれる。

「…」

 ユリアもベランダに出てくる。そして兄上の姿を見つけるなり、胸に手を当てて深く敬礼した。

「行こ!」

 ユリアの手を取って部屋に戻る。そのまま部屋を出て、小走りで階段を降りた。

 外に飛び出すと、二人はそこで待ってくれていた。

「おかえりなさい兄上!」

「ただいま、ランゼル。————ユリアも、よく来たね」

 出迎えに間に合わなくてすまない、そう言った兄上に、ユリアはふるふると首を振った。

「本日より騎士の役を拝命いたしました。よろしくお願いいたします」

 丁寧に頭を下げたユリアに、兄上はくすりと笑った。

「ふふ、ユリアも大人になったね。ついこの前まで、ランゼルとこの庭を走り回っていたのに」

「え…それは…あの」

 兄上の言葉に、ユリアは困った顔をする。

「いや、さすがにこの前ってことはないのでは?」

 口を挟めば、「そうかな?」と兄上は首を傾げた。ユリアとここで遊んでいたのなんて、もう十年近く前のことだ。兄上ですら、まだ十五やそこらだったはず。

「ユリア、元気?」

 にこやかに俺たちを見守っていたフレジアさんが、ユリアに声を掛けた。

 そして、その瞬間。

「はい。お久しぶりです、フレジア先輩」

 ユリアの表情が、柔らかく解けた。

「…!」

 思わず、息を呑む。

 こんな顔、するんだ。

 誰に対しても心を閉ざしてしまったのかと思ったけれど、そうではなかったのかもしれない。ただ、俺が笑顔を向ける対象ではなくなったというだけで。

「三ヶ月ぶりくらい? 聞いたよ、首席で卒業したんだってね」

 おめでとう、という言葉に、ユリアは嬉しそうに微笑む。

「ありがとうございます。先輩に稽古をつけていただいたおかげです」

「力になれたのなら良かった。僕もうかうかしてられないな。もう先輩面出来ないくらい、ユリアも強いから」

 二人は気心の知れた様子で朗らかに言葉を交わす。

「師弟水入らずで少し話すといい。私たちは席を外そうか、ランゼル」

「…はい」

 またあとで、と二人に声をかけて去る兄上。俺も後について行ったけれど、頭の中はモヤモヤでいっぱいだった。

 二ヶ月も三ヶ月も変わらないじゃないか。俺には、久しぶりだなんて言ってくれなかったのに。

 くだらない嫉妬だ。ユリアに笑いかけてもらえない理由なんて、他の誰よりも分かっている。

「…今日の公務はどうでしたか?」

 気を紛らわせたくて問いかけた。

「特に問題はなく終わったよ。ただの下級悪魔だったからね、フレジアと二人で行ったんだけれど、あれは私が居なくても大丈夫だっただろうね」

 人々の生活を脅かす悪魔を狩ること————それが、王家の血を継ぐ者に定められた使命だった。十八で成人した王族は皆、公務として悪魔狩りを行う。

 悪魔との戦いは王家設立時から続いているものだが、未だそれらについては不明なことばかりだった。なぜ悪魔が出現するのか、何を目的としているのか、全く分かっていない。やつらは、出会した人をただ殺す。食べるわけでも、遺体を何かに使うでもなく、本当にただ命を奪うだけだった。

 分かっていることは、悪魔は魔法でしか狩ることが出来ないということのみ。しかし、悪魔を倒す魔法の発動には長い時間がかかるため、花騎士が魔法で生成した魔剣を使い、魔法を展開するまで王族の盾となる役を担っていた。

「フレジアさんだけでも…やっぱり、すごい人ですね」

 魔剣を使えば理論上騎士の力だけでも討伐は可能ではあるものの、やはり直接魔法で攻撃するのと、剣で戦うのでは大きく威力が異なる。騎士が剣一つで悪魔を仕留めるのには、かなりの実力が必要なはずだった。

 フレジアさんも、四年前に騎士学校を首席で卒業している。とても優秀な人であることは知っていたし、剣を振るう姿も見たことはあるけれど、あらためてその実力が相当なものなのであることを思い知らされる。

 そんな人に、ユリアは稽古をつけてもらっていた。慕うのだって、頷ける。兄上の言ったように、ユリアにとって、フレジアさんは頼れる師のような存在なのかもしれない。

「…フレジアにユリアを取られていじけているのかい?」

「えっ」

 顔を上げる。兄上は、悪戯っぽく笑っていた。

「いや、まぁ…そら…ちょっと羨ましいですけど…」

 でも、正直、少しほっとしたところもあった。

 ユリアにも、心穏やかに話せる人がちゃんといた。しかも、同じ兄弟に支える花騎士だ。これからもきっと、フレジアさんはユリアの心の支えになってくれるだろう。

 フレジアさんを見上げながら何かを言うユリア。それを受けて、口元に手を当ててくすくすと笑うフレジアさん。

 何やら楽しげに話をする二人を見ていたら、素直な言葉が溢れた。

「…ユリアが嬉しそうで、安心しました」

 ユリアに拒絶されてから、一度だってあんな顔は見たことがない。

 よかった、今もあんなふうに笑えて。心許せる人が居て。

「それは、そうだね。…フレジアも、嬉しそうだ」

 深緑色の瞳を細める兄上。その優しい横顔を見上げながら、そうですね、と返す。

 二人には、同じ環境で時間を過ごしたからこその関係値があるのだろう。ユリアが安心して話せる人が居ることは、喜ばしいことだ。

 これから先、王宮入りしてからの生活がどうなるのかは俺にも分からない。公務として悪魔狩りをしながら生活をし、その中で現王が跡取りを選ぶ、ということだけしか聞かされていなかった。けれど、そもそも悪魔狩りは命懸けだし、花騎士というのはそれだけでしがらみも多いだろう。何か辛いことがあった時に、ユリアの頼れる人が近くに居てくれるのはありがたかった。俺では、その役は担えないだろうから。

 窓の外で微笑むユリアを見つめていると、「ランゼル」と兄上にそっと名前を呼ばれる。

「ユリアのことが知りたいのなら、フレジアに聞いてみるといい」

「フレジアさんに…?」

 兄上は穏やかな声で、うん、と頷いた。

「私にはたまに話してくれるんだけれどね、色々とエピソードもあるみたいだから」

 エピソード————一体、どういうものだろう。良いことか悪いことか、その両方か。分からないが、兄上がこう言ってくれているのだから、聞かない理由はない。

 そうしてみます、と返す。兄上はただ頷いて微笑んだ。

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