第6話

「友達は無理に作るものじゃないよ」


 大野さんは優しく諭すように言った。


「君に必要なのは友達じゃない。さっき僕は『愚痴をこぼす相手』と言ったんだ。これは必ずしも友達である必要はない。家族でもいいし、SNSや掲示板なんかで呟いてもいいし、カウンセラーでも、バーやキャバクラでもいいし、その辺を歩いている人に声を掛けたっていい。『僕の話を聞いてください』って。君は足りないものだらけなのに、逆に一番持っていてはいけないものがある。それはね、無駄なプライドだよ」


 俺は軽く鼻を啜り「プライドを捨てるのは良いことなんですか?」とちょっと嫌味っぽく返す。


「もちろん、プライド自体は悪いものではない。仕事をする上でも、人生を謳歌するって意味でも、プライドは大事だと僕も思う。でもね、君が持っているのは無駄なプライドなんだ。自分が傷つかないためだけに抱え込んだプライド。ただ自分の心を守るためだけに、何重にも纏ったプライドが、君を他人との関わりから遠ざけ、剰え自死へと誘導してしまった」


 俺は何も言えない。返す言葉もないってのはこういう時に使うんだろうなとか見当違いのことを考えてるだけだった。


「君は話す言葉を持っている。実際、今僕に君の半生を――反省すべき半生を語ってくれたじゃないか。だから君は他人とのコミュニケーションも取れるし、必ずしも他人を不快にするだけの男じゃない。僕が保証する。君は馬鹿でも無能でもない。できることがあるのに、それを見つけられていないだけだ。話す相手がまだ見つけられていないだけだ。自分を活かせる場所を、見つけられていないだけなんだよ」


 突然視界がぼやける。なんでだ? 泣いているからだ。


 俺は目元が熱くなるのを感じながら、ボロボロと大粒の涙が頬を伝って零れ落ちていくのを見下ろす。


 俺は、まだ出会ってなかっただけなのか……?


 俺を大事にしてくれる相手と。俺を必要としてくれる会社と。そして、自分を活かせる場所にも。


 大野さんは儚げな表情で、涙が止まらない俺を黙って見つめていた。

 俺は何か言わなきゃと思うんだけど、口を開いても泣き声しか出ないことが判るので、無言で泣き続けることしかできない。


 五分が経ち、十分が経った頃、俺は少し落ち着きを取り戻していて、大野さんは夜空を見上げている。


「菅原くんも、空を見上げてごらん」


 言われるがまま首を後ろに逸らすと、嘘みたいに眩い光の群れが煌々と犇めいていて、焚き火よりも明るく感じてしまう。


 下を向いてばかりだった俺は、頭上にこんなにも美しい光がきらめていることに気付きもしなかった。山頂に近いこの場所だと、星に手が届きそうだという錯覚すら覚えるくらい、ひとつひとつが鮮明に見える。


「今日は満月だね。月も綺麗だ」


 大野さんは俺に視線を戻し、コーヒーを口にしてから言う。


「これだけ空に近い場所だと、星が掴めそうだよね。しかし星は掴めないんだ。そんなこと誰でも判ってる。それでも、星を掴もうと手を伸ばしてみることで、何かが変わることだってあるんだよ。君は今まで手を伸ばさなかった。何かを得ようとしてこなかった。手を伸ばさなくても身近にあるものだけで自分を推し量って、人生を知り尽くしているような気になって、ただ目の前のものだけをひたすら享受しながら生きてきた。……でも、今は違うよね?」


 下手くそなウインクをする大野さんを見て、俺は思わず笑ってしまう。


 大柄な男が――まして四十を過ぎた男のウインクなんて初めて見たし、本人も気付いているのか、照れ隠しの咳払いを何度もしていたのがまた滑稽で可笑しかった。


「大野さんの言っていること、……言ってくれたこと、俺、判ったような気がします」


 全部知っていると思い込んでいた。全部無理だと思い込んでいた。自分の限界を決めて、何もしないことで自分を守ろうとしてきた。


「自殺するには早過ぎますね。まだ俺、できること、やってないことだらけでした」


 たかだか十社で落ちこぼれを披露したくらいでなんだと言うのだ。

 たかだか数百人に落ちこぼれと思われたくらいでなんだと言うのだ。

 俺はまだやれる。ここからいくらだって巻き返せる。


 生まれて初めて人前で泣いてしまって、それが物凄く恥ずかしくもあるけれど、でも悪い気分じゃない。むしろ晴れ晴れしいくらいだ。大野さんの言う一期一会って、こういう良さがあるんだろうな。


「なんかすいません。色々話を聞いてもらっちゃって」

「いやいや。こっちから誘ったんだし、それくらいなんでもないよ」


 礼には及ばないと軽く手を振る大野さんに「そういえば大野さんって何してる人なんですか?」と今更ながら尋ねる。


「サイクルショップを経営してるんだ。町の自転車屋さんってやつだね。まあ、親父から受け継いだ小さい店だけどね。地域密着ってやつかな?」


 なんか、納得してしまった。


 この人は、なんか機械とかをいじってるのがよく似合うイメージだったから、整備士とかそういう職業に就いていると思っていたから。それに、人の話をよく聞くし、適度な相槌も、接客をしている人のそれだった。


「ま、ほそぼそとやってるけど、普通の暮らしは出来てるからね。それなりに人生楽しんでるよ」と大野さんは幸せそうな笑みをこぼす。


「息抜きとかはしないんですか? ストレス溜まった時とか」


「お、いいね。早速自分のストレス発散のヒントを得ようとしてるな。そうそう、そうやって話を聞くことが大事なんだよ」


 茶化すように言いながらも、俺の質問に応えてくれる大野さん。


「僕は食事だね。特別な食事。普段食べれないようなものをお腹いっぱい食べるのが何よりのストレス解消方法なんだよ」


「あー、でも判りますよ、俺も。食べ放題とか一人で行ったりしますし」


 もちろんたまにではあるけれど。

 でもやっぱり年齢に関係なく、食事で発散する人って多いんだな。


「食べ放題かー。まだ若いからね、菅原くんは。いくらでも食べれるだろうな。でもさ、何でも新鮮なのが一番だよ」


 確かに、魚にしろ肉にしろ、採れたてとか産地直送みたいな文言があるだけで美味さが増す気がするし、海沿いの町だと新鮮な魚介類で溢れているとか言うもんな。


「ま、人それぞれだけどね」

「そう……ですね」


 何だか、眠くなってきた。


 自殺を決意したこともあって興奮していたのか、昨日はあまり睡眠がとれていなかったし、ロープウェイを使ったとはいえ慣れない山登りをしたり、その上泣いたり怒鳴ったりで疲れてしまったのだろうか。


「そういえば……大野さん……ここでは何も……食べないんですか」


 ウトウトとしながら俺は目を擦り、何とか会話を続けようとするけれど、睡魔が強過ぎて、何度瞼を開けても閉じられてしまう。


「はは、僕は現地調達が基本だからね。なんでも採れたてが美味いから」


 はははと俺も笑い返すけれど、口をちょっと歪ませるだけで声も殆ど出ない。


 とうとう握力もなくなってきて、手に持っていたマグカップを落としてしまう。


 一瞬焦ったけれど、割れた音がしなかったから多分大丈夫だろう。いやでも折角コーヒーを入れてくれたのに……ああ、全部飲み干してたから溢れてもいないか。まあここは部屋じゃないからこぼしても文句言われないよな……。


 思考も定まらないし、もう殆ど閉眼しっ放しの俺の目の前に大野さんは立つ。


「いやー、本当にありがとうね、菅原くん」


 お礼を言うのはこっちの方ですよ、大野さん。


 でもそれは心で思うしかできなくて、俺は何とか睡魔に抗い辛うじて薄目を開ける。


 そして、大野さんの右手に包丁みたいな刃物が握られているのを薄っすらと視認する。


 あれ、いつの間に――


「それじゃあ菅原くん」


 俺が最後に見たのは、一層火力を増した焚き火の炎と、両手を顔の前で合わせた大野さんの姿だった。


そして、大野さんの心地よいテノール声が微かに耳に届き、俺の意識は完全に途切れた。


「いただきます」

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満天の星空に啼く 入月純 @sindri

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