第4話

「じゃあ、僕の考えを伝えよう。……と、その前に、長く話して喉が乾いただろう。話しながら咳き込んでたし。コーヒーで潤したらいいよ」

 優しい口調と表情で手のひらを上に向けて大野さんは言った。

 確かに、普段誰とも話さないから、喉が張り付いているというか、食道やら気管やらが狭くなっているような感じがしていて、声を出すとむせてしまうのだ。

「じゃあ……少しだけ」

 一口、コーヒーを啜る。やっぱりだいぶ温くなっていて、俺にとってはちょうどいいとも言える温度だった。でも、コーヒーよりも俺は大野さんが何を言うのかの方が気になっていたので、今度は俺が大野さんを促す番だった。

「……うん、じゃあ、少し僕の考えを言わせてもらうね」

 俺はどんな説教がくるのかと身構える。

「――あ、その前に、ふたつ質問してもいいかな?」

 なんというか、大野さんも緊張感を纏っているように見えたから、いきなり結論を言われる気がしていたので、まさかのスカしに拍子抜けさせられてしまい、脱力しながら「どうぞ」と返す。

「じゃあひとつめね。菅原くんは嘘を吐くのが好き?」

「は? ……別に好きじゃないですけど」

 俺の話した経歴が作り話だとでも思ったんだろうか。流石にそれはちょっと失礼過ぎるんじゃないかという非難がましい視線を向けると、大野さんは俺の曲解を否定する。

「ああ、別にさっきの話が嘘だなんて思ってないよ。誤解させたなら悪かった。……でも、そうか。嘘は嫌いなんだね。じゃあ、僕らの会話に一切の嘘は挟まないと誓えるね?」

 何かしらの誘導尋問みたいに感じて俺は少しだけ警戒するけれど、別に嘘を吐くつもりなんて元々なかったし、こんな約束をしたところで困ることなんて俺にはない。

 首肯で意思表示をした俺に、大野さんは満足そうに頷いてから「よし、じゃあもうひとつの質問だ」と前置きし、次いで意味のわからないことを言い出す。

「もし君が君に会ったら彼に対してどんな感情を抱く?」

「…………」

 大野さんの質問を頭の中で咀嚼してみるものの、いまいち質問の真意が掴めずに、素直に意図を問う。

「どういう意味かわからないので応えようがありません」

 すると、彼は顎を捻らせ、うーんと何かしら思案した後、同様の質問を言葉を変え言い直す。

「ええと、じゃあ、もし君が君と全く同じ人生を歩んできた人間と出会ったとして、君と同じように打ち拉がれていたとしたら、君はどう感じて、彼にどんな言葉を掛ける?」

 俺みたいな奴がいたら……。

「そんなの考えるまでもないですよ」

 そんなの決まってる。俺がして欲しいことをすればいいんだから。

「俺は……」

「――俺は?」

 大野さんは優しく微笑みながら、俺の言葉を待つ。

 しかし、俺は何も言えない。

「簡単だと思うけど? 君が欲しい言葉を口にすればいいんだから」

「……」

 俺が欲しい言葉。

 俺は、なんて言って欲しいんだ?

 俺は俺に――いや、大野さんに、なんて言って欲しいんだ?

「……判らないみたいだから、僕が代わりに応えよう。君はね、同情して欲しいんだ。同調してもらいたいんだよ。頑張ったねって、辛かったねって、そうやって慰めて欲しいんだ」

 俺は顔が赤くなるのを感じる。幸いというか、辺りは夜闇に包まれていて、俺の顔を照らす赤い焚き木のせいもあって多分見ただけでは判らないだろう。

 赤面しながら、辛うじて「別に」とだけ言う。

「別に、慰めてもらおうなんて思ってはいないって? いや、君は慰めて欲しいんだよ。自殺を止めて欲しいんだよ」

 俺の心情をまるで全てお見通しみたいにつらつらと語る大野さんに対して苛立ちが募り始めていたけれど、彼の言った内容に間違いはないということを、俺は誰よりも知っている。

 二の句を告げない俺に、大野さんは少しだけ意地の悪い笑みを浮かべながら「あれ? さっき嘘は言わないって約束しなかったっけ?」と揶揄うように言う。

 歳下とはいえ、ここまで子供扱いされると流石に腹も立ってくるけれど、彼の言うことは一から十まで正しいことくらい、精神的に大人になりきれていない俺にだって理解できている。

「君はもうひとつ勘違いをしてるよ。僕は君を責めているわけではないし、君は何も悪くなんてない。ただ、なんというか、足りてないんだよ――色々と」

 足りてない……? 頭が足りてないという罵倒なのだろうかとしか思えない俺はだいぶ追い詰められていて、ネガティブな方にしか物事を考えられなくなっているみたいだ。

「はは、まあ順を追って話そう。……まず君に足りないもののひとつめ。君は今まで何社で働いてきた?」

 高校生の頃のバイトも入れると、多分十社くらいだろうか……。

「僕に言わせたら、たかが十社でしか働いていないのに、自分を無能だと決めつけるなんて、勇み足にも程があるんだよ」

「たかがって……」

 十社だぞ? 俺は、十箇所の職場で働いてきたんだ。

 それに、俺が自分を無能だと断じた理由は仕事での失敗だけではない。

 学生時代から何をやっても上手くいかなかったこと――成功体験がないことからでもあるし、日常生活だってヘマをしてばかりなのだから、これで自分を有能視する方がどうかしているだろう。

「世の中には無能と有能の二種類しかないわけじゃないんだよ。二元論で考える癖は良くないね。それと、君は十社も――という言い方をするけれど、日本には今いくつの事業所があるか知っているかな?」

 俺は頭を振る。

「五百万だよ。一万でも多く感じないかい? それが更に五百倍だ。企業数だけでも三百万以上ある。しかもこれは日本だけだ。世界中となると、何倍になるだろうね。……何が言いたいか判るかい?」

「……もっと、色んな会社で働いてみろってことですか」

「そうだよ。君がミスをした職場の人間は君に対して冷たかっただろうけれど、仮に君が一万社で働いたとしたら、その中の一社くらいは君のミスを笑いながら受け止めてくれる企業があるかもしれないし、そもそも君が一度足りともミスをしないで雇用を終えることができる、相性バッチリの職場と出会えるかもしれない」

 ……言わんとしていることは判る。でも、日本は転職者に厳しく、数ヶ月で退職しているような人間を雇う会社ばかりじゃないのから、大野さんの言っていることは実現不可能だ。

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