後編
「うるせー、ついてくんじゃねーよ」
これまでも店の前で、何度も似たような会話を交わしたことがあったけど、今夜のアーベルは特別しつこかった。あっという間に追いつかれ、後ろから手首をつかまれた。
「逃げるな」
「ちょっ……」
穴のあいた手袋と、少し袖が短くなったコートからむきだしの手首が、アーベルの氷のような手につかまれて一瞬、虚をつかれてしまう。
(つ、つめてー……ってコイツ、あんなあったかそうなコート着てるのに、なんでこんなに冷えてんだ?)
つかまれた手首から熱をうばわれそうで、驚きのあまり足の動きが完全に止まってた。振りかえると、少しだけ息を切らした男の顔があった。その唇は色を失い、顔からは血の気が失せていた。
(もしかして、ずっと外に立ってたのか……?)
乱れた呼吸が視界を白く遮る中、お互いの息が整うのを待つ。アーベルはつかんでいた手首をゆっくり離すと、身につけているマフラーを外した。
「これを」
「え……」
フワリと巻かれた白いマフラーは、アーベルの体温が残っていて、とてもあたたかかった。だけど彼の顔色の悪さに気づいた俺は、かけてもらったばかりのそれを、あわてて外して突き返した。
「だめだろ、あんたのほうが冷えてるのに」
「私は大丈夫だ。このくらいの寒さ、夜の巡回で慣れている」
取り上げられたマフラーが、再び俺を襟元をあたたかく包みこむ。
「だ、だめだろ、こんなの……」
「……」
「……困るよ……アーベルさん」
鼻先をかすめる、やわらかい生地のくすぐったさに首をすくめた。ふと襟元で止まったままのアーベルの両手を、すり切れた手袋の手で包むと、冷えた長い指が小さく震えた。
(ホント、こういうの困る……これじゃ突き返せないじゃん)
「わかったよ。今夜はその、借りとくよコレ」
チラリと見上げたアーベルの目元が、かすかにやわらいだ気がした。
「家まで送ろう」
「いいって。あんたも早く自分ちに帰んなよ」
「君を送ってから帰る」
アーベルは俺の半歩後ろを歩き出す。変なところ強引なのに、こういうときは一歩引いた態度を取る。アーベルは本当に不可解な人物だ。
俺がはじめて彼に声をかけられたのは、秋も深まった仕事帰りの夜だった。疲れてるのに長々と職務質問をされ、仕事の開始時間と終了時間を正直に答えたとたん、冷静だった彼の表情が一変した。
『なにを考えているんだ、君は!』
叱り飛ばされたけど、俺も黙ってはいなかった。さんざん口ごたえし、屁理屈をこね、もう少しで治安当局へ連行されるところをなんとか逃げた。後日アーベルが第五部隊の隊長であることを知ったが、いまさら殊勝な態度を取るつもりは毛頭なかった。
それからというもの、アーベルは定期的に店の前に現れるようになり、俺に説得という名の説教を繰り返すようになった。俺も自分の生活がかかっているとはいえ、労基違反かもと多少の後ろめたさもあって、完全に無視することができないでいる。
そしていつのころからか、アーベルの表情に、言葉に、口調に、俺を心配してる気持ちがにじみ出ていることに、否応なく気づかされた。
(それって反則だろ……)
この手のやさしさは、この町で暮らす俺のような独り者には、かえってつらいって理解できないのだろう。この人はきっと、家族に大事にされ、安心して休むことができる家があるに違いない。
「……寒くないか」
「うん」
さっきまで怒鳴り合っていたのに、急に口数が減った。向こうも俺も、何を言ったらいいのかわからず、互いに無言でしんしんと冷えた石畳の道を歩いた。
やがて城下町の外れにある、小さな集合住宅の入り口までやってきた。俺は玄関先で足をとめると、扉に鍵をさしながら短い礼を述べて建物に入った。
(今日は、ホント疲れた……)
階段をのぼり、二階にある自分の部屋の電気をつけてホッと息をついた。部屋はすっかり冷えきっていたので、暖炉に火をつけてあたたまりたかったが、明日の朝の冷えこみも考えて、薪の節約のためにも断念した。
小さな簡易コンロに火をつけて湯をわかす間、コートはもちろん、マフラーもつけたままじっとソファーに座って待つ。しばらくすると、しゅんしゅんと湯気を吹きはじめたので重い腰を上げた。棚からお茶のカップを取ろうと、通りに面した窓を横切ったそのとき、視界の端にうつった窓の外から見上げる人影に気づいた。
俺は一瞬目を疑い、あわてて建てつけの悪い窓を引き上げた。
「おい、そこで何してんだよ!」
アパートの前にはアーベルの姿があった。
「君こそ窓など開けるな。部屋が冷えてしまう」
「それはっ……」
もともと寒いから、関係ないんだと言おうとして言葉を詰まらせた。歩道に立って、こちらをうかがうように見上げるアーベルが、とても心配そうな顔をしてたから。
「暖炉の火は、もうおこしたのか」
「……うん」
「それなのに、まだマフラーも外せないほど寒いのか」
「もう少し、あたたまってから外すそうと思って」
俺のたどたどしい言い訳に、アーベルは何かを感じ取ったのだろう。次に、耳を疑う提案を口にした。
「今から、うちの屋敷に来ないか」
俺はアーベルを見下ろしながら呆気に取られた。
「えっ……いや、それはちょっと」
「勘違いするな。不法労働者が、また明日も早くから仕事に出ないか、少し見張らせてもらうだけだ。明日は祝日だから、仕事に出ることは許されない」
「そ、それは知っているし! 店だって、さすがに明日は休みだし!」
「いいから早く暖炉の火を消して降りてこい。それとも私がそこまで上がって連行しようか」
「ちょ、ちょっと待って、上がってくるな。今そっち行くから、ぜったい上がってくるなよ!?」
俺はあわてて窓を閉める。
(上がってこられたら、暖炉に火をつけてないことがばれちまう)
コンロの火を止めながら、本当についていっていいものか迷う。でも彼の心配そうな顔を思い浮かべると、居ても立っても居られなくなった。
俺は思いきってアパートの扉を開けると、冷えた外気へと足を踏み出した。
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