第6話 アラル


「…はっ!」ガバッ!


 目を覚まし跳ねる勢いで体を起こして、挙動不審に部屋中を見渡す一橋。


 雲越しの日の淡いが板張りの窓から差し込む薄暗い部屋には、少女の姿はおろか、ボストンリュックの影も形も無くなっていた。

 続いて自分の顔を触り、服を見下ろし出血してない事を確認すると、肩の力を一気に抜いて「ゆ 夢…?そ そうか。夢だった…のか…」と震える声を出す口を引きつらせた。


 息を吐くと同時に全身の脱力、仰向けに体を倒し今にも落ちてきそうな天井を眺めて滲む涙と汗を拭った。

 その時、ガスマスクをしてない事に気付いた。


「あれ マスクは…?」


 気だるげに体を起こし部屋を見渡す。近くに鉄パイプもランプもあるに関わらずマスクだけが見当たらなかった。


「えぇ?何でねぇんだよ? 廊下か?」


 手繰り寄せた鉄パイプを突いて立ち上がる、廊下へ向かう為に足を進めようとした瞬間。

 グッとすぐ後ろで何かが引っ掛かってる様な違和感を感じた一橋は、振り払う訳でも無く振り返った。


「───え…?」


 そこには先程まで影も形も無かったハズの、少女の姿があったのだ。

 あまりの事に理解が追い付かず固まる一橋だが、目の前の少女は、明らかに様子がおかしかった。


 殴られた様な顔の傷に絞められた様な首の痣。特に目を惹いたのは、赤紫色に腫れ上がった深淵の右目だった。


 薄らと開く瞼から滲む血が涙の様に頬を伝わせる少女は、そんな怪我を痛がる様子を見せる事無く、固まる一橋にガスマスクを差し出して来たのだ。


 操られてるかの様に一橋は手を伸ばしマスクを受け取った。その直後。


 ゴンッ!


 マスクを渡した少女は、力無く仏倒しに床に後頭部を打ち付ける音を響かせた。


 徐々に少女の頭部から広がる血溜まり。それらの光景をただ呆然と眺めていた一橋だったが、次の瞬間。


 ───ダァン!!


 廊下の向こうから銃声が聞こえると同時に一橋の胸から鮮血が飛び散った。


 理解が追い付かないまま床に倒れる一橋はボヤける視界で二人の人影が部屋に入って来るのが見えた。


   ◆


「はっ…! はぁ!はぁ!」


 目を開けると同時に体を起こした一橋。途端、この世の物とは思えない激臭に「おげぇええ!!」と、周りを見る余裕も無く、手を付き胃液を吐いた。


 それが今まで過ごして来た部屋の臭いだと認めるのはあまりにも難しく。鼻を慣らそうと一橋は必死に呼吸を繰り返していた。


「すぅー!はぁー!」


 なぜ急に部屋の臭いが鮮明になったかは疑問だったが、呼吸を繰り返している内に一橋は、信じられ無い程に呼吸が楽な事に気付いた。 


 まるで自分の体じゃない様な違和感に戸惑っていると「起きたな」と頭上で聞き覚えのある無機質な声がし、まさか!と一橋は咄嗟に顔上げる。


 目の前には案の定、自分を見下ろす少女の姿があった。


 しかし、気を失う前と比べて少女に対する恐怖は感じられなかった。


「チッ、なんで居んだよ…!」


 顔をしかめて悪態をつく一橋に少女は「我を居れたのはお前だろ」と言って指を差した。


「殆どが壊死した肺、剥がれ掛けの食堂の内壁、弱り切った心臓。その体で良くいままで生きて来れたものだな」


 指を差され肩をビク付かせる一橋は、少女の興味無さげな言葉に鳩が豆鉄砲を食った様に目を丸くした。


 恐る恐る視線を落とせば、気を失う前に吐いた壊死した肉片が浮く血溜まりが広がっていた。震える手で口周りを拭って見れば顎下まで血で真っ赤な血に染まっていた。


「た、助けてくれた…のか…?」


「なぜ?我は助けた覚えは無い」


 一橋の掠れた小さな声に少女は、溜め息混じりに心底どうでも良さそうに答えた。


 服を開き体を見下ろすも手術跡の様な物は、胸の古傷以外見当たらなかった。

 何をどうしたのかは分からない。一橋には、とても少女が自分を救ってくれたとは信じられなかった。


 眉を潜める一橋は「お前…何者だ?」そう言いながら転がってる鉄パイプまで這おうとした。


「人間だと言ってるだろ。…サル、歩き方すら分からないのか」


「このガキ…っ! テメェあんまふざけた事言ってると殺すぞ!テメェ見てぇな化け物が人間な訳がねぇ!! あと俺の脚はなぁ…!」


 少女の呆れ口調に怒鳴る一橋だったが、引き摺る左足から伝わるコンクリートの冷たさに気付き動きを止めた。


“…は? そんなバカな!?”


 そして、プレゼントの包装を破る子供の様に一心不乱に左足にしがみ付いて靴を脱ぎ裾を上げ、左脚の状態を確かめた。


 腐った筋肉が削ぎ落ちた骨の剥き出した左脚は。股関節から取って付けた様な健康的な脚に替わっていた。


 筋肉の付いた、長く、血色の良い左脚は、右脚と比べてあまりにも別人レベルにアンバランス。

 絶句する一橋は、焦点の合わない目で少女を見つめて「俺に…なにした…?」と声を絞り出した。


「別の次元のお前とお前の肉体の部位を入れ替えた」


“何を言ってるんだ…この子供ガキは…? ダメだ…これ以上…ダメだ”


 理解の範疇はんちゅうを越えた出来事と少女の言葉、ショックのあまり眩暈めまいで頭を抱える一橋。


「あぁ…おまえ、なまえは?」


「名前は無い。だが、ノゥからはと呼ばれている」


 アラルと名乗った少女。このままだとらちが明かないと一橋は吹っ切れる様に、髪を掻き上げてアラルを見上げ睨んだ。

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Disappear・Escape ─全世界を救う為の最小規模の作戦─ 丫uhta @huuten

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