第58話 人は無力でちっぽけだ。けれど、誰もが一人ではない。
「はい、コーヒー。ブラックは……確か飲めなかったよな?」
椅子に座って、早十五分。部長がコーヒーの缶を二つ持って、来てくれた。
「ありがとう、ございます」
差し出されたコーヒーを受け取って、蓋を開ける。乾いたような、くぐもったような、なんとも言えない音が廊下に響いた。
「ほんと、なんて言ったら良いのか……分かんないよな。こういう時」
「そうですね。なんとも……どんな顔をして、先輩を出迎えてあげれば良いのか……」
いや、きっと答えなんてない。そんなことは、分かっていた。
でも。
「俺……ちゃんと、話してほしいなって。喧嘩別れが、最後なんて。悲しすぎるから」
「そう、だな」
部長は何処か遠くを見るような目をした。
「茉利理先輩は、ありますか? 誰か大切な人と離れ離れになるようなこと」
自分でも、何を聞いているんだと後悔した。そんなことを、聞いたって、仕方がないのに。
「あたしは、まあ、ない……と思ってる。それに似たようなことはあったけど」
「どんな、ことですか?」
「お前だよ。礼」
「え?」
「お前が、紫苑と付き合い始めたって聞いた時、なんか遠くに行っちゃうみたいで、凄い悲しかった。もう、これまでみたいにはいかないんだって、思ったら凄くきつかった」
「……すみません」
「謝んな、バカ。今は結局一緒にいれるから良いんだよ」
ああ。きっと部長も先輩も、俺なんかよりずっと強い。
「今は、待とう。紫苑を。あたし達の大切な人を、さ」
「はい」
扉はいまだ開かず。ただ、俺たちは待つことを選んだ。
………
……
「来たの、ね」
囁くような、枯れた声だった。
全身にチューブを取り付けられ、痩せ細った母。
たった二年、こんなにも変わってしまうのかと、背筋が嫌に冷えた。
「ええ。旅行の最中だったけど、来ないわけにも……いかなかったから」
「大学は? きちんと楽しめている?」
「それは、分からない。けど、今は幸せ」
ベッドの隣に置かれた機械から、一定間隔に電子音が響く。
「……そう」
どこか虚な目を天井へと向け、母は押し黙った。その横顔に寂しさのようなものを感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
がらり、とドアが開く。
入ってきたのは、癖毛にスーツの男。丸い眼鏡は、幼い頃から一度として変わらない。
「──ごめん、遅くなってしまった」
「父、さん? 来て、くれたの?」
「来なくちゃいけない。そう思ったんだ。僕は」
周りの医師に頭を下げてから、父はベッドの母へと駆け寄った。
「……久しぶりだね」
「貴方が、来てくれるなんて……酷い誤算だわ」
口ではそんなことを言っていても、母の目に光が宿ったような気がした。
「今更、僕は君に言えることなんてないと思っていた。あの日から、君は僕のことを信じられなくなってしまったのだと思い込んでたから」
「……ええ」
「でも、違った」
父は腰を下ろし、母と目線を合わせながら、その枯れ木の枝のような手を包む。
「僕が、僕が君を……それでも君を信じていれば、何かが変わったのかも知れないって、何度も後悔した」
懐かしい眼鏡が柔らかく光を照らし返す。白いシーツを溢れた涙が色濃く染めていく。
「……父さん」
この数年、父とは何度か顔を合わせた。けれど、そんなこと……母に関する話題なんて、一度として話したことがない。
「……紫苑」
母の声だった。
「何?」
「好きな人は、出来た?」
きっと母は柔らかく笑いたかったのだと思う。けれど、それには失敗してしまったようだった。父と一緒で、涙がそれを邪魔していたから。
「……うん。大好きで、ずっと一緒にいたいって思える人に出会った」
「そっか。なら、わざわざ私が何かを言うのは、間違っているわね」
母はそう言って、目を閉じる。
「──来てくれて、ありがとう。愛してる、二人とも」
それが、母の。
最後の言葉だった。
…………
……
しばらくして、紫苑先輩とそのお父さんが病室から出てきた。
「紫苑。後のことは、僕に任せてくれ。また連絡するから」
「分かった」
どうやら、全て終わってしまったようだった。
「君が、紫苑の恋人だね?」
医師達との会話を一度打ち切って、突然その目が俺に向いた。
「あ、はい! お付き合い、させていただいてます!」
「そっか。さっきはありがとう」
深々とそれこそ頭が地につくのではないかと思うほど、深くお辞儀をされた。
「い。いや! 俺なんて。何にも……」
言葉の途中でだった。先輩が胸に飛び込んできたのは。
「紫苑先輩?」
肩が震えていた。しがみつくように顔を押し付けられた胸はいつもとは、全然感覚が違った。
「自分の娘が他の男の胸に飛び込む光景って、結構ダメージが大きいものだね」
場を和ませるように、先輩のお父さんが言った。
「それじゃあ、僕は色々手続きがあるから、行くよ。後は若い……三人に任せることにする」
背広を翻して、お父さんは行ってしまった。
最後まで、明るい人だった。間違いなく空元気だったのだろうけれど、誰にだって、出来ることではない。
「礼君」
「はい」
そっと先輩の背中を抱きしめるように腕を回す。
「私……もっと話したかった」
「はい」
「礼君のこととか、茉利理のこととか。学校のこと」
「はい。分かります」
先輩は今、途方もない後悔の真っ只中にいるのだと、すぐに分かった。
「──紫苑先輩。きっとお母さんは、話さなくたって、分かってくれたんじゃないですか?」
「……本当に?」
「だって、先輩が自分で前に言ってたことじゃないですか。自分は母の気持ちが分かったって。ならきっと、お母さんも先輩の気持ちを分かってくれましたよ。きっと」
先輩は声をあげて泣いた。年端の行かない子どものように。
長く、降り積もった雪が、溶けていくように。
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