第57話 別れは悲しくないわけないんだ。
「西園寺です」
病院の受付に先輩が声を掛けると、看護師さんは驚いたように目を丸めた。
「西園寺……さん。ですね、お隣の方は?」
視線が俺に向く。
「私の恋人です」
「なるほど。その、お隣は?」
「恋人の恋人です」
「んん?」
なんとも混乱したような顔。しかして、看護師さんはこほんと咳払いを打って、切り替えたようだった。
「西園寺さん。西棟四階奥の病室に行ってください。なるだけ早く。貴方とお母さんの事情は知っています。でも……もう、最後かも知れませんから」
「……っ。分かってます」
間に合ってはいた。けれど、やはり。
俺たちは急いでエレベーターに乗り込んだ。
「……ねぇ、礼君」
妙に静かで、重い空気の中で先輩が声を掛けてきた。不安そうで、苦しそうで、弱々しく震えてしまった声。
「なんですか? 紫苑先輩」
「手を、握っては……」
言葉の途中。俺は先輩の手を握った。
こんなんでも、こんな馬鹿な俺だけど。
馬鹿で、愚かで、どうしようもない俺はそれくらいできなければ、彼女に何かをしてあげられなければ、俺は本当にゴミになってしまうから。
「先輩。怖い、ですよね。きっと」
「ええ。自分でも、母なんてってずっと思ってた。私に母なんていらないって。でも……やっぱり、私はあの人の娘なの。どうしようもないくらい、あの人に似てる」
ああ。こんなにも、先輩の手は小さかったのか。
そう思った。
俺は、きっと先輩のことを理解できているかと言われれば、多分違う。
多分全部を全部、理解なんて出来ていない。
たまに、どうしようもなく向けられている愛の重さに気づく時がある。少し怖いとさえ思ってしまう。
「俺が、一緒にいます。これから先も、ずっと。なんの役に立つかなんて、俺でも分かりません。けど、先輩が辛い時も、悲しい時も、嬉しい時も、一緒にいます」
握る。きちんと。
先輩に、何かを。先輩の何かを守るために。
「……言った、わね」
「え?」
「今、礼君は言った。私とずっと一緒にいてくれるって」
「うん。確かに言ったな」
部長は少し不機嫌に頷いた。
あれれ、なんか話の流れが……。
「ぶ、部長……?」
「おいおい、茉利理先輩。だろ?」
「あ、はい。茉利理先輩」
「あたしは一旦、売店にでも行ってるよ。なんか、さっきみたいに話がややこしくなりそうだし」
エレベーターは三階に到着する。
「……ごめんなさい。茉利理」
「謝るな、紫苑。あたしは結構良い女なんだ。空気が読める良い女ってな」
茉利理先輩は降りて、手を振る。
「また、後でな? 二人とも」
そのまま、ドアは閉まった。残された俺と先輩は、小さく笑った。
「やっぱ部長は、可愛いですね。ほんと」
「普段なら、私以外を素直に褒める礼君の言葉なんて聞きたくはないけれど……ええ。その通りね」
ぎゅっと先輩の手から力が伝わってきた。
同時に四階の表示がオレンジ色に光る。
「……行きますか」
「ええ。付き合わせて、ごめんなさいね」
「謝るくらいなら、後でキスして下さい」
「分かった。気絶するくらい、濃厚なのをしてあげる」
…………
……
そこは無菌室のような酷く、白い部屋だった。
その中央には、ベッド。その周りには、数人の白衣の姿があった。
「母、さん」
「娘さん。ですね? 意識があるうちに、話を聞いてあげてはくれませんか?」
医者の一人が先輩へと言った。
「紫苑先輩」
「ええ。分かってる。……分かっているから。ありがとう、礼君」
そっと先輩の手が離れていく。
「外で、待ってます」
どんな関係で、どんな親子かは分からないけれど、今はただ二人の邪魔は出来ないと、そう思った。
治療室の外に出ると、ベンチがあった。
そして、そこには一人の五十代くらいの男が座っていた。
スーツに、眼鏡。癖の巻いた髪型は何処となく柔らかい雰囲気をしていた。
「こんにちは」
隣に座るのだから、それくらい声を掛けるべきだろう。俺は言ってから、腰を下ろす。
「こんにちは。君も、大切な誰かがここにいるのかい?」
痛々しく、笑いかけてきたその顔は、何処か……。
「まあ、そうなりますかね。俺のではなく、俺の大切な人の大切な人ですけど」
「なるほど、差し詰め付き添いか」
「そんなとこです」
男はじっと扉を見つめた。
「僕は……大切な人に、合わせる顔がないんだ。僕は彼女に報えなかった」
ぎゅっと男は右の拳で、左の拳を握り込んだ。何かを後悔するような顔。
やはり、この人は。
「貴方が誰か、この際どうでも良いです。なんとなく見当はついちゃいましたけど」
「……面白いね、君は」
「ま、俺の唯一の長所ですから」
胸を張って言ってやった。
「俺は、貴方のように色々を抱え込んではないし、誰かを養っているわけでもない。だから、今から言うことは、所詮、子どもの戯言です」
「うん」
「俺は貴方を知らない」
「そうだね」
「でも、貴方が大切にしていたものなら、知っている。少しだけ、ですけど」
だから、そうだからこそ。
「──信じさせて、あげれば良いじゃないですか。今の貴方には、別れを告げる時間があって、機会があって、貴方の言葉にはその力がある」
これは、独り言のようなものだ。誰かが受け取ることを俺は考えてなんていない。
ただ、感情を吐き出しただけ。自分ならそうすると、そうするべきだと思ったからそうした、そう言った。ただ、それだけの言葉だ。
「……君は、優しいんだな」
「優しくは……ないと思いますよ。ただ、こんな不完全で曖昧な自分のことを好きだと、愛していると思ってくれた人くらいは、幸せにしたい。幸せになってもらいたい。ただ、それだけなんです」
「そう、か。確かに、そうだね。うん。言えてる」
男は立ち上がった。
「僕は、やらなきゃいけないことを思い出した。いや、思い出せたよ。ありがとう」
扉を開き、男は中に入っていく。
「──父、さん? 来てくれた、の?」
そんな幼い声が、確かに中からは聞こえてきた。
そんな気がした。
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