先輩と俺と部長と。

第56話  その時、言葉は出てこなかった。

「──母さんの容体は、そんなに悪いんですか?」


 ホテルのエントランスの片隅で、確かに先輩はそう言った。


「っ!」


 盗み聞きをする気はなかった。ただ、心配で後をつけただけだった。

 紫苑先輩のあんな顔は見たことがなかったから。


「……はい、そうですか。はい。分かりました。引き続き、母をよろしくお願いします」


 歳上。ずっと紫苑先輩は俺にとって、頼りになる人で、勉強も料理もなんだって、出来る、しっかりした大人だと思っていた。けれど。


「今日中に、向かいます。だから、それまでは……どうにか」


 彼氏なんてしておいて、本当のことは何も分かってなどいなかった。


「……聞いていたのよね、礼君」


「はい」


 振り返った先輩と目が合う。


「ごめんなさい。私、向こうに戻らないと。礼君は茉利理と楽しんで?」


「いや、紫苑先輩が戻るなら、俺も戻りますよ。きっと茉利理先輩だって、そう言うはずです」


 今はただ、紫苑先輩を一人ぼっちにしたくなかった。だって、そうじゃないか。紫苑先輩も、部長も、俺を一人ぼっちにはしなかったのだから。


「……でも」


「でももへったくれも、ないです。ほら、部長のところに戻りましょう」

 

「私なんかのために、そこまで」


「私なんか? 紫苑先輩が『なんか』なわけないでしょ!」


 俺は言ってから、先輩の手を握った。離すものかと、そんな自分を卑下する先輩を絶対に離してやるもんかと。


「早くっ! 時間がないんでしょ!?」


…………

……


幸いにも、昼前の飛行機が取れて、俺たち三人は足早に乗り込んだ。

先輩のお母さんが入院する病院に一番近い空港までは、おおよそ二時間弱。

三列シートの真ん中に弱った先輩をどうにか座らせて、俺と部長はその隣に腰を下ろす。


「……何も、聞かないのね」


「もしも、先輩の心が少しでも軽くなるなら、なんだって聞きますよ。でも……俺からは、正直聞けません」


 なんと声を掛ければ良いのかも、正直分からなかった。俺の両親も、祖母も祖父もみんな健在だったから、気持ちが分かるなんて軽々しいことも到底言えやしない。


「私ね。ずっと母のことが嫌いだったの。二人にはもう話したから、理由は分かると思うけれど」


 母の行動によって、父は消え、家庭は壊れてしまった。前に、先輩が自ら教えてくれたことだ。


「高校を卒業してからは、ずっと音信不通だった。生活費は、父が出してくれたから。わざわざ何かを話すこともなかった。ましてや会うのなんて、絶対に嫌だった」


「はい」


 父と母の不仲。何も知らない他人からすれば、きっとよくある話だと、うちだって大して変わらないと切り捨てるようなことなんだと思う。

 けれど、子どもっていうのは、結局親なしには生きていけない。


 親という存在と、帰る家というものは、ほかに逃げる場所も術も持たない子どもにとっては世界の半分のようなもの。

 だからこそ、そこにいるのが、いるだけで、辛くてしんどいなんてことは、俺みたいな普通の奴には想像もつかないような地獄なんだろう。


「でもね、少しだけ……本当に少しだけだけど、今は違うの」


「何が、あったんですか?」


「ふふ、分からない? 貴方のせいよ? 礼君」


 先輩はいたずらに笑った。


「は、はい?」


「ずっと……たぶん私は、あの人を別の生き物のように見てたんだと思う。人を好きになるって感情が分からなかったから。私はきっと誰のことも好きになることなく、一人で死ぬものだと思ってた」


「そんな悲しいこと……」


 部長はぐっと唇を噛んだ。目じりには、小さな雫が溜まっていた。


「安心して、結局そんなことにはならなかったから。ね、礼君」


 ホテルからここまで繋ぎっぱなしだった俺の手を先輩は持ち上げて、引き寄せた。


「好き。本当に大好きで、堪らない。ずっと一緒にいたい、その行動の一つ一つが気になって仕方がない。君の時間を全部私に注いでもらいたいし、私のすべてを君にあげてしまいたい。私は礼君に出会ってから、ずっとそんな気持ち」


 ああ。そうか、だからきっと。


「ええ。そう。分かってしまったの。母が父に感じていた気持ちを、理解できてしまったから」


「そういう、ことだったんですね」


「うん。だからね、少し前。私は母と向き合おうと思った。礼君がそう思わせてくれから」


 でもね、先輩はそう続けた。


「もう、手遅れだったわ。二年前から母は入院していたみたいなの」


「病院からの連絡はこれまでなかったんですか?」


「母が……口止めをしていたらしいわ。散々、私と父をかき回したくせに、ね」


「なんか、やりきれないですね」


 きっと、だからこそだと思った。自分がしてしまったから。傷つけてしまったから、だから、遠ざけられずにはいられなかった。

 どれだけ反省しても、どれだけ苦しんでも、過ぎた時間は戻らないから。


「まだ、何も……話せていないのに」


 その言葉が、その表情が余りにも悲しげで。俺は。


「大丈夫。絶対に」


「礼君……」


 なんの確証も、根拠もなかったけれど俺は言った。

 先輩を慰めるため、そんな悲しむ先輩を見たくないとか、理由はいくつもあった。


「紫苑先輩。世界はそんなに悲しいものじゃないですよ。きっと。だって……」


 伝える。ただそれくらいしか、俺にはできない。


「俺と、紫苑先輩と、茉利理先輩が会えた。──だから大丈夫。絶対」

 

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