第37話  ヤンデレ彼女と強がり彼女

「あたし、魅力ないのなぁ」


 そう言って、茉利理は大きなため息をつきながらリビングの椅子に腰を下ろした。その肌には玉の雫が浮かんでいる。ゆっくりと風呂でくつろげたようだった。


「突然どうしたの? 茉利理」


 その向かい、湯気の上がるココアを飲みながら小説を読む紫苑はニヒルな茉利理へと目をやった。


「だって……名前、呼んでもらえないから」


「……はあ」


 紫苑はまだ始まったか、と長い瞬きをする。

 実は、凛々しく太々しい茉利理は……。


「乙女モードね」


 その実、そんじょそこいらの女子の何倍も乙女である。


 サークルの皆には隠しているが、少女漫画が好きだし、月曜九時からの恋愛ドラマは毎週見ているし、高校の頃なんかよくそんな話をしていた。


「こんなこと、紫苑に聞くのは間違ってるかもしれないけど……さ。紫苑はどうやって、卯花を……その惚れさせたんだ?」


「それは、私にも分からないわね」


「……そっかぁ」


 茉利理は鼻から悩ましい音を上げると、そのまま机に突っ伏した。


「……私だって、一応彼女だろ? ならさ、名前で呼んでくれたっていいじゃん。もぉー」


 茉利理は頬をリスのように膨らませた。


「気にしていても、仕方ないんじゃないかしら? それは礼君に直接言ってあげるべきよ?」


「むぅ、また名前で呼んでるし」


 今度は唇が尖る。


「あたしももっと素直になればいいのかなぁ」


 悩む茉利理を横目に紫苑は立ち上がると、キッチンで湯を沸かし、ココアを作る。

 よくかき混ぜた後で、茉利理の前に置いた。


「あったかいうちに飲みなさい? きっと多少は気持ちも楽になるわ」


「……流石の女子力。さっき食べた晩御飯といい、あたしも料理くらいできるようになったほうがいいのかなぁ」


 ふーと吐息で湯気を飛ばしてから、茉利理は恐る恐る口を付ける。


「なあ、紫苑」


「何かしら?」


「なんで、紫苑はあたしにわざわざ声をかけたんだ? お前だって、ほんとは卯花と二人きりの方が良かっただろ?」


「……そうね。正直に言えば、礼君には私だけを見ていて欲しかったし、今だって正直そう思う時もあるわ」


「なら、なんで?」


 茉利理が尋ねる。


「簡単なことよ、私は礼君を愛しているから。だから、貴女に声を掛けた。たったそれだけ」


「……話が見えないんだけど」


「もしも、貴女が礼君に告白して、礼君が私を理由に振ったとしたら、貴女は傷つく」


「むぅ」


 図星だったのだろう、茉利理は不満そうに目を逸らした。


「でもね? きっと礼君は貴女以上に傷ついてしまう。そういう人よ。どから、きっと私は彼を好きになったのだし、彼も私を好きだと言ってくれた」


「……ずるいよな、紫苑は」


 茉利理は小さく笑う。何かを誤魔化すように。

 けれど、その後でそっと目を閉じて口を開いた。


「あたしはさ。あの日、サークルの飲み会に紫苑を誘ったの、実は後悔してる」


「……ええ、そんな気はしていたわ」


「だってさ。いくら親友とは言え、あたしの初恋の人を取られるなんて思わなかったんだもん。しかも、紫苑は超絶美人だし、可愛いし。勝てっこないじゃん」


「私、は……」


 紫苑は返答に悩んだ。茉利理からすれば、事情を知らなかったとは言え、自分のしたことは裏切りに等しかっただろうから。


「あ、違うよ? 責めてるわけじゃなくてな? ただ……その、あたしはあいつと仲良くなるのに一年近くも掛かったのに、紫苑は何でそんなすぐにって……嫉妬してた」


「……そう、なのね」


 少し意外だった。嫉妬していたことがではなく、茉利理がそんな弱気なことを自ら口にしたことが。

 けれど、紫苑としてはそんなに単純な話でもなかった。


「……私は、貴女が羨ましい。ずっと礼君と一緒にいられたことが。私は彼に出会って、まだたった二ヶ月ちょっとしか経っていないもの」


 もしも、もっと出会うのが早ければ、既に左手薬指には指輪があったかもしれない。


 そう思えるくらいに、そう思いたいくらいに、紫苑は礼のことが好きだった。


「……な、なあ。紫苑。一つ聞きたいんだけど、いいか?」


「何かしら?」


「も、もしだぞ? もしも、卯花のやつがまた彼女を増やすとかクソみたいなこと言ってきたら、どうする?」


 それは少し思ったことがあった。でも、正直そんなことにはならないという確信があった。 


 何故ならば、きっと礼が今の状況を良しとしているのも、自分が提案してしまったからだと思うから。


 とはいえ、茉利理が言ったようにもしもの話。もしも、そうなったのなら。


「そうね……ええ。死ぬわね」


「ま、まさか。その相手を……」


「いえ、私がよ。だって、私がそんなことをすれば、礼君に嫌われてしまうもの」


 礼に嫌われるのは、紫苑にとっては死よりも恐ろしいことだから。


 もしも、彼にそんな目を一度でも向けられたのなら、この先生きてはいけないし、生きたいとも思えない。


「へ、へぇー。さ、流石は紫苑だな」


 茉利理は少し引き攣った顔で言った。

 どうやら茉利理には自覚がないらしい。


「茉利理。私は貴女だったから、礼君と貴女と付き合おうと思えたのよ?」


「へ?」


「知ってるでしょう? 私の昔の話」


「……うん。高校の時に聞いた」


「それでね。正直な話、私も自覚しているのよ? 自分の恋愛感情は人よりもずっと重たいのかもしれないって」


「うん」


「でもね、こんな私を受け止めてくれたのは……貴女と礼君だけだったから」


 だから、同じ人を好きな茉利理を見捨てられなかった。

 紫苑にとっては恩人で、親友で、そして。


「私はね、貴女のことも結構好きなのよ?」


「う……あ、ありがとう」


 面と向かって、紫苑が言うと、茉利理は顔を真っ赤にする。

 本気で照れていたようだった。


「あ、そうだ。なあ、紫苑。お互い話すことにしないか?」


「何を? 聞きたいの?」


「馴れ初めってやつ。あたし、あの日に卯花と紫苑に何があったのか、あんまり知らないし、紫苑だって、あたしがなんであいつに惚れたのか知らないだろ?」


「それは、名案ね。ええ。話すとしましょうか」


 夜はふけていく。

 ココアから上がっていた湯気も随分と量が減った。


「──じゃあ、まずは私から話すわね」


 きっとこの話題なら、いくらでも話してられる。そんな風に思いながら、紫苑は口を開いたのだった。

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