第34話 うたた寝探偵、貞操の危機
「買ってきましたよ。言われてた通りに」
晶は風俗研の部室の扉を開き、手に持ったビニール袋を歌方へと差し出した。
先程、歌方に買い出しに行ってくれと頼まれたものだ。
「うん。ありがとう。高かっただろう? 後で領収書をもらえるかい?」
歌方はソファーから立ち上がると、猫のように体を伸ばしてから、ビニール袋を受け取った。
袋の中身は、近くの服屋で買ってきた清楚チックな服一式が入っている。
「よし、じゃあ私は着替えるから君は外で待っててくれ」
「分かりました」
すぐに部室を出る。同時に部室の扉に持たれ込み、スマホを取り出す。
時刻は四時を過ぎた頃だ。作戦の準備に意外と時間がかかった。まあ、寄り道も少ししていたから、もう少し早く始めることは可能だったが。
「本気で、やるつもりですか? 危険……だと思いますけど?」
晶は扉越しに中の歌方へと声を掛けた。
作戦の内容。それは俗にいう囮作戦。
歌方自らが刈谷の元に向かい、誘惑し、被害者に対して行った行為の言質を取る。
後は助けを呼び、第三者を介入させ、現行犯にて捕える。
「それにこっちには画像があるんですから、どうとでもなりません?」
「今の時代、画像くらいいくらでも加工出来る。それだけでは、一時的な効果しか見込めないだろうね」
「にしたって、他に手はあると思いますけど? 歌方さんは男の性欲を舐めすぎです」
わざわざ他人のために自分の身を危険に晒す訳が分からない。それも、顔も知らない相手のために。
「心配しなくていい。私はこう見えて、何度も修羅場は潜っている。ハニートラップ程度軽くやってのけようじゃないか」
「へぇー」
その体型でよくそんな言葉を思い浮かんだものだ。……寸胴のような体のくせに。
「それに、君が助けてくれるだろう? 何かあれば」
楽しそうな声音で歌方は聞いてくる。
「本気で、そう思うんですか?」
「勿論。何せ、君は私の助手じゃないか」
「俺は、助けないですよ。正直あんまり興味もないし」
助手でもないし、友人であると言う気もしない。いわば、自分と歌方の関係性はいいとこ、お隣さん程度だろう。
なのに、わざわざこちらが助ける必要などない。
……まあ、一応何かあった時の保険程度は用意しておいたが。
「一つ、質問いいすかね?」
「何かな?」
「鳶に見えると、歌方さんは言ってましたよね。自分以外の人間はみんなそう見えるって」
あの顔は、妙に印象的だった。苦しそうでありながらも、まっすぐと何かを見据えるような強い瞳。今でも、目を閉じれば容易に思い出せる。
「言ったね」
「なら何で、歌方さんはそんな劣った鳶なんかのためにここまでしようと思ったんですか?」
晶の質問に、泡沫からの返事はなかった。暗に答えたくないのだろうと分かった。
その代わりに、ドアノブが音を立てて回る。
「さてと、そろそろ行くとしようか」
「一応、気をつけ……って、え?」
目を疑った。部屋から出てきた歌方に、だ。
いつもよりも随分と大人びた雰囲気。
ハイヒールのおかげか身長も普段よりずっと高い。そして、それよりなにより、一番目を引いたのは、その胸だった。
「盛りすぎでは?」
ぱんばんの詰め物。まるで、詰め放題の袋みたいな胸をしていた。
「なにぉ!? いや、もうちょっと時が経てば私だってこれくらい大っきくなるし」
「へぇー」
まあ、可能性はゼロではないが、その確率は恐らく、頭の上に隕石が降ってくる確率に等しいだろう。
「君は? これからどうする?」
「どうするとは?」
「女装でもしてついてくるかい?」
「な訳ないでしょ。ことが済んだら電話して下さい。あとこれをお守りです」
晶は神社で売っているようなお守りを手渡す。
青い布製の巾着のようなものだ。服の買い出しついでに先ほど買った。
「ありがとう、大事にするよ。それではまた後で会おう」
歌方は慣れないヒールに躓きながらも、廊下を歩き非常階段の方へと歩いていった。その背を一瞥しながら、晶は言う。
「一応言っておきますけど、くれぐれも無理だけはしないでくださいね」
「君は優しいのか優しくないのか、よく分からないね」
歌方は小さく笑うと、教授の部屋へと向かった。
………
……
刈谷政道。
自身もこの学校の卒業生であり、文化や経営学の分野を担当している。
仕事には真摯である一方で、女性関係に大きな問題を抱えており、これまでも多くの生徒に手を出しているクソ男。
歌方は今一度トイレで自分の見た目を見直してから、刈谷の研究室へと向かった。
大きく息を吐いてから、ノックをする。少し緊張しているのかも知れない。
「刈谷教授。いらっしゃいますか?」
しばらくすると、中から足音が聞こえた。その後で、扉が小さく開く。
「誰だ?」
「私は斎藤と言います。人文科の三回生です」
視線がゆっくりと歌方の体を這う。まるで、品定めでもされているような妙な感覚。
「話は中で聞く。ほら、入りなさい」
「はい」
どうやらお眼鏡にかなったようだ。やはり胸。豊満な胸の存在が大きいのだろうか。
部屋の内装は、いかにも研究室といった雰囲気で、日当たりのいいデスクとその前の来客用の四人がけローテーブル。両脇には本棚。
刈谷は下座に腰を下ろし、歌方を上座に座るように促す。
「それで? 私に何用かな?」
こういった場合、重要なのはこちらが何を考えているのか悟らせないことだ。そして、立場的にこちらが弱者であると認識させる必要がある。
「友達の……恵が貴方と付き合っていたというのは本当ですか?」
恵とは依頼人の友達の名前だ。
「恵? あー、咲森恵か。それは誤解だ」
「嘘ですよね。教授は脅してるんでしょ? 貴方が撮った写真や動画を使って恵を」
きゅっと刈谷の目が訝しく細められる。
「だったら? 君は何をしにきた? よもや、それを学校側に告発するとでも、脅しに来たわけじゃないだろ?」
証拠もないのに。とでも言いたげだった。
「……はい。だから」
あくまで、弱者。そう装う。
「私が身代わりになりますから。あの子の動画と画像を消してもらえませんか?」
「……ほう?」
刈谷は下卑た笑みを浮かべた。何を考えているのかは、透けて見える。
「こっちに来なさい」
「……っ。分かり、ました」
ここまでは想定通り。歌方は内心ほくそ笑むと立ち上がり、刈谷のすぐ隣に行く。
「随分と幼く見えるが、顔立ちは良い。体の方も期待できそうだ」
刈谷は歌方を隣に立たせたまま、自身も立ち上がると、撫で回すように歌方の肩に手を添える。
「やっ、やめてください」
歌方は盛り上げるつもりで、顔を逸らし、刈谷の胸を軽く押す。
録音もすでに回っている。作戦通りだ。
「そそるじゃないか。その反応。まさか君は処女なのかな?」
「だ、だったら何だって言うんですかっ」
「いや? ただ……すごく興奮するってだけさっ!」
「うっ!?」
刈谷は強引に歌方の両手首を拘束するように右手で掴み上がると、本棚へと押し当てた。
本気で、おっ始めるつもりらしかった。
歌方にしては、正直これも想定内ではあった。だが。
「おや? 足が震えているよ?」
「っ……」
それは、演技ではなかった。ただひたすらに、怖かったのだ。
腕を掴まれた力は強く、逃げられそうにない。刈谷の目からは、悍ましい色が見え透いていた。
「はっ、離してっ」
これまで探偵としての経験上、刃物を持った犯人が向かってくる時もあった。けれど、その時ですらこんな恐怖は感じなかった。
「誘ったのは、君の方だろ?」
「い、いやっ」
自分の体を、好きでもない相手に、弄ばれるというのは。ここまでの恐怖なのか。
喉も、塞がってしまったかのように、音が作れない。
「……さて、じゃあ早速」
奥歯も細い足と同様に、ガタガタと震えてしまいそうだった。恐怖で体に力が入らない。
このままでは、本当に……。
「顔に似合わず、立派だ」
刈谷の手は歌方の胸へと伸びる。
「──助け、て」
小さくこぼれ落ちた言葉。それと同時に。
「刈谷先生。いらっしゃいますかぁ……あ、鍵開いてる」
「「え?」」
がちゃり。ドアノブが回る。緊迫した部屋の空気なんぞつゆ知らず、中に入ってきたのは。
「ま、まさか! いさ……」
期待を隠しきれず、歌方の視線は縋るように乱入者へと向けられる。
「──社会科二回生。卯花です! って……えーと、どういう状況ですかね」
「卯花ぁ!?」
な、なぜお前がっ!?
「あ、あれ? 歌方さん? ……これは助けるべき状況、ですよね?」
「ん! あー! もう何でも良い! うん! 助けて!」
現れたのは、信頼する助手 伊坂 晶。
……ではなく、その友人。
菓子折りを持った卯花 礼だった。
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