第8話  すってんころりんワンナイト

『──なら、一緒にいませんか? 俺、付き合うとかそういうのは苦手ですけど、いつかお互いが、本当に誰かを好きになる瞬間が来るまでは、どんな関係でも一緒に』


 誰かの声が聞こえた。誰か? 誰だ?

 いや。多分それは、俺の声だった。けれど、言った記憶のない言葉だった。

 果たして誰に? やはり思い出せない。けれど。

 本当に俺がそんなことを言ったというのならば、口に出したというのならば。

 きっと。


「……い君! 礼君!」

「……あ、はい。先輩」


 名を呼ばれ、ぱっと目が覚めた。妙に変な夢だった。。いったとかいってないとか。欲求不満なのか、俺は。

 場所は、食堂のテラス。少し錆びた屋根が目に映る。

 

「あれ、なんで俺こんな所で寝転がってんですかね。バナナの皮でも踏んで、すっ転んだ間抜けみたいな状況っすね」


 うん。後頭部に結構デカめのたんこぶが出来ている。どうやら、マジですっ転んで頭を打ったらしい。


「良かった……意識が戻ったのね。本当に……良かった」


 上半身を起こすと同時に、先輩に抱きしめられた。おいおい、転んだだけでこうならば、もっと酷い目にあったらどんなご褒美が待ってんだ。


「うん、無事で何よりだ。知能はなんなら上がったんじゃないか? 自分に何が起こったか理解できるようになった。これは進化と言っていい」


「うん。やっぱ部長って人間性終わってますよね。……どれくらい意識飛んでました?」


「なんだこら、お前。もう一回寝かしてやろうか? ……ほんの5分くらいだよ」


「そっすか」


 なら、大したことはなさそうだ。鼻や耳からよく分からん汁も出てないし。


「おい、卯花」


「え、あ、はい? なんすか?」


「……その、ありがとな」


 唇を尖らせながら、何処か不機嫌そうな部長。


「あー、俺。部長を庇ったんでしたっけ」


 そうだ。確か、ここから移動しようとしたら部長の足元にバナナの皮があって、咄嗟に……。


「礼君。私今日は泊まるから」


 腕を解いて、肩を掴んだ先輩は宣言した。


「え? 何故、急に?」


「頭打ったからだろ? あるんだよなぁ、打ってすぐは大丈夫でも、何時間か後にぽっくりそのままってパターン」


「ひぇーまじっすか。こえー」


 そりゃ、一人暮らしの俺にそのパターンはやばい。地獄でソロキャンコースだ。


「さてさて。んじゃ、あたし。帰るから」


「あ、うっす。お疲れ様です」


「紫苑。ごめん、卯花のことは頼む」


「ええ。安心して、今日は絶対一人にしないわ。願ったり叶ったりでもあるし」


 先輩の答えを聞いて、部長は頷くとそのまま帰っていった。そっけないなぁ、庇ったのだからキスの一つや二つしてくれても……いや、先輩の手前。それはまずいか。

 というか、それよりも。


「先輩。聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」


「何?」


「一人にしないっていうのは、お風呂もでしょうか?」


「当たり前よ」


「寝る時も?」


「ええ」


「……その、えーと……体が熱く火照り出した時も?」


「? それは分からないけれど、今日はずっと一緒よ」


 わあぉ、頭を打った甲斐があったぜ。少し先輩から狂気を感じるが……ま、まあ大丈夫だろう。


………

……


「ただいまー……で良いんですかね?」


「良いわよ。どうせ、暫くしたら貴方も住むのだし」


「そ、そうですかぁー」


 出会って三日で、同棲まで秒読みとは流石に恐怖を感じる。俺はこのままで良いのだろうか。


「ソファーに座っていて、すぐにご飯作るから」


「手伝いますよ」


「ダメ。安静にしていて」


「あ、はい」


取り憑く島もなさそうだ。大人しくしておこう。ソファーに座る。うん、柔らかい。多分、うちのベッドの二倍以上するんだろうな……


「そういえば、礼君。一つ尋ねてもいいかしら?」


「はい? なんでも答えますよ?」


「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……何故、礼君はあんなに茉利理と仲が良いの?」


「そ、それは……」


 まずい。この雰囲気は。


「今日。礼君の手前、聞けなかったけれど……凄く気になったのよ。なんとなく、二人は通じ合っている感じがしたし、長い付き合いなんだって、すぐに分かったから」


 ざくざくざく、と。包丁の音がリビングに響いている。先輩の声も相まって、少し怖かった。怖かったのだが……。


「……まあ。実際、あの人と知り合ったのは高校三年のオープンキャンパスでしたから、確かに今の人間関係じゃ一番深いかもしれません」


 正直に言おう。そうじゃないと、先輩に対して失礼だ。そう思った。


「……やっぱり」


「でも、そういうのじゃないんです。恋愛関係とか。……というか俺、今だに異性と深く関わるの無理で」


「え?」


 心底、驚いたように先輩は振り返る。


「何か、あったの?」


「はい。高校二年の時、俺初めての彼女が出来たんです。それで、一ヶ月ぐらい付き合って……いざ、その子の誕生日。言われたんです。今までのは全部ドッキリだからって」


 いまだに思い出すと、心の中がざわざわする。けれども、遠い過去の話でもあると、分かっている。だからこうして、口に出せるようになった時点で随分と改善している。


 ……とは思うのだが、どうにも心の底では違うらしい。


「……それからです。恋人とか、付き合うとか、ちょっと受け付けなくて。あははっ、やっぱだせぇーなぁ」


 なんか恋人が出来ないやつの惨めな言い訳みたいだ。


「……そう。だから、貴方はあの日……」


 先輩は小さく呟いた。ぐつぐつと煮える鍋の音にかき消されてしまいそうなか細い声だった。けれど確かに、俺の耳には届いた。


「ごめんなさい。先輩。ほんと、一昨日の記憶はないんです。だから、俺が何を言ったのかは分かりませんが、こんな奴なんで。切りたくなったらすぐに切って下さい。それが多分、お互いの……」


「──ねぇ、礼君」


 言葉の途中で、耳元で名を呼ばれる。


「ひゃ! ひゃい!」


驚いて目を向けると、そこにはこれまで見たことのない程に不機嫌な表情をした先輩の顔があって、さらに驚く。


「話の腰を折るようで悪いのだけれど、貴方がさっき言ったダサいって、どういう意味?」


「え? そりゃ、ダサいでしょ? 嘘の恋人に一ヶ月も入れ込んでたんですよ? その事実だけで十分馬鹿で……」


「なら、あの日の酔った貴方の言葉だけを信じて、絶賛入れ込んでいる私は馬鹿な女?」


「そんなわけ……」


 そんなわけない。だって、先輩は。


「なら、貴方だってダサくない。寧ろ、その話を聞いて私はより貴方を好きになった」


「……いや、でも」


「もしも」


 一度、言葉を打ち切って、先輩は大きく深呼吸をした。まるで、何かの覚悟を決めるように。


「もしも、貴方が私を嫌いになって、振るというのであれば、私はそれでも良いわ。でも、そうじゃないなら」


 先輩は隣に座ってくる。肩を預けてきて、顔を吐息が掛かりそうな距離まで寄せてきた。


「──嘘の愛に苦しむ貴方の心を、私の本物の愛で上書きさせて」


 どくん、と。心臓が高く跳ねた。それはそれは高く、月にまで届いてしまいそうなくらい。

 返す言葉が見つからない。何かを考えようとしても鼓動がうるさすぎて……。


「そのためなら、この体でも、心でも、なんでもあげる。全部よ、好きにしてもらって構わない。言葉だけじゃ信じられないと言うのなら、今すぐにでも」


そう言って、先輩は目を俺に向けたまま器用にシャツのボタンを外していく。

 襟口からは白い肌と、赤い下着が覗き始める。


「ちょ! ま! たんまたんま! ずるいですよ! それは!」


「……あら、このまま既成事実くらい出来ると思ったのに」


 少し悔しそうに先輩はため息をついた。

 危ない危ない。あのまま行っていれば、月まで届きそうなバベルの塔がクレーターを作ってしまうところだった。……うん? どういう意味だ?


「そういうのは、無しで行きましょう? やっぱエッチするなら相思相愛じゃないと」


「貴方は私のこと嫌いなの?」


「い、いや、まだ分からないんですよ。正直、自分の気持ちって奴が」


 多分、今のまましたところで、俺は結局、先輩の気持ちを疑ってしまう。遊ばれてるだけなんじゃないか、今度はもっと時間が経った後でドッキリだったとでも言われるのじゃないかと。


 だから。


「俺は自分の気持ちが分かるまでは、先輩に手を出したくない……です」


 くぅ! これで! これでいいのだ! そう。どれだけ魅力的な人だったとしても、これで……ふぐぅ。


「あら? 一昨日とは随分と違うのね。それはそれは激しく求めてくれたのに」


「え!?」


「私の体の全身隈なくその指先で弄び、穴という穴を蹂躙し、私が音を上げても全然許してくれなかった貴方が」


 なんて、卑猥なんだ! 先輩の口からそんなっ! おいおいおい、当分おかずはいらないぞ。これは。


 だが。


「嘘、ですね? だって、既成事実まだ出来てないって、さっき逆説的に証明してましたよ」


 既成事実を作りたいとは即ち、そういうことだ。


「……めざといわね」


 先輩はぷっくりと餌を蓄えたリスのように頬を膨らませ、じっと下目遣いに見上げてくる。その後で、ふっと笑って立ち上がった。


「さて、ご飯にしましょう? お腹は空いてる?」


「はい。ぺこぺこっす」


 そう言えば、昼食も会議のために簡単に済ませていた。


「そう。良かった。……あ、それと礼君」


「なんですか?」


「貴方はさっき止めろと言ったけれど、止める気はないから」


「ん? 何をです?」


 はて、なんのことか。正直、緊張と興奮がぐちゃぐちゃになっていたせいで、ちんぷんかんぷんだ。


「──既成事実。私はいつでも貴方が欲しいもの」


 そう言って、先輩は笑う。その表情は鳥肌が立つほど美しくて、そして何より蠱惑的だった。

 その日は、本当に眠りにつくまで……いや、眠りに落ちてもなお、俺と先輩は一緒だった。


 少し狭いセミシングルのベッド。時折寝返りを打てば、ぎいいと音が鳴る。

 ぎゅっと手を握られて、顔と顔はすぐに引っ付いてしまいそうなくらいの距離で……。


 そして俺は気づいた。


 これ、寝れなくね? こんなに顔の良い人が横で寝てて、何もしない方が失礼なのでは?


「……ふぅ」


 性欲に飲み込まれそうになった俺はおもむろに、ベッド脇にあったいつかの手錠を手に取ったのだった。

 

 

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