第3話  愛の魔球は俺を追いかける。

 テニスコートに差し込む夕日。パカンパカンとラケットの音が響く。

 緑色のコートには、男女が一人づつ。

 俺と、彼女だ。


「行け! 礼! ナイサー!」


「お前のバルクを見せてみろ! 礼!」


「ああ。任せな」


 手加減はいらない。なぜだか……本当になぜだか、相手の方が自分よりも上手いのだから。

 スコアはほぼ同じ。ここに来て、初心者だからと手を抜いていた弊害が出ている。

 まさか先輩の成長がここまで常軌を逸しているとは。


「行きます。先輩!」


 俺はぼろぼろな体に気合いを込め、トスを上げた。


「来なさい、礼君。貴方の全て受け止めてあげる!」


「うぉぉぉぉ!」


 この二年。俺はテニスに全力を注いだ。晴れの日は素振りをして、曇りの日は走り込みをして、雨の日は部室でサボった。

 その結果生まれたのが、この魔球。


「行っけぇ! 二重まつ毛の極みサーぁぁぁぁーブ!」


 手応えあり。先輩には悪いが、ここは負けれない。


「──いいサーブね。テニスのことは分からないけれど、その技が研鑽に研鑽を重ねた末に行き着くレベルだということは分かったわ。でもね、礼君」


「なっ!?」


 まるで、コースを読んでいたように、先輩はボールに回り込み構えを取る。


「な、馬鹿な!? 反応した!? 礼の唯一の武器にして、この部内においても最強のサーブに!?」


 先輩のラケットは確かに。確実に、その中心で俺のサーブを捉える。


「──愛さえあれば、私はなんだって出来る」


 まるで、唸りを上げるような回転だ。心なしか、虎のような威圧感を感じる。

コースは左隅。正直言って、届くとも分からない。

分かりはしないのだが。


「ぐわぁぁぁ! 届けぇ!」


 腕を伸ばし、コートをひた走る。


「負けるな! 礼!」


「お前のバルクはそんなもんじゃないはずだぁぁぁ!」


 分かっているとも、友よ。

 ボールの軌道は理解した。ラケットは既に指先の一部のような感覚。

 これなら。


「うぉぉぉ! ここだぁぁぁ!」


 振る。タイミング、位置、何一つとして。つまり。


「勝った! 第三話完っ!」


「忘れているのかしら、礼君」


「ひょ!?」


 視界からボールが消える。同時に体全身を貫くような衝撃が走った。


「──私の愛は、そのボールにも宿っていることを」


「なっ! そんな! そんな馬鹿な!」


「確実に礼のラケットはボールを捉えていたっ! 間違いなく! な、なのに!」


 俺の手から、ラケットがこぼれ落ちる。膝も震え始めた。


「なぜっ!」


「どうしてっ!」


「「礼の股間にボールが直撃しているんだぁぁぁぁ!」」


 耳に届いた二人の友の声は、ひどく濁っていた。

 世界が激しく歪む。まるで、重度の船酔いのようでもあり、この世の終わりのようでもあった。


「あ。悪い。俺、死んだ」


「「礼ぃぃぃ!!」」


 体が地面に吸い寄せられるのが分かった。しかし、いつまで経っても、固い地面が後頭部に当たらない。代わりに二つの柔らかな何かが顔に触れる。

 抱き止められた。先輩にだ。ひゅー、やっぱり大きい……ぜ。


「……ごめんなさい、礼君。狙った訳ではないの、けれど、何故だかどう打っても貴方に向かっていってしまうの。本当にごめんなさい」


 そっと柔らかいものの上に頭を置かれる。太ももだ。テニスウェアのサラサラとした肌触りと独特の柔らかさで分かった。膝枕は長年の夢ではあったが、今は堪能する余裕が……。


「せん、ぱい。俺は……だい……じょうぶ」


「恐るべき魔球。言うなれば、愛の追撃弾ラブホーミングショットってところですね」


 誰だ、我が物顔で解説してメガネをくいっとした奴。

 というか、なんでこんなことになったんだっけ?

 意識が遠のく。数秒もしないうちに、俺は股間の衝撃に沈んだ。

………

……

 時は、四限後に遡る。

 授業を終えた俺は、そそくさと部活棟に向かった。理由はもちろん、今日練習があるからだ。ちなみに先輩は生徒課に用事があるようで別れた。……随分と不機嫌になっていたけれど。


「ちゃーす」


 部室の鍵は空いていた。


「ういー、卯花じゃん。今日もう終わり?」


「部長? あれ、今日は休講じゃなかったんすか?」


「友達と待ち合わせでねー、ちょっと部室開けてるー」


 鮮やかな紫色の髪に、病的なまでに白い肌。

というか、なぜ……。


「あのー、なんで下着なんすかねー?」


 ピンク色の下着一枚で、部室のソファーに寝転がっている。


「はぁー? いいじゃん別にー、君以外いないんだし―。あ、何? 興奮しちゃったー? けっ、これだから童貞は」


「確かに部長の足は……いえ! してません!」


 出かかった本音を辛うじて飲み込めた。……正直に言えば、ガン見したけど。


「うっそだぁー」


 部長、安斉茉利理あんざいまりり。現在、三回生の先輩だ。俗にいうスレンダーというやつで、随分と胸の辺りは慎ましいが、スポーツで引き締まった美脚はあまりにもグッジョブだ。


「ふっ、そんな貧相な体で俺を誘惑しようったって、そうは行きませんよ! せめてBカップになってから出直してください!」


「ふーん、へー、そーなんだー。なら仕方ない。実力行使だ。とりゃ!」


 先輩は立ち上がって、素早く俺の方へと突撃してくる。

 何が狙いか。ズボンか? ズボンを引き下ろすのが目的か? いや、まだ分からない。とりあえず、カウンターを……。


「どう? 参ったかぁ? 卯花?」


「ちょ、ギブギブ! 落ちる落ちる!」


 たった数秒の間にあれよあれよと逆十字固めを決められていた。


「あ、そうそう。何やら彼女が出来たんだってねぇ? ねぇ? 卯花?」


「げぇ!? なんでそこまで情報がが!?」


「メッセで届いてたからさ―。君が昨日の夜に抜けたグループでね? どういう風の吹き回しだぁー、このこのぉー」


「ぐへ! ちょ! ギブギブ!」


 いや、だが、少し考えてみれば、しなやかで滑らかな部長の足に挟まれるのは、悪くはないのかもしれない。普通に結構痛いが。


「どっちから告白したんだ? 随分と美人らしいなぁ?」


「か、勘弁っす」


 扉がノックされた。


「はいはいーい。入っていいよー」


「この状況はまずいでしょ!?」


 静止も虚しく、ドアが開く。入ってきたのは……。


「──何を、してるのかしら。礼君」


 ああ。詰んだわ。その目を見た時に、心の底からそう思った。

 その目に映っていたのは、無。まるで、ハイライトの消えたアニメキャラのような絶対零度の瞳だった。


「せ、先輩。こ、これは……その」


「紫苑? 嘘でしょ、まさか卯花が付き合ったのって……」


 先輩はあんぐりと口を開けて、俺と先輩の顔を交互に見る。


「え、部長。知ってるんですか?」


「知ってるも何も友達だし。ね? 紫苑?」


「ええ。今の今までは友達だと思ってたわ」


「え? ちょ、どういうこと?」


「先輩。信じられないかも知れませんが……誤解なんです」


「礼君。大丈夫よ、分かってるから。その女に誑かされたのよね? 貴方は悪くないわ」


 ひぇ。先輩は笑っていたものの、どう見たって普通の笑顔ではない。


「ちょ、え、怖い怖い」


 流石の部長も先輩の雰囲気に気押されたようだった。


「その女が悪いのよ。そうよ、礼君は悪くない……悪くない……ワルクナイ」


 フラフラとした足取りで、一歩また一歩とにじり寄ってくる。


「う、卯花? 紫苑はどうしちゃった訳?」


「わ、分かりませんが、今は正気では無さそうです」


 昔のロボットアニメで、今の先輩のような状態を見たことがある。

 あれは、暴走モードだ! 愛ゆえに破壊衝動に飲まれた結果、エヴ……こほん。とりあえずそんなところだろう。


「ど、どうすれば戻るの!?」


「わ、分かりませんが、手はあるかも知れません。先輩は一度逃げてください」


「な、なんかごめん!」


 部長は高速で服を纏い、部屋を飛び出す。……誰かに見られてまた変な誤解をされなければいいが。


「ナゼ? ナゼ? アノオンナヲカバウノ?」


「落ち着いてください先輩。あの人は敵じゃない!」


「レイクンハダマッテテ」


「ちょっと、待っ……あ」


 部屋を出ようとする先輩の手を掴んだ瞬間、ふと腰がぴきりと痛んだ。

 くそぉ、こんな時に逆十字固めのダメージがっ!

 ………

 ……

先輩もろとも倒れてから数秒。

 唇には柔らかい感覚が。胸にはもっと柔らかい何かが。

 恐る恐る目を開けてみる。

 先輩が俺の上に乗っかる形で倒れていた。

 しかも。


「ん!?」


 キスだぁぁぁ! 嘘だろ! ラッキースケベならぬ、ラッキーキッス。天文学的確率で巻き起こるラブコメの定番。


「……ん。っ!?」


 先輩もようやく我に帰ったようで、見る見るうちに顔が紅潮していく。

 お互い、目をパチクリさせた後で、体を起こす。


「「……」」


 お互い何も言わないまま、見つめ合う。


「あの、先輩」


「……何? 礼君」


 平静を装っているようだった。


「その、なんか、すみません」


 俺が謝ると。


「っ! ………いえ、その……お粗末さま、と、ところで今どんな状況だったかしら」


 おっと、キスの衝撃で記憶も飛んでしまったようだ。


「あー、あれっす。今から練習にって感じで」


「確か、テニスよね。私も見に行ってもいいかしら?」

「あ、見学は大歓迎っす」

 今は刺激しない方がいい。

 ああ。そうだ。それで、先輩にテニスを教えていたら、上達があまりにも早いから試合をする流れになって……。



「ん……あれ、ここ何処だ」


 俺が意識を取り戻したのは、恐らくは大学構内の医務室。それもベッドの上だった。夕日は既に半分沈んでいて、少しくらい。


「お、起きたんだ。卯ノ花」


「部長」


 ジャージ姿の部長が窓辺で黄昏ていた。


「君の相手がまさかの紫苑とはねぇ。意外も意外だわ」


「ははー、それほどでも」


「というか──トラウマはもう良いの?」


「……さあ、どうなんでしょうか。ちょっと自分にもわかんないっす」


 今日は、先輩の期待に応えるのに必死だっただけだ。本当に彼女のことを好きなのかと言われれば、正直……。


「ま。ある意味、お似合いカップルだよ君達」


「何か知ってるんですか? 先輩のこと」


「まあ、君が知らないであろうことはね」


 にひひと意地悪く部長は笑う。


「まあ、時間はあるんだし、もっとお互いを知っていけば良いんじゃない? 君のトラウマの答えだって出るでしょ」


「そうっすね。はい」


 部長は唯一、俺のトラウマを知っている。


「んじゃ、あたしゃ帰るから。もうすぐしたら紫苑戻って来るだろうし、カップルらしく一緒に帰んな」


「うっす、わざわざあざす」


 知っていけば、何か変わるのだろうか。

 トラウマも、フラッシュバックする記憶もいつか消えるのだろうか。


「──それなら、嬉しいんだけどなぁ」


 ぽつんと声に出してみた。

  

 




 

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