第4話

「うわっ、何これ? 高価な魔術書かと思ったら、エッチな本じゃん!」


 次の瞬間、声は部屋の真ん中、テーブルの上から聞こえた。

 三人は殴り合うのを止め、はっとして目を向ける。


 そこには、赤毛のショートヘアに大きな茶色の目が印象的な小柄な少女が立っていた。小人族の盗賊、ピップだ。彼女もこの長屋の住人で、レインのパーティの最後の一人だった。

 ピップは、まるで宝物を見つけたかのように両手で本を広げ、にやにやと笑っていた。リアンドルは慌てて自分の手を見たが、そこにはさっきまであった本はなかった。


「へぇー、男って本当にこういうのが好きなんだ。サイテーだね〜」


 そして鼻で笑いながら、ページをめくっていく。その小さな体はまるで子供のようだが、彼女は立派な大人だ。その証拠に、彼女の目は春画の内容をしっかりと理解しているようだった。


「おいおい、ピップ! それを返せ!」


 レインが叫んで手を伸ばすが、彼女は軽々とテーブルから飛び降り、三人の男たちの間をすり抜けていく。


「へー、何? このエロ本、そんなに大事なの? さっきから喧嘩してたのって、これのせい?」


 彼女は本を頭上に掲げ、からかうように三人を見回した。


「ふーん、こんなので大人の男が三人も喧嘩しちゃうんだ。情けなーい」


「ええい、待て!」


 グロンドが大きな手を伸ばすが、ピップは軽やかにかわしてしまう。


「ピ、ピップ。それは貴重な研究資料なんだ。大人しく渡してくれないか?」


「研究? ナニを研究するの? エロいお姉さんの体? ふーん、さすがむっつりエルフさんだね〜」


「む、むっつ……」


 ピップの言葉に、リアンドルは言葉を詰まらせる。その目はかすかに涙を浮かべていた。普段は冷静で厳しく彼女をたしなめる彼だが、この話題に関しては被るダメージが大きすぎるようだった。


「とにかくそれを返してくれ。本当に大切なものなんだ」


 こういうときの彼女はなかなか捕まらない。レインは冷静に、心を込めて頼み込んだ。

 けれど、それが間違いだった。


「へぇ〜、大切?」ピップは目を細める。「じゃあ、これで儲けられるってこと?」


 三人の顔が強張る。


「そっか。見たことない材質だったから、異世界のモノじゃないかって思ってのよね。なら、とびきりたか~く売れるはずだよねえ?」


 そう言うピップの目が怪しく輝いていた。盗賊である彼女は、他の誰よりも金に目がなかった。


「よし決めた! これ、闇市場で売ってくる! きっと大金になるはず!」


「させるか!」


 三人の男たちが同時に叫び、ピップに飛びかかる。しかし、小柄で俊敏しゅんびんな彼女は、いとも簡単に三人をかわしていく。


「あはは! おっそーい!」


 ピップは笑いながら、本を片手に部屋中を駆け回る。三人は必死に彼女を追いかけるが、手が届かない。


「く、くそ……!」


「諦めなよレイン。今なら利益の十分の一をあんたに分けてあげても――」


 そこでピップの言葉は途切れた。

 遅れて、彼女の横髪が一房、はらりと切れて宙を舞う。


 レインはその光景を固まって見ていたが、髪が床に落ちる頃には何が起きたのか理解できるようになっていた。

 真空波の魔法。それが彼女の頬を掠めたのだ。


「ピップ。それは私の大切な研究資料だ。それを売るなど、冗談では済まされないぞ」


 構えていたのはリアンドルだった。その手元からは魔力の煙が立ち昇っていた。


「うわあ、レディの髪を切るとかサイテー。これだからむっつり野郎は嫌いなんだよねえ」


 ピップもゆっくり構えを取る。その手の中にはいつの間にか短剣があった。


「同じパーティのよしみで、ギリギリ殺さないでおいてあげるよ」


「ふん。そりゃこっちのセリフだ」


 グロンドも拳を握る。その腕はドワーフの秘術により岩のように変質していた。


「全員診療所に送ってやろう。もちろん、俺が娼館から帰ってきたあとで、くたばってなけりゃだがな」


 臨戦態勢に入ってしまう三人に、レインは頭を抱えた。

 どうしてこうなったのだろうか。ただ、自分はこの本を楽しみたかっただけなのに。

 そして顔を上げ、ピップが抱える本の表紙に目を向ける。そこには白い布を纏う女神が微笑みを浮かべていた。

 そうだ。本来、あの笑顔と薄い衣の奥を見れるのは、頑張って神殿を調査したレインだけだったはずだ。それがこんな乱痴気騒ぎになったのは誰のせいか?


「どう考えても――お前ら全員が悪いよな?」


 レインは壁に立て掛けてあった剣を鞘ごと蹴り上げる。そして、空中で掴むと流れるように構えた。


「オレはあの神殿だけで百以上のスケルトンを切ってきた。その業、鞘の上からでも味わえるんだから、お前ら感謝しろよ?」


 次の瞬間、四人は一斉に動き出した。

 リアンドルの魔法が閃き、グロンドの拳が風を切る。ピップは本を片手に俊敏な動きで躱し、短剣を投げつける。レインは鞘に収めたままの剣で、あらゆる攻撃を受け流していく。

 狭い部屋の中で、四人の戦いは凄まじい勢いで展開された。家具は倒れ、壁には傷がつき、窓ガラスは砕け散った。長屋全体が揺れているかのようだった。

 ピップは本を守りながら、他の三人の攻撃を巧みにかわしていく。しかし、偶然にも魔法と拳が重なったことで、彼女にも隙が生まれた。そして、レインの剣はそれを見逃さなかった。


「きゃっ!」


 手を打たれたピップの悲鳴と共に、本が彼女の手から離れて宙に舞う。

 時が止まったかのように、四人の目が本に釘付けになった。そして、全員が同時に手を伸ばした。

 レインの長い腕、グロンドの太い指、リアンドルの繊細な手、そしてピップの小さな掌。四人の手が、宙を舞う本に向かって一斉に伸びる。

 そして次の瞬間――その春画本は輝きに包まれた。


「な、なんだ!」


 驚きの声を上げたのはレインだけではない。他の三人も驚愕し、その光景を見つめていた。

 本は空中を漂い、眩い光を放ち続ける。その神々しさは、あたかも神が舞い降りる瞬間のようにも見えた。

 そして、本は僅かに上に昇ると――


 ぱちん。


 ただそれだけの短い音を残して、光も、そして異世界の春画本も、跡形もなく消え去っていた。

 後に取り残されたのは、傷だらけの姿で呆然と天井を見上げる四人の冒険者だけだった。

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