第2話

 依頼の報告はつつがなく終わった。

 神殿で得た物品と地図は長屋を管理するギルドに引き渡し、報酬によってレインは自分の家を守ることができた。古いうえに狭く、最低限の家具しかないぼろ屋。しかし、どこか暖かく居心地の良い自分の居場所だ。


 けれど、その真ん中でレインは難しい顔をしていた。その視線は目の前の木のテーブルの上に注がれている。

 そこには、あの春画本が置かれていた。


「も、持ってきてしまった」


 レインは頭を抱えた。ギルドには本来発見した物はすべて渡さなくてはならない。だが、懐に隠していたこの本を、どうしても出すことはできなかった。

 そのあまりにもリアルで魅力的な絵に心は揺さぶられる。こんなものこの世の物とは思えない。


 そこで、彼は異世界から召喚された勇者の噂を思い出した。魔王を倒すため、昔から何度も異世界の人や武器の呼び出す儀式が行われてきた。そして、最近召喚されたある男は、今や王都で英雄として称えられ、まさに魔王との決戦に向かおうとしているという。


「もしかして、これも異世界の物なのか?」


 そう考えると、この初めて触る質感も納得ができた。同時に、その価値も極めて高いということになる。異世界の遺物やその技術は、どこの市場でも高額商品の代表格だからだ。

 だとすれば、もはやギルドに返却するという選択肢はない。今考えるべきは、これをどう使うかだった。

 金に変えるか、あるいは自分で“使用”するか――


 と、そこで突然ドアをノックする音が響いた。

 レインは慌てて本を隠そうとしたが、間に合わなかった。ドアが勢いよく開き、大柄なドワーフが豪快な笑い声とともに部屋に入ってきた。


「おう、レイン! 無事帰ってきたようだな。神殿探索の祝いだ、一杯やろう!」


 ドアの簡素な棒状の鍵が床に転がる。それを見て、レインは歯を剥き出してその無骨な隣人に詰め寄った。


「グロンド、てめえまたうちの鍵壊しやがったな!」


「お? すまんすまん。俺の筋肉にはその木くずが感じ取れんかった!」


 長屋の住人で、レインの仲間の一人――ドワーフのグロンドは、鍵だった木片を蹴っ飛ばすと腕に大きな力こぶを作ってみせた。

 確かに、その太さは木の幹のようで、彼の前ではこんな簡素な貫抜あってないような物なのかもしれない。しかし、デリカシーはもう少し持つべきだろうとレインは常々思っていた。

 今だって、万が一もう少し遅ければ“使用時”のタイミングだったかもしれないのだ。それを考えるとぞっとした。


「おや? これは何だ?」


 グロンドは天井に届きそうな背丈があるので、前に立ってもその視線を遮ることはできない。当然のように彼の視線はテーブルの上に釘付けになった。

 けれど、レインも彼が入ってきた時点でもう隠すことを諦めていた。首を振ってその本を取って見せる。


「神殿探査で見つけたんだ」


「ほお、ちょろまかすとはやるな。どれどれ……」


「あ、おい、勝手に見るな!」


 伸びてきた太い腕に本を掠め取られ、レインは抗議の声を上げる。しかし、そのときにはもう本は開かれるところだった。


「なんだこりゃあ! これは春画か!?」


 グロンドは目を見開き、本を食い入るように見つめた。


「信じられん! まるで本物のようじゃないか!」


「ったく。オレだってまだ全部読んでないんだからすぐ返せよ」


 無理に奪い返すことを諦め、レインはどかりと椅子に腰を落ち着ける。そして、詳しい経緯を話した。

 グロンドはそれを熱心にページをめくりながら聞いていた。


「異世界の物品か。そいつはすごいな。確かに、こんな物今までみたいこともないぞ」


「へへ。だろ?」


「だが……これは“使えん”な」


 少し低い声で言うと、彼は本を閉じた。

 その言葉がレインには信じられなかった。


「馬鹿、こんな本物みたいな絵、他にねえだろ!」


「確かに絵は本物のようだ。しかし、それは絵でしかない!」


 その太い指をレインに突きつけるようにしてグロンドは言い放つ。


「見ろ。この表紙はつるつるしてはいるが、女の柔らかい肌の感触はない」


「いや、肌の感触がないのは普通の絵だって同じだろ」


「ああ! だから、本物の方がいいんだ。ちゃんと感触があり、重ねられる肌のあるな!」


 そう言うと彼は本を高く掲げる。


「そこでだ。今からこいつを質に入れて、娼館に行こう!」


「は、はあ?」


 レインは動揺を隠せなかった。

 確かに、グロンドの言い分には一理ある。できることなら、その肌に触れてみたい。

 だが、レインは物心ついた頃から冒険者を志し、それになったあとも迷宮の調査や魔物退治などに注力してきていた。そのせいで女性経験はほとんどく、子どもの頃に告白してフラれたのが一度きり。今は好みの女性がいてもどうしていいのか分からず、まったく行動が起こせないという有り様だった。


 ただ――

 そんな奥手のレインにとって、この本はどこか“ちょうど良い”。

 あくまで絵だ。目の前で拒絶を返される心配もない。けれど、そのリアルさからたぎるものはある。だから、ちょうど良いのは『距離感』ということになるのかもしれない。レインは心と身体をもって、そのように感じたのだ。

 故に、もはや売り払うという選択肢はなくなっていた。それで娼館に行くなどとんでもないことだ。


「返せ! それはオレが使うんだ!」


「使うだと? 春画など、ガキが練習するための道具だぞ?」


「なんだと!」


 本を取り返すために、その太い腕に掴みかかる。冒険者ならば、体格差があっても遅れを取ることはない。

 そうして、本を巡ってつかみ合いを繰り広げていると――


「君たち何をやっているんだ」


 その声に、二人は手を止めて顔を向ける。

 開いたままになっていた扉の前には、眼鏡を掛けた金髪の男が立っていた。

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