第9話 私は、私を大切にする

 デスク周りを片付けて、退社の前に第一会議室へ向かうべく立ち上がる。


「じゃぁ……佐倉さん、がんばってね。もし何かわからないことがあったらいつでも電話して──」

「私にはカッコいい彼氏がついてるんで大丈夫ですっ!! 先輩の手なんて借りなくてもちょちょいと終わらせますしっ!!」


 完全に敵認定されてしまった気がする。

 そりゃそうか。

 あんなたくさんの人の前で、今まで馬鹿にしていた私の目の前で、主任に叱られたんだから。


 でも、私は悪くない。

 謝る必要は、ない。


「そう。わかった。でももし本当になにかわからなかったらすぐに言ってね」

 小さなミスが命取りになることだってある。

 不安なことはそのままにしておくのではなく、相談しながら進める。

 それは私が新人の時、当時教育係だった主任に教わったことだ。


「……ふんっ」

 まぁ、今の彼女にはあまりくどくど言わない方が良いわね。

 こういう時には周りが──特に怒っている相手が何を言っても頑なになるだけだから。


「じゃぁ、また明日。お疲れ様」


 私はそう言うと、しばらくぶりに残業することなく部屋を後にした。



***



 長く白い廊下を歩き、第一会議室へと向かう。


 主任との打ち合わせが終わったら久しぶりに早く帰宅することになる。

 何をしよう?

 いざとなったら思いつかない。


 いつも遅い時間になるから最近はコンビニ弁当が多かったけれど、久しぶりに何か手の込んだものでも作ろうかしら?

 でも一人暮らしでそんな手の込んだものを作っても……という思いもある。

 うん、決めた。

 ゴロゴロしよう。

 そして何か簡単なものでも作って、帰りにスイーツでも買ってそれを食べて。

 ゆっくりとお風呂に浸かってしっかりと眠る。


 最高の贅沢だ。


 そんなことを考えているうちに第一会議室が見えてきて、思わず背筋を正した。

 その時だった。


「海月!!」

「!! ……村上、君……?」


 後ろから呼び止められ振り返ると、息を切らして私の元へ駆けてくる優悟君の姿。


 追ってきたのだろうか?

 いやまさか。

 佐倉さんが言っていたカッコいい彼氏というのはおそらく優悟君のことだろうし、なんでここへ?


「どうしたの? 何か用だった?」

 あれから1週間。

 思ったよりも平然としている自分がほんの少しだけ意外だ。



 入社してすぐだった。

 明るく、誰に対しても優しく接する優悟君を好きになったのは。


 だから告白された時は疑うこともせずただ舞い上がったし、あの時の私は表面上の優悟君しか見えてなかった。

 でもそれが嘘だと知って、私に残ったのはただ、虚無だ。

 好きでも、嫌いでもない。

 ただの、無。


 好きの反対は嫌いではなく無関心だという。

 多分今の感情は、まさにそれだろう。


「あるよ!! すっごいあるよ!! 話がしたいって何度も言ってるのに忙しいだのなんだので1週間だぜ?」

「仕方ないよ。ずっと残業続きだったんだもん。佐倉さんの仕事だけど」

「ぐっ……そ、それでも話ぐらい……!!」

「同じ部署なんだから、話ぐらいいつでもしに来れば良かったのに」


 これは意地悪だったかもしれない。

 私たちが付き合っていたということを隠してきた優悟君にとって、それはできないことだから。

 皆の嫌われ者のくらげと付き合っていただなんて、知られたくないものね。


 言葉を詰まらせた優悟君に、私はただ無感情に笑った。




「それで、何の話? 別れようっていう話なら私はもう了承して別れたはずだけど?」

 淡々と口にしたそれに、優悟君が顔をひきつらせた。


「そ、それは……、えっと……。で、でもさ、嫌だろ!? 海月は!! 俺がいなきゃ寂しいだろ!? お前、俺のこと好きだしさ。本当は別れたくなくて、勢いで了承したんだろ!?」

「っ、ちょ、離してっ」


 私の両肩を掴んで迫る優悟君に私は全身をこわばらせる。


 俺がいなきゃ寂しい?

 寂しくないわ。

 だって元々いないようなものだったんだから。

 特に1ヶ月経ってからは、何かしら理由をつけて一緒に帰ることもデートもしてもらえなかった。


 俺のこと好きだしさ?

 もうそんな感情はないわ。

 あの日、彼の本心を聞いてから、私の中のそんな感情は壊れてしまった。


 悲しくて悔しい気持ちは全部、あの日、主任が暖めてくれた。


「海月、メガネ外したらめちゃくちゃ可愛くてさ、びっくりしたよ。今夜食事にでも行かないか? そこでゆっくりこれからのことも話し合って──」

「あ、遠慮します」

「え?」


 優悟君の言葉を遮って出た言葉は、拒絶の言葉。


 嫌なことは嫌と言う。

 いつも主任に助けられてるだけじゃだめだ。

 私だって変わりたい。

 私だって、私を大切にするって決めたんだから。





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