第20話 終焉

 気がつくと、僕は白い世界にいた。

 上も下も、右も左も、ただ白くて広い。どこまで続いているのか分からない世界。


 ——ここはどこ? 何が起きたの?


 僕は元の姿になって、地下室から出て、そして、キマイラになっていたローを倒した……はずだ。


「ノカイ、ありがとう」


 懐かしい匂いと声に振り向くと、そこにはローが立っていた。

 もうボロボロじゃない。夜空色の髪は綺麗に結われているし、着ているのはピンとした軍服だ。もちろん手足に長い爪も毛皮も生えていない。


「ロー!」


 屈みこむローに飛びつくと、安心感のある首筋に鼻を埋める。そこからは今度こそ何も混じっていない匂いがした。

 もう、この世のどこにもない匂い。

 大きな手が、僕の頭や顎、背中を撫で回す。


「すまない。辛い思いをさせたね」

「ううん」


 辛くなんかない。だって、またこうやってローに会えたのだから。

 ひとしきり僕を撫で回したローは、すっと背筋を伸ばして立ち上がった。


「おいで、ノカイ。一緒に行こう」


 ローの指さした先には、柔らかな光が見えた。

 歩き出すローに、尻尾を振って続こうとして――僕は立ち止まった。

 誰かが、僕の名前を呼んだ気がしたのだ。

 耳を立て、くるりと回す。いつの間にか右耳についていた耳飾りが揺れ、誰が僕を呼んでいるのか思い出させてくれる。


「……アズ!」


 気のせいじゃない。遠くからだし、すごく小さい声だけど、確かに僕が呼ばれている。


「ノカイ、どうした?」


 僕がついてこないことに気づいて、ローが振り向いた。


「あっ、えっと……」


 ローと一緒に行きたい気持ちはある。でも、本当にこのまま行ってしまっていいのだろうか、と僕のどこかがそれを止める。


 ——ローは僕の馭手だ。だから一番大切な人のはずで、ローの言うことは一番でなくちゃいけないのに。


 そう思うものの、それ以上僕は前に進めない。

 それどころか、ローに背を向けて、僕を呼ぶ声の方へ走っていきたいとすら思ってしまう。


「……ノカイ?」

「あ、あの、僕……戻らなきゃ」


 上目づかいでローを見上げると、なぜかローは嬉しそうな顔をしていた。

 戻ってきて、僕の右耳に触れる。


「……新しい馭手かい?」

「う、ううん、ジャルガルは馭手じゃないの」


 僕は首を振った。


「だから何にも教えてくれないし、意地悪だし、全然強くないし、魔法だってへたっぴだし、お金もないし、嘘つきだし、前科だってあるの」


 並べてみると、いいところなんて何一つない。

 でも、だからこそ、戻ってあげなきゃいけない気がした。


「……そうか。大切な人なんだね」

「う……うん」


 ちょっぴりの後ろめたさを感じながら頷く。ふふ、と小さく笑ったローは再び僕の前にかがみこんで、僕の頬を両手で包んだ。



「ノカイ、君の道に――幸福を」


 僕の鼻先に、ローの唇が触れる。




「アズ! ……おい、アズ!」

 目を開けると、僕のことを覗き込むジャルガルが見えた。逆光になった髪が、太陽の光に輝いている。

 鼻を動かすと、強い血の匂いと、干し果物のような匂いがした。

 ——戻ってきた。

 淋しい。けれど、不思議とさっぱりとした気分だった。ずっとついていた首輪がなくなってしまったようで落ち着かないのに、その自由を喜ぶ僕もいる。

「アズ!」

 僕の頭を抱えるジャルガルの手からは、安堵の感情が伝わってきた。

 口を開こうとすると、大きくなっていた僕の体が光に包まれた。そのまま全身が溶けるように小さくなっていく。

「……っ!」

 逃がすまいとでもするように、ジャルガルが僕のことを強く抱きしめてくる。

 やがて光が消えると、僕はすっぽりとジャルガルの両腕に収まる大きさになってしまっていた。

「おっ、お前……」

 呆然とするジャルガルの瞳に映る姿を見て、何が起きたかを理解する。

 キマイラになる前の僕、ローに出会った時の僕が、そこにいた。

「くぅん」

 元の姿――褐色の犬になってしまった僕は小さく鳴き、そっとジャルガルの胸に鼻先をくっつけた。

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