第18話 地下室
そこら中に染み込んでいる、薬と生臭い匂い。トゥルムの後ろを歩くと、すれ違う研究者たちが怯えて道を開けていくのが少しだけ面白い。
――もう、二度と戻ってくるもんかと思ってたのに。
ジャルガルと一緒にここを出たのは、確か夏のことだ。いろんなことがあったような気がするのに、まだ1年も経っていない。
――僕がこのままだと死んじゃうって……本当なのかな。
嘘だと思いたかったけど、確かに妙に抜け毛が増えてて、全身がかゆくて仕方ないのは事実だ。
鎖を引かれるままに歩いていると、急に周囲の匂いが薄くなった。左右を見回すと、この部分だけ石の色が違っているのが分かる。
「なに、ここ。作り直したの?」
僕が左右を見回すと、トゥルムがそれを制御するように鎖を引っ張った。
「あー、そう。ほら、ちょうど君が逃げ出した時さ、爆発事故があっただろ」
「あったっけ?」
逃げなきゃ、と思ったことは記憶にある。いや、その前に何か揺れがあったような気もする。砲撃ではなかったのか。
「いやあ、あのせいですぐに捜索できなかったし、ちょうどいいからジャルガルも君もあれで死んだことにしようかと思ったけど……薬がないから戻って来る方に賭けてよかった」
はは、と声を立てたトゥルムだったが、僕が無言のまま見ているとすぐにその笑いは引っ込んだ。
まだ修復されて日が浅いからか、石の匂いは外の温かみを残しているようだ。鼻を上げると、薄い薬の匂いの奥に、微かに懐かしい気分になる匂いがあった。
パンのような、温かい匂い。
——え?
僕が立ち止まると、鎖に引っ張られてトゥルムも立ち止まったようだった。
「こら、立ち止まるな、ノカイ」
軽く鎖を引っ張られるが無視する。左右に首を振ると、トゥルムがたたらを踏むのが見えた。
——間違いない。この匂い、ローの……
今まで建物に染み付いた薬と血の臭いが強すぎて分からなかったのだろう。その証拠に、立て直された部分を過ぎてしまうとローの匂いはかき消えてしまいそうに薄くなった。四つん這いになり、鼻の先に意識を集中させる。
——こっちだ!
「こらっ、ノカイ!」
引き倒されたトゥルムの声を無視して、匂いが導く方向へ走る。下の方だ。両手が繋がっているせいでちょっと走りづらい。僕が知っていたのは、研究所のほんの一部分だけだったらしい。見たことのない廊下を走り抜け、はじめて見る階段を降りる。途中でぶつかりそうになった人が、何かを落とす音がした。
薄暗い階段の先、地下へと続く扉の先から、ローと、それから一層強い血の匂いがしていた。
他の場所は木の扉だったのに、ここだけ金属製の頑丈な扉だ。頑丈そうな閂に鍵がかかっている。
「なんっ、これ……!」
体当たりをするものの、力が弱まっているせいか扉は音を立てて揺れるだけだ。イライラして火を吹くと、焚火よりも小さな火が飛び出した。こちらも威力が弱まっている。
「ああもう!」
ふうっ、と全身の力を籠めると、それでも閂くらいは焼き切れる。開いた先からは全身を撫でるような、強烈な臭気が吹き付けてきた。
血と、腐りかけの肉と、どぶのような臭いと――それから、ローの匂い。
扉の中に、そっと踏み込む。長い石畳と、廊下。並ぶ鉄格子。所々に浮かぶ光球。前に僕が閉じ込められていた牢屋と作りは同じようだ。ただ、地下にあるせいか、湿気はこちらの方が酷そうだ。
「なに、ここ……っ!」
人なのか、それとも他の動物なのかよく分からない呻き声が響いている。入ってすぐの牢屋を見た僕は、全身の毛が逆立つのを感じた。
そこにいたのは、どろどろに溶けかけた――多分、人と、馬のキマイラだった。辛うじてつながっている足に、蹄がついている。隣の檻に入っているのは、狼と人――だろうか。
似たようなものを、見たことがある。
まだクルチハン国があった頃、ウーリ・ベキがしていた双子の実験。
僕の背中を、嫌な汗が伝っていった。この先に何があるのか見たくない。でも、見なくちゃいけない。使命感に突き動かされ、奥へと進む。
一番奥の、少しだけ大きい牢屋の中。そこから、ローの匂いがした。前に立つが、暗くて中が良く見えない。むせかえる臭いで、緊張で、内臓が全部口から出てきてしまいそうだった。
「……ロー?」
震える声で、名前を呼ぶ。薄暗がりが揺れ、鎖の音が鳴る。中にいた影が、光の当たる場所にゆっくりと出てくる。
「ノカイ……か?」
「ロー!」
そこにいたのは、確かにローだった。鎖のついた手足には毛が生えて長い爪が伸びていたし、ぼさぼさの髪からは艶がなくなってしまっていて、髭も伸び放題ですっかり痩せてしまっていたけれど――でも、ローだった。
溶けてない。良かった。
こんな近くにいたなんて。
「待って、今助ける!」
先ほどの扉と同じように、炎を吹いて檻の閂を焼き切る。駆け寄って身を寄せると、ローは確かにそこにいた。手錠のせいで抱きつけない。思いきり息を吸うと、柔らかくパンのようだった匂いに、練り込んだまま焼いてしまった砂のようにグリフォンや炎赤熊の匂いが混ざってしまっているのがわかった。
「ロー……会いたかったん、だよ」
「私もだよ、ノカイ」
嘘じゃないと確かめたくて、ローの全身に頭を擦り付ける。聞きたいことがたくさんあったはずなのに、胸がいっぱいで何も言葉が出てこない。胸に入り切らなくなった分が、目から溢れてくる。
尻尾を振ると、僕の背中をローの手が撫でた。すっかり形は変わってしまったけれど、優しくて大きな手なのは同じだ。嬉しくてまた尻尾を振ると、僕の気持ちとは真逆の、痛いほどに冷たい、ひやりとした思いが流れ込んできた。
「……ロー? どうしたの?」
僕に会えたのに、ローは嬉しくないのだろうか。僕が驚いてローの顔を見ると、夜空色の目が悲しそうに微笑んでいた。
「ノカイ、ここまでよく頑張ったね」
「うん!」
頷くと、ローは真剣な眼差しで僕の目をまっすぐ見つめてくる。吸い込まれそうな目に見入っていると、ふとその奥で何かが揺らいだ気がした。けれども僕がその意味を読み取る前に、ローが重々しく口を開いた。
「ノカイ、最後の命令だ」
「へ?」
「……いいか、私のことを――」
「ま、待ってよ! やだよ! 最後ってなんだよ! せっかく会えたのに、なんでそんなこと言うんだよ! やめてよ!」
馭手が出す、最後の命令。そんなの1つだけだ。
僕が大声を上げると、ローはゆっくりと首を振った。
「ノカイ、申し訳ないんだけど、私はもう……耐えられないんだ。こうやって話すのも、もう限界なんだ。私の意識がなくなる前に……」
「意味分かんないよ! 嫌だよ! ねえ!」
「……無理だ。無理なんだ、ノカイ」
「ちょっとー、いきなり走り出したりしない……で、よね……」
地下の入り口から響く足音に振り向くと、廊下の奥からトゥルムが駆け寄ってくるのが見えた。僕がローの檻の中にいることに気づいた声が、尻すぼみになっていく。
「……ノカイ、出ておいで、そこから」
「やだよ」
じりじりと近づいてくるトゥルムが、背中に手を回すのが見える。杖を出そうとしているのだろう。ローとトゥルムの間に割り込むように、僕は戦闘態勢を取った。
「おい、トゥルム。なんでローがこんな姿になってるんだ。この部屋は何なんだ! ローは処刑されたんじゃなかったのかよ!」
「あー……表向きはそうなってるけどね。死なせるわけにはいかないじゃないか。馭手の血は薬の材料になるし、君が暴れた時の保険にもなるし。キマイラにしたことについてはついでだけど……知らなかったんだよ。大人では獣化が難しいって」
「……はあ? 薬? 何の?」
僕が尻尾を立てると、ちらりとトゥルムは僕の背後に目をやったようだった。
「そりゃあ君の……」
ちゃり、と僕の背後で鎖の音がして、トゥルムが杖を引き抜いた。飛び掛かろうとする僕の後ろから、一陣の風が吹き抜けていく。
「ゴアアアアアア!」
獣の声がして、何かを言いかけたトゥルムの首が飛んで行った。
「……へ?」
僕が呆然と見ていると、杖を持ったままの体がどさりと倒れた。
訳が分からず後ろを振り向く。鎖の切れ端だけが落ちている。
また前を向く。
「グルァ!」
倒れたトゥルムの体を咥え、壁に叩きつけているローがいた。さっきまでは見えなかったけど、背中から僕と同じような大きな羽が生えている。
「……ロー、どうしたの?」
確かにトゥルムは嫌な奴だけど、だからといって話している最中に殺すのはローらしくない。僕が檻から出ていくと、グルル、と唸ってローは頭を下げた。
次の瞬間には、牙が目の前にあった。
「えっ、ちょ……えっ!? 待って!」
反射的に横に転がって避ける。跳びあがって距離を取り、四つ足で立ったローと見合う。夜空色の目は先ほどまでと同じ色だけど、そこにあるのは僕への敵意だけだった。
「ロー? えっ、何? 何なの? 聞いてよ! ねえ!」
「ゴアアアアアアアア!」
ローの口から出ているとは思えない雄叫びが、辺りを震わせた。
僕に向かって突進してくるローをまた避ける。廊下の奥にぶつかった体が部屋を揺らし、パラパラと壁から小さな欠片が落ちてきた。一瞬だけそちらに気を取られた隙に、僕はローの手に思いきり跳ね飛ばされていた。ガシャンと鉄格子にぶつかる。
「えっえっえっ、ロー? ローってば! やめてよ!」
僕を押さえつける手から、ただただ痛いほどの悲しみが伝わってくる。なのに、僕の目の前には、今まさに僕の喉笛をかみ切ろうとするローの牙があった。
ローの目に映った僕も、さっきのトゥルムと同じような表情をしていた。
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