第16話 寒空
戻ってきた家は温かかったけど、僕の心だけはあの研究所に置いてきてしまったかのように暗く、冷たいままだった。
――ジャルガルが僕といたのは、そのうち僕を研究所に連れ戻すためだったんだ。
それなら、特に必要もないのにずっとジャルガルが僕といたことも納得できる。言われてみれば、ジャルガルから見て僕はずっと「敵」だったんだから、本当は憎まれていても何もおかしくない。
きっと、いつまでたっても連れ戻しが上手くいかないから、いい加減嫌になってしまったのだろう。
——そうだよね、ジャルガル、研究所で働かないと殺されちゃうん……だっけ?
はっきりとは覚えていないが、「敵前逃亡で捕まって、罰として研究所に来た」みたいなことを言っていたような気がする。
――だから、僕に生きてていいなんて言ってくれたんだ。
そりゃそう言うだろう。研究対象が死んでしまったら困るから。
今回だけではない。ずっと――本当は嫌だったけれど、僕に殺されたくないから、自分が生きたいから、ジャルガルは僕に優しくしてくれてたんだ。
まだ研究所にいたころ、僕が痛いと言って泣いていた時に薬を持ってきて手当てしてくれたことも、お菓子をたまに分けてくれたことも、一晩中僕の隣にいてくれたことも。今こうやって僕とひっそりと廃屋に住んでくれていることも、全部、全部――
騙された、気がした。
化け物だと思われながら、ずっと嫌われながら、今まで暮らしていたなんて。そんな相手と知らずに、僕は呑気にジャルガルの帰りを待っていたんだ。
部屋の壁に背中をつけ、膝を抱いて座り込む。尻尾で体を巻くと、すっかり抜けてしまった毛と鱗の下から地肌が見えて、余計に惨めな気持ちになった。
もう何も考えたくない。それなのに、なんで、どうして、という疑問と、ただ自分だけが何も知らずのんびりと暮らしていた悲しさ、どうして気づけなかったんだという怒りが頭の中でごちゃ混ぜになっていく。息をしているはずなのに、それが自分の中に入ってくる気がしない。
ジャルガルが家に帰ってきたのは、窓の向こうが少し明るくなった頃だった。
転移の白い光が消えた後も、僕は壁にくっついたまま俯いていた。ジャルガルが僕のことをじっと見ている気配がするが、その顔はもう見たくなかった。
先に沈黙を破ったのは、ジャルガルの方だった。
「……おい、ノカイ。今日お前……来ただろ、研究所」
「行ってない」
僕がそう答えると、はあ、と呆れたようなため息が聞こえた。
「あのな、黙ってたのは悪かった、けど……お前なあ」
「嘘つき!」
それ以上聞きたくなかった僕は、そう叫んで続くジャルガルの言葉をかき消した。
「だから、このままだと――」
「うるさい! ずっと僕のことなんて嫌いだったくせに! 今更なんだよっ!」
「いいから聞――」
「あああああああ! うるさいっつってんだろ!」
ぐるるる、と喉の奥で唸る。怒ればいいのか、悲しかったと言いたいのか、自分でもわからない。全部嘘だと言ってほしかったけれど、僕が昨日の晩聞いたことが夢だったとも思えない。それに、今の言葉であそこにいたのがジャルガルだったのが証明されてしまった。
上目遣いでジャルガルの顔を見上げる。何かを考え込むような顔をして、少しだけ困ったように眉を下げている。
悪かったって思うなら、せめてもっと申し訳無さそうな表情とか、態度とか、なんかあるだろ。なんで平然としてるんだ。
「ジャ、ジャルガルなんかっ、大っ嫌いだっ!」
「おいノカイ! 待て!」
手を伸ばしてくるジャルガルを突き飛ばして、家の外に飛び出す。
身を切るような寒さの中を走る。むしゃくしゃした気持ちを振り切るように、朽ちかけた家の屋根に四つ足で登り、高く跳ねる。
「ノカイー!」
僕を呼ぶジャルガルの声に、いい気味だ、と思う。もう数件屋根の上を跳び、それから下を見下ろすと、僕を探してうろうろするジャルガルが見えた。完全に僕を見失ってしまったらしく、段々と声が遠ざかっていく。
——思い知れ!
下から見えないように平らな屋根の上にぺたりと体を伏せ、僕は組んだ手の上に頭を乗せた。ふん、と吐き出した息が手の毛について薄く凍る。
少しだけ走ったせいか、ふつふつと湧きたつようだった心が、少しずつ落ち着いていく。
——みんな、僕のことなんて嫌いなんだ。
アリマおばさんも、ジャルガルも。研究所にいたみんなも、あの村の人たちも。きっと僕が知らないだけで、僕のことを嫌っている人はもっと多くいるだろう。
――これから、どうしよう。
こんな姿で人前に出ることはできない。でも、ジャルガルがいなければ僕は自分で料理を作ることもできない。少し考えた僕は、ああ、ともう一度息を吐き出した。
また、前みたいに生きればいいのだ。
ローに出会う前。まだ僕がキマイラになる前。
暗い路地に住んで、そこらの家が出す残飯を漁って、誰かが来たら逃げ出す生活。冬は馬小屋にこっそり忍び込んだり、温かい家の軒先に貼りついたりして、ひっそりと凍える体を温めるのだ。
誰も、僕の名前を呼んでくれない毎日。
――仕方ない。
尻尾を振り、ゆっくりと起き上がる。寒いところにいた体は知らないうちにこわばってしまっていて、手足を伸ばすとバキバキと痛みを伴う音がした。そろそろと屋根から降りると、もうすっかり高くなってしまった日がぼんやりと僕の影を作る。
冷えて乾いた砂の上を歩き出すと、微かに焦げ臭い匂いがした。
「んん……?」
薪ストーブに似ているけれども、もっと強い。ジャルガルと僕の家にストーブは置いてないけど、この村でそんな臭いを出す家は他にないだろう。
もう僕には関係のないことだし、放っておいてもいいのではないだろうか。一瞬そう思ったものの、どうしても気になる。道を戻っていくと、どんどん焦げた臭いが強くなっていく。
「……うわっ! な、なにこれ!」
そっと家の扉を開けると、家の中は薄く曇っていた。燃えるような臭いが強くなり、煙が目に染みる。玄関を開けたまま進んでいくと、どうやら台所が煙の出所のようだ。家じゅうの窓という窓を開け、竈につけっぱなしだった火を尻尾で叩き消す。煙が薄れていくに従って、下から黒焦げになった蒸し器が出てくる。
「んもー……不用心だなぁ」
蒸し器を火にかけたまま忘れてしまったのだろう。このまま放置していたら家ごと燃えてしまうところだった。蓋のつまみに爪を引っ掛けて中を覗くと、肉まんが綺麗に炭になってしまっている。ぶすぶすとした焦げ臭さが自分にこびりつくようで、僕は手の甲で鼻を擦った。
「もったいないなあ、何してんのさ」
言いながら僕は左右を見回した。蒸し器を準備したはずのジャルガルはどこへ行ってしまったんだろう。家の中にはいないようだけれど。
ひょっとして、まだ僕を探しているのだろうか。
そんなはずはない。だってとうの昔に、僕の名前を呼ぶ声は聞こえなくなっていたんだから。てっきり仕事に戻ったんだと思ってたけど、それなら蒸し器を放置していくはずがない。
——肉まんも、多分、二人分だし。
「……火を止めたことくらい、教えてあげてもいいよね」
いなくなった僕をずっと探して困ってほしいような気もしたけれど、それもなんだかジャルガルがかわいそうだった。また家が燃えたら大変だしね、ともう一度言い訳をして、僕は家の外に出た。窓も扉も開けっぱなしだけど、泥棒が来るわけはないしいいだろう。
「……ジャルガルー?」
そっと名前を呼ぶけれど、返答はない。ジャルガルの匂いがしないか空気を吸い込んでみるが、さっきすぐ近くで強烈な焦げ臭さを嗅いでしまったせいか、鼻がうまく働いていないようだ。
「ジャルガル? ねえー、おうち、燃えかけてたよー?」
仕方がないので、名前を呼びながら街の中を歩く。元々町の中央通りだったであろう部分を歩き、それから左右の細めの道へ。どこにもいない。耳を回してみても、返事すら聞こえない。
「ジャルガルー」
ひょっとして、ジャルガルは本当に肉まんのことを忘れたまま仕事に行ってしまったのではないだろうか。僕がそう思い始めたころ、脇道に黒い布の塊のようなものが落ちているのが見えた。
「……ジャルガル!」
慌てて駆け寄り、顔を確認する。やっぱりジャルガルだ。ただでさえ白い顔が蝋のようになっているのを見て、僕はぞっとなった。
「ジャルガル……ジャルガル! ちょっと!」
倒れているジャルガルの顔や体を手の甲で叩くが、ただゆらゆらと力なく体が揺れるだけだ。慌てて顔に耳を寄せると、微かな息が産毛に当たった。だがその頬は、周りの砂と同じほどに冷たくなってしまっている。
「ジャルガル! ねえジャルガル! 起きてってば!」
何度呼び掛けても、反応がない。
——どうしよう。どうすればいいんだ、こんな時。
ローは回復魔法も使えたし、すごく強かったから、何があっても大丈夫だった。どんな怪我も、毒も、すぐに治していた。そもそも病気になったところなんて見たことがない。僕だって、一晩寝れば大抵のものは治ってしまう。
でも、ジャルガルは違う。怪我も病気も治せない。回復力だって低くて、僕が切ってしまった部分は膿んでミミズみたいな傷跡になってしまった。
——まさか、このまま目を覚まさない……なんてこと、ない、よね?
ふっと浮かんだ想像にぞっとする。まさかそんなはずはないだろう、と思うものの、何回呼び掛けても反応を返してくれないジャルガルにどんどん悪い想像が膨らんでいく。
「ジャルガル、ねえ、ジャルガル……?」
――ジャルガルは僕のことなんて嫌いだし、僕のことを裏切ってた。でも……それでも、今まで一緒にいてくれたのは、事実だ。
そっと服の下に手を入れて、ジャルガルを抱き上げる。見た目より軽い体に空恐ろしさを覚えながら、僕は家へと走った。
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