第14話 薄雪

 その日は、珍しくうっすらと雪が積もっていた。


「よっ……こいしょ」


 自分が入れそうなくらいの水瓶を抱え、白い息を吐きながら雪の上を歩く。僕が半分キマイラのまま戻れなくなってしまって三月ほど、その間この体でよかったことはあまりなかったけれども、丈夫な毛と鱗のおかげであまり寒さを感じない点だけは便利だと思う。

 村の端に行くと、ぽっかりと窪んだ大きな穴の中に降りる。昔はこの窪み全部が湖だったらしい。それを示すように、端っこのあたりにわずかに氷が光っている。氷を突き崩し、下に溜まっている水を瓶の中に汲む。来た道を振り返ると、僕が歩いた砂の上に点々と熊のような足跡が残っていた。


 水瓶を抱えて戻る道にはやっぱりヒビだらけの漆喰の壁が並ぶけれど、その並びは研究所から逃げ出した日に降り立った村のものとは違う。あそこでは水を手に入れる手段がなく、暮らしていくのには不便すぎたからだ。

 アリマおばさんの家を出てから、僕たちはいくつか似たような廃村を点々とした。そして、少しだがまだ湧き水の出るこの村に住むことに決めたのだ。住む、というより「住み着く」の方が近いな、とはジャルガルの言葉だ。


「戻ったよー!」


 家――というか、勝手に僕らの住処にしている元廃屋――に戻ると、ふんわりと温かい空気とお茶の匂いが僕を迎える。ジャルガルが加温の印を書いてくれているおかげだ。水瓶を台所に下ろすと、「おかえり」と茶を注いでいたジャルガルが振り返った。

 草色の瞳と視線が合う。何も悪いことはしていないんだけどその視線を見返すことが出来なくて、僕は弾かれたように横を向いた。


「ちょうど朝食もできたところだ」

「う、うん!」


 ジャルガルはそういうけど、本当は僕が水汲みから戻ってくる時間を見計らって作ってくれているのを僕は知っている。

 他の家から運んできた机に向かい合って座り、こちらは買ってきた皿の上に並んだ揚げパンを食べる。お腹いっぱいになるほどの量はないけれど、今の状況でそんな贅沢は言えない。僕がそんなに食べたら、ジャルガルの食べる分がなくなってしまう。

 食事を終えると、ジャルガルは仕事に出かける。


「あ、あのね、ジャルガル」


 もちろん、廃村の中に仕事はない。転移用のスクロールを広げ、さっさと家を出ようとするジャルガルに僕は軽く頭突きをした。薬屋さんの仕事を見つけたらしいジャルガルからは、また昔のようなつんとした匂いがする。


「なん……どうしたよ」

「いってらっしゃい」


 本当はずっと一緒にいてほしい。でも、そんなことを言ったらジャルガルを困らせてしまう。僕がお金を稼げない分、ジャルガルが頑張ってくれているのに。分かっているけど寂しい。額を擦りつけると、耳の後ろを掻くようにジャルガルが僕の頭を撫でた。


「できるだけ、早く戻ってくるから」

「うん」


 前よりも優しくなったような気がするジャルガルの言葉に、尻尾が揺れてしまう。


「それじゃ――」


 何かを言いかけたジャルガルが小さく首を傾げた。僕のほっぺたに柔らかいものが触れる。


「ひゃっ!」


 にやりと笑う口元が見えた気がしたが、スクロールから広がる白い光にかき消されてしまい、すぐに見えなくなる。

 光がすっかり消えてから、僕は手の甲で自分の顔に触った。さっきのは、と考えた途端に火がついたのかと思うほど顔が熱くなってしまう。


「……うう」


 ——発情期が来てから、僕は少しおかしくなってしまった。


 ジャルガルのことを見ているだけでドキドキしてしまう。ずっと見ていたいのに、恥ずかしくて目線を合わせられない。撫でてもらうだけですごく幸せな気持ちになれるのに、もっとほかの所も、いっぱい触ってほしいと思ってしまう。

 一緒に寝るのだって、前はくっつくと落ち着いた気持ちになれたのに、最近はむしろそわそわした気持ちになってしまう。

 今だってそうだ。ジャルガルにキスされたと思うと、顔が熱くなってしまう。それだけならまだしも、発情期が来ているわけでもないのにお腹のあたりがムズムズしてきてしまう。


 ——でも、僕の気のせいじゃなければ、変わったのはジャルガルも同じだ。


 当たり前だけど、前のジャルガルは僕にキスなんてしてこなかった。今のジャルガルは、そう、まるでローみたいだ。


 ――……ロー。


 その名前を思い出した瞬間、僕の中にだけ外の冷たい風が流れ込んできた気がした。

 発情期の間は、自分のことで手いっぱいだった。だけどそれは問題の先送りでしかなくて、結局その後僕は「ローはもう死んでしまった」という事実と向き合うしかなかった。


 最初は、とにかく悲しくて泣いた。ローの顔や言葉を思い出しては、夢でもいいから会いたい、そんなことばっかり考えていた。ローがいないのに、どうやって生きて行けばいいかなんて想像もつかなかった。

 でも、何日もずっと泣いているうちに、少しずつ僕の中にあった悲しみの角は取れていった。ローのことを思い出すと悲しいけれど、心が引き裂かれるような痛さではなく、氷の欠片を手に握った時のような、染み込んでくるような冷たさを感じるように変わってきたのだ。割れていた石が綺麗に削られるようなものかもしれない。


 僕の心の中に空いた穴は埋まっていない。多分、これから埋まることもない。けれどもその穴は暗い洞窟ではなく、時折眺めては昔の景色を懐かしむための窓のようなものなのだから埋める必要もないのだ、と気づくのにはもう少しかかった。

 ローが結局何を考えていたのか、僕には分からないままだ。でも、それでもいいと思えるようになった。


 ——いつか、生きていれば分かることもあるかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、それでいいか、と。 


「あ、しまった」


 はっと気づくと、太陽の位置は思ったより上の方にあった。考え込んでいる場合ではない、切り替えなきゃ。頭を振ると、ジャルガルから貰った耳飾りが揺れる。


「……よし! 今日も頑張ろう!」


 ジャルガルが外で働いてくれている分、僕は僕にできることをやるのだ。手の構造的にナイフやお鍋の取っ手を握れないから料理だけはジャルガルに任せているけれども、代わりに洗濯や掃除は僕の役目だ。湖の横に畑が残っているから、冬のうちにそこの石やゴミを取って耕しておき、春になったら野菜を育てるという目標もある。


 こうやって僕が前を向けるようになったのも、ジャルガルのおかげだ。

 僕が泣きじゃくり、「どうして死んじゃったの」と何度も聞く間、ジャルガルはやっぱり何も答えてくれなかった。

 でも、その代わりジャルガルはずっと僕のそばにいて、悲しみの石を磨き上げる手伝いをしてくれた。

 ジャルガルに撫でられながら、僕はたくさんローとの思い出話をした。出会ったときのこと、はじめてお風呂に入った時の驚き、訓練のこと、勲章をもらったとき、それから――最後に別れた時。

 あらかたローとの思い出を話し終わった時、僕の中で何かが片付いたような気がしたのだ。


「ただいまー」


 日が落ちる頃、畑から戻る。誰もいない室内に声をかけ、炎を吹いてランプに火を点けると、尻尾の影が長く伸びた。これからジャルガルが帰ってくるまでの少しの間は、計算と読み書きの練習だ。もし、畑で野菜が沢山取れて、僕がそれを売りたいなと思ったとして――そううまくいくかどうかまだ分からないけれど――相手と直接顔を合わせるわけにはいかないことに気づいたからだ。

 お金が貯まったら、二人でちゃんとした家に住んで、家具だって揃えたい。


「んー、『私は、家に帰る途中でスフさんに会いました』……?」


 話すのは簡単なのに、書くとなると途端にどうしたらいいか分からなくなってしまう。

 蝋版を爪でひっかきながら問題の答えを書いていると、温まった全身がかゆくなってきた。

 しもやけだろうか。そう言えば、濡れたままでいるとなりやすくなるから注意しろ、とジャルガルに言われた気がする。今までキマイラの姿の時にしもやけになんかなったことなかったから、気にもしていなかった。半分の状態だとそういうところも差が出てくるのかもしれない。


「むうぅ……かゆいぃ~」


 ボリボリと腕や足を掻く。本当はキマイラの状態に戻ってしまえばしもやけなんてすぐに治ってしまうんだけど、ジャルガルには「キマイラに戻ってはダメ」と言われている。不安定な状態でそんなことをすると、二度と人の姿に戻れなくなる可能性が高いらしい。


「ううううう」


 痒くなった時、困るのは背中やお腹の人間部分だ。自分の爪で掻いたら血まみれになってしまうので、ジャルガルに掻いてもらうかどこかに擦り付けるしかない。机の角で背中を掻こうとあれこれ試していると、玄関が白く光った。


「戻ったぞ。ってなんだこりゃ、何してんだノカイ」

「あージャルガル! 背中がかゆいの! 掻いて!」


 帰ってきたジャルガルに背中を向けると、「ああ?」と言いながらも服の上から掻いてくれる。


「直接! 直接やって!」

「ああもう、これでいいか?」

「ああーそれそれ……気持ちいい……もうちょっと右も……」


 首元から入ってきたジャルガルの手が、僕の背中をちょうどいい強さで掻いてくれる。


「……それで、なんだこれは? どうしてこんなことになってんだ」

「え?」


 気持ち良さに目を閉じていた僕が瞼を開けると、部屋中に僕の毛と鱗が散らばっていた。


「毛刈りでもしたのか?」

「し、してないよ!」


 言いながら手首を掻くと、ごっそりと抜けた毛がまた床に落ちた。下からは、なんだか赤くぼつぼつとした皮膚が薄く透けて見えている。


「お、おい、ノカイ、それ」

「えっ?」


 ぎょっとしたような声に振り向くと、ジャルガルの瞳孔が大きく開いていた。


「何? どうしたの?」

「い、いや、その、あー……」


 おどおどと部屋の中をさまよった草色の目が、何度か瞬きしてから僕を見る。


「……ま、最近あったかくしてたからな。春が来たと勘違いした体が換毛期に入っちまったんだろ。ほら、さっさと片付けろ、夕飯が毛だらけになるぞ」


 いつものように口の端を上げるジャルガルだが、なんとなく違和感があった。でも、どこがどう、と言い出せないまま夕飯になる。今日は野菜のスープと茹で肉だ。


「ほら」


 食後に、ジャルガルが職場から買ってきてくれる薬を飲んだら、後片付けをしておしまいだ。後は今日進めた読み書きの課題をジャルガルに見てもらったりして少し時間を過ごし、二人でベッドに入る。


 ――こんな毎日が、ずっと続けばいいな。


 ジャルガルの匂いをかぎながら、僕はふとそんなことを思った。

 こんな体じゃどこにも行けないし、できることも限られてるし、ローもいなくなってしまったんだけど。


 でも、ジャルガルさえいてくれれば、それでいい気がした。

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