第10話 砂漠の夜
辺りの光が消えると、そこは見覚えのあるぼろぼろの室内だった。
研究所から僕が逃げ出した日に、一夜を明かした廃屋。あの日の朝出かけた時のまま、ヒビの入ったコップも机の上に放置されている。
まるで、あの村で――アリマおばさんのお店で働いていたここ数か月のことが、全て夢だったかのように。
「……できれば、これは使いたくなかったんだけどなあ」
ため息まじりにそう言ったジャルガルが、スクロールを巻きなおして懐に入れた。手を引き抜くと、何か光るものが床に落ちる。
「ああもう、こんなもん買うんじゃなかった」
屈んでそれを拾い上げたジャルガルは、「ほら、ちょっと横向け」と僕の頭に掛けていた上着を剥がした。
「あ、うん……?」
言われるまま右を向くと、頭から飛び出すコウモリの耳にジャルガルが触れた。耳の端を細い指先でなぞられた後に、何かが挟みつけられる。
「え? なに?」
「星片石。お前欲しがってたろ」
「ふえっ?」
大きな耳を引っ張ってみると、中ほどの部分に耳飾りがつけられていた。ぶら下がった石が、ほんのりと暗闇の中で光っている。
「ったく……耳飾りなら、万が一キマイラに戻っちまった時でも壊す心配がなくていいかなとは思ったけど……だからって実演しなくてもいいんだよ」
「あ、ありがとう」
壊さないように気をつけながら、爪先でそっと耳飾りに触れる。石のはずなのに、光っているせいかほんのりと温かい気がして不思議だ。
指先を通して僕の中までじわりと何かが広がった気がして――少しだけ、苦しくなる。
「あの、もしかしてジャルガルが出かけてたのって、これ買いに行ってくれてたの?」
「……俺ぁなあ、あんな祭りに一人で行って楽しめるようなガキじゃねえんだよ」
「ごめんなさい、僕、てっきりジャルガルが僕にまた意地悪して……一人で楽しんでるんだとばっかり思ってた」
「また、って何だよ」
ふ、と口の端で笑ったジャルガルが帯から杖を出し、朽ちかけた椅子に座る。杖の先端に灯された明かりが、裂けた服の間にある傷を照らした。まだ乾ききっていない血が、ぬめぬめと黒く光を反射する。
「ジャルガル、もしかして治癒魔法使えないの?」
しまった、という顔をしたジャルガルが、怪我を庇うように左腕の上を押さえた。
「言ったろ、基本的な魔法しか使えないって。いいよこんなん、唾つけときゃ治る」
「その……本当に、ごめんなさい」
右腕を振り下ろした時の感触が蘇る。あの時、ジャルガルが止めに入ってくれなかったら、僕はきっと、もっと取り返しのつかないことをしていた。
別に、ともごもごとジャルガルが呟く。
「ほ、ほら。それで……あれだ。聞きたいことあるんだろ、俺に」
その言葉に、僕は急に夜の冷え込みを感じた。上着の前を掻き合わせて、椅子に浅く座る。そうしないと、これからのことを受け止めきれない気がした。
「……うん」
言葉が喉に引っかかってしまうようで、うまく喋れない。でも、向き合わなくてはいけないことだという確信があった。
「えっと、まず……火あぶりにされていた人形は処刑された人ので、それで、そこにローの人形があったってことは……」
ゆっくりと、ぐちゃぐちゃに浮かんだ疑問を整理しながら口にしていく。
「ローは……もう……しょ、しょっ……」
吐きそうになって口を押さえる。ローがすでにこの世にいないなんて、考えたくもなかった。だって。ローは「また会える」って言ってくれたのに。信じてたのに。
椅子を引っ張ってきたジャルガルが、僕の隣に座りなおした。背中に置かれた手に、ようやく息が吸えるようになる。
「その通りだ。ローは、終戦の時に処刑された。というか……ノカイ以外のキマイラも、馭手も、全員……もう、いない」
ひゅっ、と喉から変な音がした。
「ノカイはローから『俺たちに逆らうな』って言われてたんだろ。でも、他のキマイラはそうじゃなかった。馭手以外の言うことなんて聞かないし、肝心の馭手たちは『投降するくらいなら』って捕まる前に集団自殺してたらしいし――本当かは知らないけど――どうしようもなかったんだ」
「そん、な……」
僕の脳裏に、ローと部隊のみんなの顔が浮かぶ。
——会えないんだ。もう。二度と。
ぽろぽろと、目から熱いものが零れていく。頬を伝って膝に落ちる頃には、涙は冷たい雫に変わっていた。
足先から、ぞっとするほど体が冷たくなっていく。体の肉が削がれて、それが徐々に氷に変わっていっているようだ。でも、やっぱり、と思う冷静な部分が残っているのは、自分でも薄々感づいていたからだろう。
「黙っていたのは本当に悪かった。でも、怖かったんだ。馭手がいないって分かったら、ノカイに手がつけられなくなるんじゃないかって思って。他のキマイラを担当した奴みたいに、俺も殺されるんじゃないかって……」
「そ、そんな! 僕はジャルガルを、こ、殺したり……なんか……」
そんなことしない、と言おうとして、さっき自分がしたばかりの行為を思い出して言葉が尻すぼみになる。
「……そうしたかったわけじゃないのは、分かってる」
――でも、そうしてしまうところだった。
背中にあったジャルガルの手が、僕の肩を伝って降りてくる。膝の上にある手を握られ、肉球に指先が触れた。薄い肌越しに伝わってくる体温。握り返したいと思うけれども、ジャルガルの手を切り裂いてしまいそうでできない。
「あんな……火あぶりになってたってことは、ローは、悪い人だったの? 僕のことを騙してたの?」
涙を流しながら、僕は質問を重ねた。
「さあな。俺が知るわけねえだろ」
「え?」
予想外の答えに、一瞬だけ涙が止まる。
「向こうは敗戦国の将軍なんだし、いい奴だろうが悪い奴だろうが、処刑されるのは仕方ないだろ。俺はお前の話でしかローのことは知らないし、どんな奴かなんて分かんねえよ」
「でも……」
「そりゃあ、負けた奴のことは悪く言うもんだ。あの時より暮らしぶりが豊かになったとしたら尚更だ」
「そう……なの?」
「そうだよ。人間って奴は、その時々で都合のいいことばっかり言うんだよ」
そういったジャルガルは、ふっといつもの皮肉っぽい笑い方をした。
「大体ノカイ、『ローのことを一番知ってるのは僕だ!』ってずっと言ってたじゃねえか。そんなこと俺に聞くんじゃねえよ」
「だ、だって……分かんないんだもん」
「ノカイ、考えろ。お前はどう思うんだ。お前の知っているローは、人のことを騙したりするような奴だったのか? 心で繋がってたんだろ?」
ローは優しくて、強かった。路地裏でお腹を空かせていた僕を拾ってくれて、ふかふかの寝床とご飯をくれた。誕生日がなかった僕に「じゃあ二人が出会った日を誕生日にしよう」と言ってくれたし、二つも名前をくれた。だから――だから、僕はローのために強くなりたくてキマイラになったし、どんな敵にだって立ち向かっていけた。
でも、もう分からなかった。僕が正しいと教えられてきたことは何だったのか。自分がしてきたことは何だったのか。
確かめたくても——ローは、もういない。
しんしんとした冷たさが、心の奥まで染み込んでくる。
鼻をすすった僕は、ベタベタになった頬を袖で拭った。もう片方の目の下も袖で拭いている間に、また次の涙が落ちていく。
「……ねえ、ジャルガル、僕……生きてていいの?」
揺れるテーブルの影を見つめて呟くと、手に触れたジャルガルの手がびくりとなった。
「ノカイ?」
「だって……ローはもう……」
キマイラと馭手は、一蓮托生だ。どちらかが生き残ることは許されていない。さっきジャルガルが「馭手は集団自殺していた」と言っていたのも、多分、本当は――自殺ではなく、相棒のキマイラが殺したのだ。
敵に負けそうになったら、そうするのが規則だ。
その後キマイラだけで、死ぬまで戦うのだ。
あの時、僕もそうしようとした。でも、ローに「また会えるから」と言われてやめたのだ。
「ローがいないのに……僕だけ生きててもいいの?」
「な、何いってんだノカイ!」
椅子を倒して立ち上がったジャルガルが、僕を抱きしめてきた。
鼻先が弾力のあるものに押し付けられ、ジャルガルの匂いでいっぱいになる。
「い……いいに決まってんだろ!」
「僕なんて、いないほうがいいんじゃないの……?」
「そんなわけあるかよ」
腕の力が強くなる。答えられずにじっとしていると、やがてジャルガルは悔しそうにため息をついた。
「ノカイ……もう、いいんだ」
「なに、が……?」
「戦争は終わったし、ローもいない。自分の好きに生きていいんだ」
そんなことを言われても、と思う。
「わかんないよ。どうしたらいいのさ」
僕たちは、戦うために生み出された。それ以外のことなんて、何も知らない。
知りたくもない。
「お前の人生なんて、俺に分かるわけねえだろ」
そしてジャルガルは、僕に答えを教えてくれない。
僕が黙ったままジャルガルの胸に顔を埋めていると、耳飾りを触られる感触がした。そのまま耳の裏を掻いてもらうのは、少しくすぐったいけど気持ちいい。
「……似合ってるよ、ノカイ」
「ん……」
ずっと膝の上にあった手を、そっとジャルガルに伸ばす。爪を立ててしまわないように気をつけながら手を回した腰は、思ったよりしっかりしていた。
ぽっかりと胸に空いてしまった穴を塞ぐように、自分からもジャルガルに体をくっつける。
また叱られるだろうか。上目遣いでジャルガルの顔を見ると、なぜか泣きそうに潤んだ瞳に見つめられていた。
細い指先が伸びてくる。この数ヶ月ですっかり荒れてしまった皮膚が、僕の薄い唇に引っかかる。それがなんだか無性に悲しくて、僕は声を上げて泣いた。
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